フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Anise Koltz <<Dieu est mort. Finis, Fleurs...>> (3)

2016年05月18日 | 外国語学習

 [試訳]

 例えばギユヴィックはこう言っている。「詩とは、途方もない冒険です。私には虚空に、空間ですらない虚空に存在するという感じがわかります。それは理性に支配された宙ではなく、何物とも知られないものによって律せられた宙なのです。それはまさに聖なる場であり、何かに満たされた虚空の、虚無が充満した狂気…。」

 実際、様々な時代の底から上り来った下意識の衝撃や一条の光が、意識と融合することがある。そうしたものが詩に思いがけない展望をもたらし、意味や精神にも謀反する可能性を与える。詩人はその創造的な力に身を預けることによって、深く埋もれてしまっていても、万物と自分を結ぶ直すその根を見出すことができるのだ。

 つまり詩には、まだ存在しない、あるいは決して存在することにない現実の投射を、含み持つことが可能となるのだ。

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 misayoさん、Mozeさん、今回も訳文ありがとうございました。le grand Tout は、Mozeさんが訳されている通り、いわば宇宙的な、存在すべてを含んだ「万物」という意味合いでしょう。たしかに、ギユヴィックの引用の箇所など、これだけの引用では、わかったような気になるしかないのかもしれません。

 先日、年数回しか足を運ばない小さな書店で、吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔つかみとれ!』(講談社新書)を見つけ、読みました。谷川俊太郎とともに、生業として詩を職業とする、日本で数少ない、今年七十七歳になる「詩人」です。吉増さんの詩はこれまで数篇読みかじった程度だったのですが、このひとがどんな時代を生きてきたのか、詩人が生きてきた時代が、わずかでもこの今の自分の生活につながっているのか、そんなことが知りたくて読んでみました。時代的な発見は幾つかありましたが、普段はそう簡単に手が出せない吉増の詩の何編かも同書の中で紹介されていて、この詩人の詩的宇宙に、わずかですが触れることもできました。

 それでは、次回この序文を最後まで読んでしまいましょう。6月1日(水)に試訳をお目にかけます。

 


Anise Koltz <<Dieu est mort. Finis, Fleurs...>> (2)

2016年05月04日 | 外国語学習

 [試訳]

 私たちの生活は今や大部分科学技術や原子力などに基づいている。私たちの知性、少なくとも一般的な人間の知性や知識は、もはやその爆発的な進展について行けなくなり、高度な技術により著しく変容するこの世界に、私たちは対立してしまっている。

 そして、そのあらゆる分野で私たちを凌駕するこの世界に、私たちは今や再び文盲として対峙することとなった。かつて人間は未来を恐れていたけれども、今日未来が人間を恐れている。

 それでも、そこから私たちの生には意味などないと言うことは、私には正しくないように思える。本当のところ、世界には様々な道があるように、生は多くの意味を含んでいる。

 ノヴァーリスはかつてこう語っていた。私たちの不幸は「現実の闇の部分を考えないことだ。目に見える部分しか現実とは見なさない」ことだと。

 実際、詩もまた現実のこの闇の世界の一部なのだ。

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 せっかくの連休だというのに、misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。「未来が人間を恐れる」とは、日々進化を遂げる科学技術の飛躍的進展によって、この先一体何を可能にするかわからない、私たちの不遜さを言い表したものではないでしょうか。

 モディアノ、そういえば昨年の今頃彼のノーベル賞受賞講演を読んでいましたね。そんなことがきっかけとなって、彼の地の作家と繋がりができたのであれば、うれしい限りです。

 それでは、次回はp.9. peut-être jamais. までの試訳を18日(水)にお目にかけます。Shuhei


Anise Koltz : Dieu est mort. Finis, fleurs... (1)

2016年04月20日 | 外国語学習

[注釈]

 *les yeux fermés de peur…:ここは非人称構文なのですが、誰の目かと問えばnos yeuxとなるのでしょう。ですから、ここは反語表現ですね。

 *Finis, fleurs et petits oiseaux  もちろんLes fleurs et petits oiseaux sont finis.ということです。現代において詩は、もうは花鳥風月を朗詠するものではなくなったということでしょう。

 

[試訳]

