フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

マルグリット・ユルスナール『夢とさだめ』(6)

2011年01月26日 | Weblog
「注釈」
 
 * tout d’une pie`ce, tout d’une couleur : tout は強調の副詞です。ex. Elle est tout d’intelligence. ; cravate tout soie。ここでは、これから語られる至福の夢は、一般的な物語性のある夢ではなく、純粋なヴィジョンのようなものだ、と言いたいのでしょう。
 * conventions nocturnes : 夢の「定石」(これはMoze さんの見事な訳語です)のこと、つまり、affabulation, changements a` vue...ect.を意味しています。
 * ...dont le moindre mouvement, le simple poids de mon corps... me font sentir la douce pression... : dont 以下のS+V+O は以上のようになっています。misayo さんの訳を見るかぎり、その構造はちゃんと把握されているようです。
 > shoko さん 文章の種類にかかわらず、まずその文脈を、いわばその主旋律を丁寧に聴き取ることです。その主旋律が聴き取れれば、あとは個々の言葉の用法を 辞書などで確認してゆくことです。その「聴き取り」には、やはり、基本語の用法、使用頻度の高い構文などに慣れておくことは必要です。

「試訳」

 「青い海」
 ほとんど夢ともいえない。ひとつの作品の、色の純粋なヴィジョンのようなもので、夢の約束事にも縛られていない。筋立ても、視点の変換も登場人物も急展開も、舞台裏で用意されるような仕掛けもない。ぐったりとして眠っている私は、青い海原の深みに身を沈ませているようだ。海原は、春の朝の風のようにたゆたい、この上なく明るいクリスタルのように透きとおっている。アクアマリンやサファィアという言葉も、この信じられないような海の深みにくらべると、重く、曇って感じられる。その海がわずかでも揺らめく、あるいはその深みで上下から穏やかに抱えられている私のわずかな体重さえ、やさしい、ひんやりとした圧力となる。私はその透明な海で、そこがまるでがらんどうか空であるかのように、咽ぶことなく呼吸している。言葉では言い表せないこの幸福が、ここでは青のアルペジオとして表現されているように思える。
………………………………………………………………………………………………..
 「ひんやり」という訳語はmanon さんから拝借しました。みなさんの訳文を拝見していて、それぞれに日本語の見事な使い手でいらっしゃることに感心させられることしばしばです。
 
 今年は、年末、年始にかけて思いがけなく何人もの方から「寒中見舞い」を頂戴しました。いずれも、昨年お身内にご不幸があった方からのお便りでした。ぼくも含め、同年代の方々もそういう年回りになったということなのですね。
 昨年の秋に、ここ金剛山を望む富田林(とんだばやし)市に越して来たのですが、実は2003年から5年ほど、かつてこの地に住んでいたことがありました。
 そのあいだの数ヶ月間近所の歯科医院に通っていたのですが、そこで診療の順番を待つ間、待合室に置かれていた「サンデー毎日」に連載中の池田晶子の文章を読むのが、なんとなく習いとなっていました。ぼくは、実は彼女の文章を特別愛読していたわけではなかったのですが、たまたま目にした「あなたの親は親ではない」と題された回のエセーは心に残りました。こんなふうに書き出されている文章です。「先般、父親が亡くなったのですが、闘病も長かったこともあり、唐突感はありませんでした。」
 その回の連載を読んだあと、歯の治療を中断して、その年の2月末から2週間ほど渡仏していました。帰国後治療を再開したのですが、ふたたび待合室で手にした「サンデー毎日」には池田氏の文章は見あたりませんでした。
 その後、彼女が40台後半に入ったばかりの若さで急逝したことを知りました。
 そして今回思いがけなくここ富田林にふたたび寓居することになったのがきっかけとなったのか、彼女が父親を看取った直後に書かれたあの文章をどうしても読みたくなり、暮れも押し迫った頃、週刊誌に連載れていたエセーをまとめた本を手に入れました。その『暮らしの中の哲学』(毎日新聞社2007年)収録の「あなたの親は…」を再読しましたが、やはり忘れ難い一文でした。「冷たくなった父の手を握り、出て来る言葉は素直に『ありがとう』でした。」そこから、池田の思考は、私たちが存在することの、さらには「出会いの奇跡」をあらためて確認するに至るのでした。

 ついでながら、前回この場でご紹介した佐々木中氏が今日(1/26)朝日新聞の朝刊の政治欄に一文を寄せています。よろしければまた一読してみて下さい。

 それでは、次回は L’eau bleue を最後まで読みましょう。2/9(水)にまた試訳をお目にかけます。

マルグリット・ユルスナール『夢とさだめ』(5)

2011年01月11日 | Weblog
 [注釈]
 
