大学の先生も入った討論番組でよく言われる話で、最近の学生のレポートが、ネットを使ってまとめたと思われる、薄っぺらいレポートしか書いてこない、という嘆きや批判を聞くことが多い。
ことの良し悪しは別にして、田中真紀子文部大臣が新設大学設置申請の不許可騒動も、大学の質やレベルが低下したことが問題の一つとしてあげられているが、冒頭に述べたことは、その具体的事例の一つだろう。
その議論の中で、ネットで調べた内容は薄っぺらいかどうかという話であるが、それはネットのせいではなく、レポートを書く本人の能力(情報処理能力や判断力や知識)の問題ではないかと私は思っている。
ネットは単に資料なり意見なりを掲載している媒体にすぎない。
ネットには、正確で高度な情報もあれば、迷信や虚偽情報も無数にあるし、評論や評価も同様である。
もっと言えば、それは出版物でも全く同じなのだ。
出版物も単なる媒体に過ぎなくて、本や新聞がが正確で、ネットが疑わしいというのは違うような気もする。
しかし、本や新聞の場合、学術誌や専門出版社・総合出版社や大新聞社は、掲載時に組織的に権威ある専門家なり編集者のチェックが入るので、そうした出版物が学術的にもっとも信頼されているのは事実である。
ネットで偽情報や、推測の情報は多く飛び交っている。
ネットでの発信は、組織的にチェックされているものが少なく、個人的に書いたものが圧倒的に多い。
立派に見えるウエブサイトでも、個人で簡単に作ることが出来る。
しかし、Webサイトの外見は立派でもそのコンテンツが正確かどうかはわからない。
個人が発信した情報はチェックされていないので、書いている人を信用するしかない。
しかし、ネットの掲示板上では匿名が普通なので、正式な情報としては、信頼できない場合が多い。
ネットでは、学術雑誌の電子版ですら、内容に関しては、雑誌と違って簡単なチェックしか入らないという。
ネット上のコンテンツで、コンテンツの信頼性を保証するシステムが組織的に確立していない場合が多いので、参考にしようとするネット情報については、運営している組織や会社や個人が信頼できるかどうかで判断するしかないだろう。
その意味で、ネット上の学術的な最新情報は厳密な正確さにかける可能性があると言えるのだろう。
ただし、時間がたてば、コンテンツのチェックシステムが確立しているところは、評価され出版物と同等の評価を受けるようになる可能性はあるのだろう。
多分「ネットを使ってまとめたと思われる、薄っぺらいレポートしか書いてこない」という嘆きは、そんな高度な話でなく、それ以前のレベルの、他人の書いたネット上の話や分析や正確かどうか分からないネット情報に頼って、能力の低い学生が、無批判(参考にしたコンテンツの内容を、自分で検証・考察や理解もせずに)にレポートに引用したり、参考にして書くという点を指したものだろう。
ネットのコンテンツは、紙媒体と比べ正確さの保証は無いかもしれないが、それでも、近年ネット上のコンテンツの量には目を見張るものがある。
例えば、ウイキペディアを見れば、最新の高度な情報が掲載されていることが多いし、検索すれば専門家が詳しく解説していて、専門的なかきこみも多い。
だが、分野によれば、非常に手薄な分野や、情報の古いものや、欠落しているものや、情報自体が間違っている場合があるのも事実だ。(ウイキペディアですら、たまに間違っている情報が掲載されていることがある。)
ただネットには、それ以上に速報性の強みがある。
ネット媒体は、社会の流行や最新の研究成果の発表に関しては、多分最も反応が早い。
特に芸術や、最新の製品や流行やデザインやファッションに対する分析とか評価に関しては、実際の社会でもそれが、話題になりマスコミや雑誌等で評価されるのには時間がかかるが、ネット上では個人の意見や反応がすぐにネット上で共有され、広がる。
流行でマスコミ等の出版物やTVに話題にされたときは、すでに流行のピークに近いことも多いのではないかと推測されることもある。
だが、前に述べたようにネット上の研究成果等の速報版は専門家のチェックが入っていないので、誤った研究成果がそのまま流される可能性があることは、現実のこととしてニュースの中で話題になり多くの人に知れ渡った。
あらゆることに関して、現代社会で最初に評価を定着させるのは、マスコミでしかない。
ネットの情報発信力と、マスコミの発信力では大きな差がある。
しかもマスコミには、情報のチェック機能が完備しているので、信頼されている。
我々は、最終的にマスコミを通じて世界の流れや世間の流れや反応を知り、刺激を受けている。
その「こと」(事件・娯楽・文化芸術・・)の報道によって発生した世界の大衆の反応を、再び瞬時にマスコミが吸収消化し再び反映して、オーラルに影響しあいながら、アナウンス効果も含め、評価や評判が定着していくものと考えられる。
現代では、大衆の意見の多くがネットに反映され、マスコミもネットが大衆の意見の反映の一つとして注目し、それにひきづられる。(ただし開発途上国ではネットは普及していない。)
しかしネットの意見が、大衆の平均値であるとは限らない。