アニーズ・コルツ「花も小鳥も絶え、神は死んだ」

 ひとフレーズ書き付けるとたちまち、訳が分からなくなって、どうしょうもなくなり、それを打ち捨ててしまって、続くフレーズではもう反対のことが言いたくなる。というのも、本質は私から逃れてゆくという印象をいつも拭えないからだ。物事には二つの面があって、本質は隠された面に潜んでいる。

 詩は私たちの時代の成り行きを明かさなければならないだけに、そう思わざるをえない。

 さて、かつて人類の歴史でこの世紀ほど野蛮な世紀はなかった。恐怖は絶えることなく、世界のあらゆるところで増殖している。これほどの悲惨さ、腐敗、支配を前にして、私たちはなす術もない。数々の惨劇を前にしても、その暴力に私たち自身が打ち砕かれることを恐れるあまり、目をつむってそれをやりすごすべきなのか?

 それだからこそ詩人はまた、自分たちを取り巻く世界を前にしてその位置どりを決めなければならない。

 花も小鳥も絶え...神は死んだ! ただ人間だけがおのれと向かい合い、世界と対峙している。その人間に、自分の命と他者の命のその全き責任がかかっている。私たちひとり一人が、なんのガイドも、羅針盤も、手引きもなく、自分を見失おうとしている。 

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 misayoさん、Mozeさん、新年度早々訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。

 熊本・大分の地震の報道を聞いてフランスの友人が、そちらは大丈夫ですか、とメールをくれました。心配してくれたお礼とともに、大地が必ずしも磐石でないことが、私たち日本人の精神に深い刻印を残しているはずだ、と返事をしました。とにもかくにも余震がおさまること、必要な物資が被災された人々の手に届くことを願わずにはいられません。

 さて、読み終わってしばらく時間が経ちましたし、様々な媒体ですでにいくつもの書評が出ているのですが、中島岳志・島薗進『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)をやはり少しご紹介しておきます。

 タイトルにある問いに対する答えとして、島薗氏は大変危惧を持ってOuiと答えています。その危惧を、おもに明治維新以降の日本の宗教史を辿りながら詳らかにしたのが本書です。この方面に全く無知だったので、実に勉強になりました。少しだけ引用しておきます。

 

 中島 国家神道は、「宗教」というカテゴリーには含まれなかったわけですね。いわゆる「神社非宗教説」ですね。(...)

 島薗 つまり、近代西洋にならって政教分離はしているが、国家神道については国家に属するものである、他の宗教とは次元が違うのだ、ということです。この二重構造の中で、国家神道は諸宗教を組み込んでその上に乗っかることができるように、明治維新の時にすでに構想されていた。

 だからこそ、この対談では昭和の時代だけではなく、明治維新にまでさかのぼって見ているのです。

 

 いかに不案内でも、歴史に無関心ではいられないのだと、あらためて反省を促された一冊でした。多くのひとに読まれるべき良書だと思います。

 それでは、次回はp.8. ce monde nocturne du réel. までの試訳を5月4日にお目にかけます。Shuhei


ミッシェル・トゥルニエ「魂と肉体」(3)

2016年02月24日 | 外国語学習

[試訳]
 だから魂は身体を維持・管理しなければならない。ちょうど騎手が馬をいたわるように。ジャン=ジャック・ルソーは言っている。「身体は弱っていると、それだけ要求が多く、丈夫であるほど従順である。」身体を馬と見做すと、今度は精神を伴ったものとして、身体の株が上がることになる。軽やかな魂がまるで鉄球をつながれているように、卑俗で聞き分けのない欲に満ちた肉体を引きずっているという見立てが、やがて、動物のように純朴で、賢く、汚れのない身体が、悪徳に染まり、倒錯し、自分をも手にかけてしまう魂に手綱を握られている、という見立てに取って代わられる。身体がアルコール、タバコ、モルヒネの中毒になるのは、魂がその至らなさを肉体に付け回したからではないだろうか。健全な身体が初めてアルコールやタバコ、ドラッグに触れても、身体は激しい拒否反応を示すが、それは健康そのもののあり方だろう。身体がこうした倒錯に耐えられるのは、魂がそう仕立て上げたからだ。
 身体のこうした名誉回復は、「肉体の復活」というキリスト教の教義に、その宗教的な形を見ることができる。それによれば、いくつもの時代を経たのちに、死者たちは、聖パウロが栄光に満ちたと形容する(コリント人への書簡一、十五)肉体をもって生命に回帰することになる。キリスト教神学者はこの新たな肉体に、つぎの四つの本質的な特性を付与している。すなわち、輝き、敏捷さ、精妙さ、そして冷静さを。