 * non ce qu’en a dit Freud, (…), mais pour les rapprocher des le’vitations des mystiques, : des re^ves de le’vitation について、il y aurait beaucoup de choses a` dire としながらも、それは必ずしも、フロイトの解釈ではありませんよ、と述べられています。フロイトは、身体の急激な高度変化の感覚を性的な興奮に結びつけたわけですが、ユルスナールは、夢の中のその上下運動は、本来はもっと穏やかなものではなかったか、と異議を唱えています。
 
 ここで、先日ご紹介した新宮一成『夢分析』から関連する箇所を引いておきます。
 「性は、言語によって媒介されないと活動できない。恋愛の告白から、結婚の制度的な手続きにいたるまでみなそうである。したがって、空飛ぶ夢が性的な活動を表しているということの意味は、新しい言語活動の中に入ることだという認識を、夢が示しているということなのである。シャガールの絵には、空をただよう新婚のカップルがしばしば描かれる。新しい言語活動を獲得した彼らの性は、そうした言語活動以前の仲間たち、すなわち牛や山羊を引き連れて、自由に舞っている。」(p.12)
 ここではまた、「青春のみずみずしさがみなぎっている」寺山修司の短歌、「青空より破片集めてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて」(p.11)も紹介されています。

 [試訳]

 * けれども、空中浮遊の夢については、語らなければならないことがたくさんあることでしょう。といってもフロイトの説ではありません。そうした夢をただ性的にだけとらえるフロイトの解釈は、いつも間違ってるように私には思えます。そうではなく、そうした夢を神秘主義者、とりわけ聖テレーズの空中浮遊と比べてみたいのです。私が実際に夢見た、あるいは知っているあらゆる空中浮遊においは、飛ぶといっても、それはとても低く、2,3メートルを越えることはありません。飛行とか上昇ではなく、例えば浮かびながら横滑りしてゆく感じで、夢見る者は時に下降して地面に軽く触れたかと思うと、またふたたび昇ってゆくのです。

 そうしたものとは対照的に、私にとってここで重要なのは、個々人の運命が夢という地金を打つ様です。夢見る者がその人に固有の化学の法則に従って、こうした同じ心理的、感性的な要素を結びあわても、二つとない合金が出来上がる。それはそうした要素に、二度とはない運命という意味を担わせるからです。夢があれば、そこには定めがある。夢によって定めがあらわされているものに、私は心ひかれます。
…………………………………………………………………………………………………….
 実は、最後の部分 je m’inte’resse surtout au moment...の訳に戸惑ったのですが、Moze さんの「心を寄せる」という訳は、ここにぴったりですね。
 misayo さんが年初に読まれたという『大江健三郎 作家自身を語る』は、たしか、大江が信頼を寄せる、読売新聞文芸部の尾崎さんを相手に自身の作家遍歴を語ったものですね。ぼくも、ある年の夏の茹だるような日々に勉強をサボって、同書を読みふけっていた記憶があります。
 奇遇ですが、ぼくも年初に『取り替え子』を読んでいました。大江作品は、恥ずかしながら、ほとんどがツンドクなのですが、さすがに気が引けて手に取った同書がもう10年前に出版されたものと知って、なんだか愕然としました。自身では3年ほど寝かせておいた、という感覚でしたから。月日だけが過ぎ去ってゆくのですね。
 ついでながら、これも年初に手にした池田晶子『残酷人生論』(毎日新聞社)にこんな一節がありました。
「夢
 あれはいったいなんなんだ」(p.81) 「夢の中身は云々しても、夢という形式、それが「在る」ということは[多くの人は]普通だと思っている。それはおそらく、生まれ落ちて赤ん坊だった我々の人生が、眠りから始まっていることによる。夢の中に生まれて来た我々は、夢という人生の枠に、あらためて驚くことが少ないのだ。」(p.83)池田はここで、夢の中身の解釈より、私たちは「夢という形式」にもっと驚いていいのではないか、と説いています。もちろん、ラカン派精神分析医の新宮一成はその「形式」にも、十分意識的な夢論者です。
 ……………………………………………………………………………………………..
 次回ですが、おまけのつもりでしたが、縁起物です、折角ですから<< L’eau bleue>>を読むことにしましょう。初回は、une se’rie d’arpe`ges bleus. までとして、26日に試訳をお目にかけます。
 Bonne lecture ! Shuhei

マルグリット・ユルスナール『夢とさだめ』(4) : 訂正

2011年01月08日 | Weblog
 今頃になって申し訳ないのですが、テキストの間違いに今気づきました。* Il y aurait pourtant...ではじまる註の部分ですが、mais peut les rapprocher des le'vitations des mystiques, の箇所は、正しくは、mais pour les rapprocher des le'vitations des mystiques,...です。peut ->pour として下さい。
 お詫びして、訂正いたします。Shuhei