簡単な話、中高年の人がネットで意見を発信する人は、若者に比べ少ないだろうということは想像がつく。
また一部の人の発信力が非常に強かったり、テクニカルな手法で世論を誘導することも現実に起きているだろうし、過激で単純な評価のほうが、ネット上で支持を受けやすい傾向があるような気がしている。。
マスコミではニュースや話題を取捨選択するときに、新聞雑誌等の出版物系ではマスコミ内の編集者・デスクの意見が強く、TVのワイドショー等では、TV局の責任者が選んだ、いわゆるコメンテータと呼ばれる評論家・専門家・識者の影響力は非常に強いと考えられる。
マスコミの影響力は、TVが今でも世論を動かす力を一番持っているように思われる。
しかし、そのテレビも詳細な問題分析評価等は、新聞社の分析論調を参考にし、影響を受けているように見える。
少なくともマスコミで、ネット上の意見を本格的に取り上げることは、現在の段階では未だないようだ。(試行段階ではある。)
そのようなことを考えた場合、各国で新聞社が閉鎖に追い込まれるのは、問題だろう。
新聞社は、取材力や分析・評価判断力が組織的に構成されている組織体である。
ネットや、時間と共に消えるコンテンツを持ちスポンサーの意向を気にする商業TVでは、新聞の情報に対する信頼性の高さは、真似が出来ない。
また、新聞が無くても他のマスコミがあるので、情報に不自由しないのも事実であるが、オピニオンリーダー的働きや分析や解説をする媒体が減り、議論の深化が少なくなる可能性がある。
新聞社が閉鎖されれば、ある意味国民的文化財産が消えることになる。
それは、大学や研究所がなくなることと、同等の意味を持っている。
新聞離れを食い止めるには、新聞社自身が、国民や地域住民に各新聞の存在価値を認めてもらう知的活動として、住民を巻き込んだ国や地域の問題の掘り起こしや、提言、評価・批判活動をし、政治経済・福祉・文化芸術・スポーツ・環境といった分野を評価・活性化するための、「こと」の働きをより盛んにするべきなのかもしれない。(各新聞社では、すでにスポーツ行事や各種文化芸術のコンクールや、カルチャースクールや文化講演会等実施している。)
参考
今回冒頭で述べた、大学でのレポートに関して言えば、理工科系のレポートでは、実験研究に関するテーマが多いので、ネットを参照して書くことは少ないと考えられる。
多分、ネットを引用して書く薄っぺらいレポートは、文科系のレポートではないだろうか。
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ことの良し悪しは別にして、田中真紀子文部大臣が新設大学設置申請の不許可騒動も、大学の質やレベルが低下したことが問題の一つとしてあげられているが、冒頭に述べたことは、その具体的事例の一つだろう。
その議論の中で、ネットで調べた内容は薄っぺらいかどうかという話であるが、それはネットのせいではなく、レポートを書く本人の能力(情報処理能力や判断力や知識)の問題ではないかと私は思っている。
ネットは単に資料なり意見なりを掲載している媒体にすぎない。
ネットには、正確で高度な情報もあれば、迷信や虚偽情報も無数にあるし、評論や評価も同様である。
もっと言えば、それは出版物でも全く同じなのだ。
出版物も単なる媒体に過ぎなくて、本や新聞がが正確で、ネットが疑わしいというのは違うような気もする。
しかし、本や新聞の場合、学術誌や専門出版社・総合出版社や大新聞社は、掲載時に組織的に権威ある専門家なり編集者のチェックが入るので、そうした出版物が学術的にもっとも信頼されているのは事実である。
ネットで偽情報や、推測の情報は多く飛び交っている。
ネットでの発信は、組織的にチェックされているものが少なく、個人的に書いたものが圧倒的に多い。
立派に見えるウエブサイトでも、個人で簡単に作ることが出来る。
しかし、Webサイトの外見は立派でもそのコンテンツが正確かどうかはわからない。
個人が発信した情報はチェックされていないので、書いている人を信用するしかない。
しかし、ネットの掲示板上では匿名が普通なので、正式な情報としては、信頼できない場合が多い。
ネットでは、学術雑誌の電子版ですら、内容に関しては、雑誌と違って簡単なチェックしか入らないという。
ネット上のコンテンツで、コンテンツの信頼性を保証するシステムが組織的に確立していない場合が多いので、参考にしようとするネット情報については、運営している組織や会社や個人が信頼できるかどうかで判断するしかないだろう。
その意味で、ネット上の学術的な最新情報は厳密な正確さにかける可能性があると言えるのだろう。
ただし、時間がたてば、コンテンツのチェックシステムが確立しているところは、評価され出版物と同等の評価を受けるようになる可能性はあるのだろう。
多分「ネットを使ってまとめたと思われる、薄っぺらいレポートしか書いてこない」という嘆きは、そんな高度な話でなく、それ以前のレベルの、他人の書いたネット上の話や分析や正確かどうか分からないネット情報に頼って、能力の低い学生が、無批判(参考にしたコンテンツの内容を、自分で検証・考察や理解もせずに)にレポートに引用したり、参考にして書くという点を指したものだろう。
