[注釈]
*Pour <<retrouver>> ma mère,(…)il faut que, (...)je retrouver sur quelques photos (...)les objets (...)une chaises basse (...)les panneaux de raphia (...)les grands sacs (...). その蘇生は限定的であったとしても、日々の暮らしに組み込まれた具体的なモノの方が、母のよそ行きの姿よりも、かつての母を返してくれる、ということでしょうか。
[試訳]
26
これらの写真の多くの場合、「歴史」によって私は写真から切り離されていた。「歴史」とは、ただ単に私たちが生まれていない、あの時代のことではないだろうか。母が身にまとっている装いの中に、私は自分の非在を読み取っていた。母のことを思い起こすことになるのは、それからずっと後の話なのだから。親しい人が「見たこともないような」装いをしている姿を見ることには、一種の驚きがある。ここに1913年頃の写真がある。母はトック帽を被り、羽根飾りをつけ、手袋もして、袖口と襟首からかすかに下着も覗いて、都会の娘のような盛装をしている。優しく、純朴な母の目とは不釣り合いな「シック」な出立ちでいる。「(趣味の、流行の、服飾の)歴史」にとらわれた、こんな母の姿を見るのはこれ一度きりだった。つまり、その時私の関心は母から離れ、もう廃れてしまった装飾に向けられていた。そう、装いは廃れるものであり、それは愛した人のもう一つの墓となるのだから。それが、ああ、束の間であり、その蘇りを長く止めておくことはできないにしても、母を「見出す」ためには、それからしばくして、何枚かの写真の中に、母が整理箪笥の上に置いていたこまごまとしたもの、象牙のコンパクト(私はその蓋の音が好きだった)や、切り子細工のクリスタルの香水瓶、そして、今私のベッドの傍らに置いているローチェア、あるいはまたソファーの上に母が掛けていたラフィアの日除け、そして母お気に入りの大きめのバッグ(その使いやすそうな形は、「ハンド・バッグ」といったブルジョワのアイディアには相応しくなかった)を、見つけなければならないのだ。
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shokoさんをはじめ、フランスで暮らす人々はどこか気持ちを張り詰めて日々をお過ごしのことと思います。1日も早く平穏な日々が帰ってくることを願いながらも、ここ日本に暮らしていても、もうしばらくは晴れやかな、穏やかな時間は取り戻せないのではないか、という不安も拭えません。
それでも、<<Je suis en terrasse.>>, <<Sommes-nous en guerre ?>>, <<Vous n'aurez pas ma haine.>>といったパリで暮らす人々の言葉に、野蛮なイデオロギーや暴力に抗する、嫋やかで健やかな力がまだ充分残っていることを感じ、かすかな希望に胸が満たされます。
三つ目に挙げたのは、今回の惨劇の遺族となった方のFacebook上の言葉ですが(日本の報道でも触れられた方も多いと思いますが)、改めてここにAntoine Leirisさんの言葉を紹介しておきます。是非一読してみてください(ページの下の方に全文が掲載されています)。
http://www.franceinfo.fr/actu/faits-divers/article/antoine-leiris-les-terroristes-n-auront-pas-ce-qu-ils-cherchent-se-tiendra-debout-745965
それでは、次回はp.102.までの試訳を12月9日(水)にお目にかけます。
[試訳]
ロラン・バルト『明るい部屋』
25.
さて、母が亡くなってまだ間もない、十一月のある日の夜、私は写真の整理をしていた。母を「また見つけられる」と思っていたわけではない。人かげが写った「これらの写真、その人にせいぜい思いをはせるほどにも、その人のことを呼び起こしてもくれない写真」(プルースト)に何も期待などしていなかった。私にはわかっていた。喪の最も酷薄な特徴のひとつであるこの宿命によって、映像に訴えかけても詮のないこと、母の面立ちを思い出すこと(丸ごと私に呼び出すこと)はけっしてできはしないだろうと。だから、母親の死後ヴァレリーが願ったように、「自分ひとりだけの、母についてのちょっとした書きものを記して」おきたかったのだ(おそらく、そうしたものをいつか書くことになるだろう。もし印刷物になれば、少なくとも私の名が知れている間は、母の記憶も持ちこたえることだろう)。それに、すでに世に出た写真—そこにはランドの砂浜を歩く若い母が見えるし、あまりに遠く、表情までは見えないけれど、母特有の足の運び、健康、溌剌とした姿が「見出される」—を除けば、母が写ったこれらの写真については、気に入っているとさえ言えなかった。だからそれらを凝視しようともしなかったし、その中に没入していたわけでもなかった。それらをただ並べてみたが、一枚として本当に「いいもの」はなかった。写真としてもよくなかったし、生きいきとした顔を蘇らせてもくれなかった。いつか友人たちにそれらの写真を披露する機会があったとしても、それが友人たちになにかを物語るとも思えなかった。
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今回も試訳だけお目にかけます。また不明な点があれば、遠慮無くお尋ねください。Mozeさん、大切な指摘ありがとうございました。指摘されて初めて、自分の未消化、モヤモヤとした感じに気づかされました。まだ昭和の頃、大学の二年次に教室でテキストとして読んだランボーの詩でした。以下で読めます。
http://poesie.webnet.fr/lesgrandsclassiques/poemes/arthur_rimbaud/le_dormeur_du_val.html
変な喩えですが、朝の通勤途中に見知らぬ女性から、朝頬張ったご飯粒が左頬についているのを指摘されたような気分です。ちょっと恥ずかしいような、救われたような、うれしいような…。
詩つながりで言うと、乗換えの忙しい時の通勤電車で、昨年夏に亡くなった、バイデガー研究者でもあった木田元さんの『詩歌遍歴』(平凡社新書)を読んでいます。最終章ではランボーが扱われていました。木田先生に導かれて、立原道造の詩に久しぶりに再会しました。近いうちに段ボール箱から彼の詩集を拾い出してこようと思っています。
それでは、次回はp.101. sac à la main. までを読むことにしましょう。25日に試訳をお目にかけます。Shuhei
Chers amis,
当教室では次回から年内にかけて、今年生誕百年を迎えたロラン・バルトを扱います。テキストご希望の方は
shuheif336@gmail.com
までご一報ください。Shuhei