引用

自由で、甘えん坊で
宴に招かれるほど肉体と仲のよい魂よ
今お前は降り立ったのだ
青白い光を発する、苛烈な、むき出しの地に
そこではお前はもう、今までのような戯れに耽ることも許されない
                     ハドリアヌス帝
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 misayoさん、Mozeさん、少し慌ただしかったと思いますが、今回も訳文ありがとうございました。ぼくから特に付け加えることは何もありません。
 先日まで、ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』(新潮社)を読んでいました。ベンガル語を母語としアメリカで暮らす両親のもと、米国で教育を受け、今や現代アメリカ文学を代表する作家となったラヒリが、30歳を超えてからイタリア語に魅せられ、その後精力的にイタリア語を学び、ついには夫・子供とともにローマに移住するまでになります。そんな彼女がはじめてイタリア語で綴ったエッセイと掌編小説を収めた作品です。どのページにも、外国語を学ぶことの困難と喜びに満ち溢れています。フランス語を長く学んできたみなさんにも、ぜひ手に取ってほしい一冊です。
 それでは、しばらく春休みをいただいて、また花の盛りにお目にかかることにします。Shuhei


ミッシェル・トゥルニエ「魂と肉体」(2)

2016年02月16日 | 外国語学習

[注釈]
 *Il nous en apprend plus qu'aucun… :en は「身体を研究することによって」という意味合いでしょうか。
 *L'a^me doit se fe'liciter...elle doit pleurer… :il faut…のあとですから、前者は「義務」、肉体が滅びる時のことを言及した後者は「強い推量」としました。
 
[試訳]
 ルネサンス期解剖学の発展とともに広まった別の見方によると、私たちの肉体は絶好の研究対象となる。何にもまして肉体は、自然法則について私たちに多くのことを教えてくれる。というのも、私たちは内部から自然を生きているからだ。身体の研究は賛嘆に満ちたものであったろう。古代彫刻はそれに先んじて身体の外側の美しさを讃えていたことになる。私たちは解剖学と生理学によって、身体がどんなに見事な機械であるかを学んだのだ。なるほど肉体は傷つきやすい。しかしながらそれは、肉体が合理的にできているからでもある。私たちが物質世界で敏捷に動くことを求めるのであれば、肉体が衰えるリスクもまた受け入れなければならない。こんなに精妙な道具を思いのままに操り、この生命世界に身を寄せられることを、魂は喜ばなければならないし、またその肉体が滅びる日には、こんなにも素晴らしい相棒との別れに、きっと涙することだろう。
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 お忙しい中、misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。次回は、前回お知らせしたように、24日(水)にこの文章の最後の部分の試訳をお目にかけます。それでしばらく春休みとさせてください。
 ずいぶんと力強くなった陽射しは別にしても、まだ2月ですから風も冷たいはずてすが、暖冬に慣れた身体にはここ二三日の寒さはこたえますね。みなさんも、どうかお身体には気をつけてください。Shuhei


ミッシェル・トゥルニエ「魂と肉体」(1)

2016年02月10日 | 外国語学習

[注釈]
 *sa situation ici et maintenant : sa は、もちろん「肉体の」ということです。
 *Et de quelle exigences… : être d'un +形容詞で感嘆文となります。ex. Ce ciel est d'un bleu ! le siège とは、肉体としてこの世に留まることでしょう。