ネットのコンテンツは、紙媒体と比べ正確さの保証は無いかもしれないが、それでも、近年ネット上のコンテンツの量には目を見張るものがある。
例えば、ウイキペディアを見れば、最新の高度な情報が掲載されていることが多いし、検索すれば専門家が詳しく解説していて、専門的なかきこみも多い。
だが、分野によれば、非常に手薄な分野や、情報の古いものや、欠落しているものや、情報自体が間違っている場合があるのも事実だ。(ウイキペディアですら、たまに間違っている情報が掲載されていることがある。)
ただネットには、それ以上に速報性の強みがある。
ネット媒体は、社会の流行や最新の研究成果の発表に関しては、多分最も反応が早い。
特に芸術や、最新の製品や流行やデザインやファッションに対する分析とか評価に関しては、実際の社会でもそれが、話題になりマスコミや雑誌等で評価されるのには時間がかかるが、ネット上では個人の意見や反応がすぐにネット上で共有され、広がる。
流行でマスコミ等の出版物やTVに話題にされたときは、すでに流行のピークに近いことも多いのではないかと推測されることもある。
だが、前に述べたようにネット上の研究成果等の速報版は専門家のチェックが入っていないので、誤った研究成果がそのまま流される可能性があることは、現実のこととしてニュースの中で話題になり多くの人に知れ渡った。
あらゆることに関して、現代社会で最初に評価を定着させるのは、マスコミでしかない。
ネットの情報発信力と、マスコミの発信力では大きな差がある。
しかもマスコミには、情報のチェック機能が完備しているので、信頼されている。
我々は、最終的にマスコミを通じて世界の流れや世間の流れや反応を知り、刺激を受けている。
その「こと」(事件・娯楽・文化芸術・・)の報道によって発生した世界の大衆の反応を、再び瞬時にマスコミが吸収消化し再び反映して、オーラルに影響しあいながら、アナウンス効果も含め、評価や評判が定着していくものと考えられる。
現代では、大衆の意見の多くがネットに反映され、マスコミもネットが大衆の意見の反映の一つとして注目し、それにひきづられる。(ただし開発途上国ではネットは普及していない。)
しかしネットの意見が、大衆の平均値であるとは限らない。
簡単な話、中高年の人がネットで意見を発信する人は、若者に比べ少ないだろうということは想像がつく。
また一部の人の発信力が非常に強かったり、テクニカルな手法で世論を誘導することも現実に起きているだろうし、過激で単純な評価のほうが、ネット上で支持を受けやすい傾向があるような気がしている。。
マスコミではニュースや話題を取捨選択するときに、新聞雑誌等の出版物系ではマスコミ内の編集者・デスクの意見が強く、TVのワイドショー等では、TV局の責任者が選んだ、いわゆるコメンテータと呼ばれる評論家・専門家・識者の影響力は非常に強いと考えられる。
マスコミの影響力は、TVが今でも世論を動かす力を一番持っているように思われる。
しかし、そのテレビも詳細な問題分析評価等は、新聞社の分析論調を参考にし、影響を受けているように見える。
少なくともマスコミで、ネット上の意見を本格的に取り上げることは、現在の段階では未だないようだ。(試行段階ではある。)
そのようなことを考えた場合、各国で新聞社が閉鎖に追い込まれるのは、問題だろう。
新聞社は、取材力や分析・評価判断力が組織的に構成されている組織体である。
ネットや、時間と共に消えるコンテンツを持ちスポンサーの意向を気にする商業TVでは、新聞の情報に対する信頼性の高さは、真似が出来ない。
また、新聞が無くても他のマスコミがあるので、情報に不自由しないのも事実であるが、オピニオンリーダー的働きや分析や解説をする媒体が減り、議論の深化が少なくなる可能性がある。
新聞社が閉鎖されれば、ある意味国民的文化財産が消えることになる。
それは、大学や研究所がなくなることと、同等の意味を持っている。
新聞離れを食い止めるには、新聞社自身が、国民や地域住民に各新聞の存在価値を認めてもらう知的活動として、住民を巻き込んだ国や地域の問題の掘り起こしや、提言、評価・批判活動をし、政治経済・福祉・文化芸術・スポーツ・環境といった分野を評価・活性化するための、「こと」の働きをより盛んにするべきなのかもしれない。(各新聞社では、すでにスポーツ行事や各種文化芸術のコンクールや、カルチャースクールや文化講演会等実施している。)
参考
今回冒頭で述べた、大学でのレポートに関して言えば、理工科系のレポートでは、実験研究に関するテーマが多いので、ネットを参照して書くことは少ないと考えられる。
多分、ネットを引用して書く薄っぺらいレポートは、文科系のレポートではないだろうか。
ネットSNSマスメディア・情報マスコミ問題等コミュニケーション関連(このブログは左記リンクのカテゴリー別「ネットSNSマスメディア・情報マスコミ問題等コミュニケーション関連」ホルダーに収納しています。
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