[試訳]
 「魂と肉体」
 魂とは、肉体に住まう、不可欠で、永遠不変の要素である。それは宗教的な概念であり、精神と混同されてはならない。文化も、記憶も、想像力も精神に属し、それらは年齢により、状況により変化しうる。眠っている者、酔っ払い、狂人は、その精神状態によって規定されるのであって、それぞれの魂によってではない。魂は命のある間だけ肉体に囚われている神的な光明である。死は魂の解放なのだ。
 これが、魂と肉体の関係についての、プラトン的、ネオプラトン的、キリスト教的なおおよその考え方だ。それは、肉体により魂に課せられた物理的な隷属を強調する。肉体とは、空間と時間における、今・ここの状況であり、弱さであり、老いであり、欲求であり、病である。またそれは栄養を与え、衣服をまとわせ、手入れをされなければならない。肉としてこの世に居座ることは、なんと面倒な、なんと苦しみの多いことだろう!
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 misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。いかがでしたか。歯切れのよい文章とは、こういうもののことを言うのでしょうね。
 さて、このテキストを年度内に読んでしまいたいので、少し変則的になりますが、次回を17日として、un aussi adimirable compagnon. までの試訳をお目にかけます。そして、24日(水)を今年度最終回とし、et l'impassibilité. までを読みます。
Shuhei


ロラン・バルト『明るい部屋』(5)

2016年01月27日 | 外国語学習

[注釈]
une valeur morale, une valeur supérieure, une valeur civile. : 母が優先させたのは、大仰な価値ではなく、ささやかなune valeur civile だった、と読みました。

[試訳]
 けれどもこれらの母の写真の中にはいつも特別に、大切に守られた場所があった。それは、母の目の明るさだった。なるほどそれは、このまなこが発する光、色彩が写真に残す痕跡、母の緑青の瞳に過ぎなかった。でもそれはすでに、母を母として特徴づける本質、大好きなあの面立ちの精髄へと私を誘う一種の媒介であった。それから、これらの写真の一枚一枚は、それがどんなに不完全であろうと、母が写真に「撮られる」度に感じていたに違いない感情を、そのまま表していた。つまり、頑なに拒むことも「態度」になることを恐れて、母は写真にその身を「預けていた」。母はレンズの前に立つという(避けようのない)試練を見事に乗り越えていた。それも「慎ましやかに」(かといって芝居がかった耐え忍ぶ態度や、仏頂面をすることもなかった)。それというのも、母はいつも精神的な価値や、高尚な価値より、市民としての価値を尊ぶ術を心得ていたから。私とは違って、自分の姿がどう写ろうと母はあたふたしなかった。自分の姿を予め「こうと決めてかかる」ようなこともなかった。
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 凍えるような寒さも、近畿・東海ではこれで峠を越えたようですね。misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。

 このあとバルトは、あの「温室の一枚」と決定的に出会うのでしたね。この続きを、ぼくも春休みにでもまた読み返してみようと思います。
 この「教室」で何度となく取り上げた『イデーの鏡』の著者Michel Tournier が亡くなりました。天寿を全うしたかに見える、フランスの現代作家を代表していたTournierを偲んで、今再び同書を次回のテキストとします。この週末にはまた改めておしらせします。Shuhei


ロラン・バルト『明るい部屋』(4)

2016年01月13日 | 外国語学習

[試訳]
 ある写真を前にして「これはもうほとんど母だ!」と言ってしまうことは、まったく別の写真を手にして「これは全然母ではない」と言うより辛かった。「もうほとんど」とは、愛というひどい制度の言わしめることだけれども、それはまたがっかりさせる夢の決まりごとでもある。だからこそ私は夢が嫌いなのだ。私は頻繁に母についての夢を見る(夢を見るのはいつも母のことだ)、それでもそれが母そのものであったことは一度もない。つまり夢の中では、母はときおりいくらか場違いで、過剰なのだ。たとえば妙に明るかったり、なれなれしかったり。母がそんな風であったことは一度もないのに。もっというと、私はそれが母であることは「わかっている」のだけれど、母の特徴を「認める」ことはないのだ(いったい夢の中で私たちは「見ている」のだろうか、それとも「わかっている」のだろうか?)。母についての夢は見るけれども、母を夢見ることはない。そして今写真を前にしていて、夢においてと同様に、同じ努力、シジフォスに課せられたような同じ仕事を果たさなければならない。その本質に向かって、身を傾け坂を登るのだが、その本質を見つめないうちにまた坂道を転げ落ちる。そして再び身を起こすのだ。
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 misayoさん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。今回も、ぼくから付け加えることは特にありません。試訳をご覧になって疑問に思うことがありましたら、また気軽にお尋ねください。
 比較的温暖だった今年のお正月をみなさんどんな風にお過ごしだったでしょうか。前回ここで金時鐘(キム・ジジョン)さんの著作を紹介しましたが、大晦日には辺見庸x高橋哲哉の対話『流砂の中で』(河出書房新書)を読みました。
 お二人の対談を読むのはこれで三冊目となります(『私たちはどのような時代に生きているのか』(角川書店)、『新 私たちはどのような時代に生きているのか』(岩波書店))。その中で序文として書かれた辺見さんの言葉が、いつものように重く心に残りました。
 「これから到来する(すでに到来している)未来が、どのようなものでないかと言うのは、いささか勇気をようする。(...)どのような時代ではないかは、主たる除外の対象に「平和」をあげたにひとしい。それはとりもなおさず新たなる「戦争」の予覚をかたったということだ。」(p.10)
 2011年の震災の直後だったでしょうか。以前ここで、辺見さんが日本を襲うことになる大地震と原発事故について『朝日ジャーナル』誌上で(「標なき終わりへの未来論」)予見していたことに触れたことがあります。私に予知能力などあるはずはなく、ただ「無能者の目」で時代をじっと凝視する中で見えてくるものを、怯まず言葉にしているだけだ、とおっしゃる辺見さんの言葉は、残念ながらことの本質を外してはいません。そんな厳しい自覚を持って、2016年を息継いででゆくことにしようかと思っています。
 それでは、次回はこのバルトの文章を読み切ることにましょう。27日(水)にその部分の試訳をお目にかけます。Shuhei


ロラン・バルト『明るい部屋』(4)

2015年12月23日 | 外国語学習

[試訳]
 そしてここから本質的な問いが兆しはじめたのだった。私は果たして母を見出すことができるのだろうか?
 こうした写真をあれこれ眺めるうちに、母の面差しの一部や、鼻と額のあるバランスや、腕や手の動きを認めることはあった。でもそれは、それぞれ母の一部分でしかなかった。つまり、そこには母の存在が、つまり全体としての母が欠けていたのだった。それは母そのものではなかったけれど、それでも他の誰でもなかった。数知れない女性の中からでも私は母を認められただろうが、それでも母を「見出す」ことはなかった。ひととは違った母を認められても、母そのものを見つけ出すことはなかった。こうして写真は私に骨の折れる仕事を課したのだった。つまり、母そのものの本質を目指して、部分的に真実ではあるけれども、全体的には偽りの画像の中で、私は悪戦苦闘しなければならなかった。
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 今回はぼくから特に付け加えることはありません。
 misayoさん、前回バルトを読んだのは2006年でしたか。あれからもう十年も経つのですね。ちょっと信じられない気持ちです。Mozeさん、フランシス・ジャムとは、ほんとうにこの時期にふさわしい読書ですね。実りある読書となることを願っています。
 ぼくは、さきほど今年度大佛次郎賞を受賞した金時鐘(キム・ジジョン)『朝鮮と日本に生きる - 済州島から猪飼野へ』(岩波新書)を読んでいます。
 朝鮮半島で生まれ、思春期を七五調の韻律なめらかな日本の抒情詩とともに過ごし、「植民地は私に日本のやさしい歌としてやってきました。」(p.50)と書く著者は、人格形成期に朝鮮語を遠ざけ、日本帝国がたたき込む日本語を身につけ、その後その日本語との複雑な関係をとおして、詩的創造を長年にわたって続けられてきた詩人です。今年の年の瀬にふさわしい一冊に出会えました。慈しむようにページを繰っています。
 今年もあと一週間ばかりとなりました。今年はやはり、パリでの惨劇に正月気分を吹き飛ばされ、ヨーロッパを目指す難民と化した人々の行く末に胸が塞ぎ、そして再びパリでの殺戮の報に触れ、貪るように様々な論考に目を走らせた一年でした。
 どうかみなさんはおだやかな年の瀬を迎え、よい年をお迎えください。来年もどうかよろしくお願いします。
 バルトのテキストの続きは年内にまたあらためてお届けします。Shuhei