フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

余談の訂正

2008年11月26日 | Weblog
 smarcel です。shoko さんのお話を受けてのさきほどの余談ですが,訂正があります。ぼくの知り合いが五嶋みどりさんとクラスメートだったのは、豊中市の小学校でのお話でした。「堺」、「中学校」というのはいずれも間違いです。ごめんなさい、訂正いたします。なお豊中市は、大阪市の北部に位置する街です。

流浪と友愛の作家ルクレジオ (1)

2008年11月26日 | Weblog
 [注釈]
 
 * l'e'crivain de la ruputure : misayo さんが各種新聞で調べてくれた訳語の中では「発展を続ける」が比較的近いでしょうか。 rupture とはこの場合、以前のあり方からの「断絶」を意味します。フランス共和国大統領などが就任当初よく la politique de rupture と口にしていました。この場合は「変革の政治」となるでしょうか。
 * une humanite' au-dela` et en dessous de la civilisation re'gnante : 支配的な文明の周縁や、その文明の足下にまだ生きている人間のあり方。
 * la fuite en avant mate'rialiste : la fuite en avant 「破れかぶれで前に突き進むこと」
 
 [試訳]
 
 ノーベル文学賞をジャン-マリー=ギュスターヴ・ルクレジオに授与する理由を述べるにあたって、スウェーデン・アカデミーは、詩的冒険と感覚的恍惚を備え持つ、常に新しい作家と讃え、またとりわけ、支配的な文明の彼方にある、または踏みつけにされたその足下にある人間性の探求者と称賛した。こうした賛辞は今特別の響きをもつ。なぜなら昨今、市場資本主義の行き過ぎが、世界を、「支配的な文明」を、滅亡に至ろうとする金融の混乱に追いやっているからだ。
 ノーベル賞の栄誉は、書くことによって自身の怒りを鎮めて来た、反骨の人の著作活動に輝いた。けれども、消費社会に対して、破れかぶれの物質主義に、「巨大なサルの檻のような、都市文明の苛立たしくもむなしいばか騒ぎ」に、向けられたその目の厳しさが和らぐことはなかった。
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  Le Monde の社説は、分量も程々で、文体もそう難解ではなく、フランス語中・上級者の読解の教材にうってつけです。でも、みなさんには少し物足りないかもしれませんね。そう思えるほど、それぞれの訳に大きな読み間違いは見られませんでした。
 shoko さん、五嶋みどりさんのお母様はたぶん堺の方だと思います。ぼくのちょっとした知り合いが、堺の公立中学でみどりさんとクラスメートだったそうです。もっとも、もう当時から演奏活動に忙しかったみどりさんを教室で見かけることはほとんどなかったそうですが。
 おそらく、ある程度年配の方で,また堺の方だと、みなさんが普段テレビで耳にしている「吉本言葉(関西芸人言葉)」とは、また趣の違った言葉でお話しになられたと思います。首都圏で、大阪弁は市民権を得ている、などと言われていますが、それは正確にいえば「コメディアン言語」のことでしょう。みどりさんのお母様が話された言葉は、一種の humanite' en dessous de la civilisation re'gnante と言えるかもしれません。
 それでは次回は,l'Atlantique... までとしましょう。

「フランソワーズ・ドルトについて」の注釈

2008年11月19日 | Weblog
 [注釈]
 * comme le pensaient les philosophes des Lumie`res (…) : 中性代名詞 leは、前後の文脈からすると l'amour et la bonne e'ducation suffisent a` faire (...) un adulte という内容を表しています。comme は「…ように」なのか「…のようには」なのか、判断に迷うことがありますね。今回は、on sait mieux encore qu'autrefois, attache's a` l'ide'e que..がその判断のポイントになります。
 * fussent-elles les plus nobles : fu^t-ce … 「たとえ…でも」ですから、そのヴァリアントですね(辞書で e^tre の項目を調べてみて下さい)。それから、les plus nobles ここの最上級は、Moze さんが訳されていた通り、これも「譲歩」の意味を含みます。

 [試訳]
 
 「子供たちの立場」
 フランソワーズ・ドルト生誕100年を迎えて、フランスの子供たち、親たち、若者たちは、さまざまな批判はあるにしても、児童精神分析のバイオニアであるのみならず、フロイト思想を広める言葉を見つけることに巧みであったこの卓越した女性に、自分たちが何を負っているのかを思い出すべきではないだろうか。メディアによって広められたドルトの言葉によって、実際私たちはかつてよりもずっとわきまえている。子供を小さな大人と信じて疑わなかった啓蒙哲学者たちが考えていたように、子供を知恵のある大人に育てるには、愛情とよい教育だけで十分である、ということはないということを。なぜなら、教育を成功させるためには、さらにつぎのことを知っておかなくてはならない。教育が伝えようとする価値は、たとえそれがどんなに立派なものであっても、価値を伝えようとする者が子供たちの無意識の欲望に耳を傾けないのであれば、つねに正反対の価値になってしまう危険があるということを。

「明子さんの訳についての注釈」
 * les liberte's publiques :「大衆の自由」とするとちょっと限定されてしまうので、ここは「人々の自由」ぐらいにすべきでしよう。
 * Ce serait de'ja` beaucoup : Ce は 前文にかかげられた Plusieurs raisons です。オバマが新大統領により相応しい数々の理由だけでも、十分であるが、「さらにオバマの存在はアメリカを超えるモデルとなりうる」
 * enfin, la` ou` l'e`quipe Bush... : オバマが新大統領により相応しい最後の理由が conscience environnementale「環境への配慮」。「この分野においてブッシュ政権は、従来の消費モデルをあらためて見直そうとはしなかった」
 * ce que le Parti re'publicain a de plus ultra. : de + 形容詞は、 ce にかかります。ですから、「共和党のより極右的なところ」
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 今回のみなさんの訳文を見ていると、Le Monde の記事などは十分理解出来るフランス語力をお持ちなのがよくわかります。A la Une に限って、インターネット上で閲覧可能ですから、是非時々覗いてみて下さい。
 さて次回は、遅くなりましたが、Le Cle'zio がノーベル賞受賞直後の Le Monde の社説を読むことにします。
 smarcel

フランソワーズ・ドルトについて

2008年11月12日 | Weblog
 来週は、今年生誕100年を迎えたフランスワーズ・ドルト(Francoise Dolto)についての フランスの夕刊紙 Le Monde の特集記事の一部を読みます。
 テキストご希望の方は smarcel@mai.goo.ne.jp
までご一報下さい。
                                     主催者   

オクターヴ・マノーニ『フロイト』(8)

2008年11月12日 | Weblog
 [注釈]
 * << he’ritage phyloge’ne’tique >> : 正直言って、この言葉をここで使っている意味合いをきちっと説明は出来ません。ただ、どうも、「トーテムとタブー」の仮説に科学的な信憑性をもたせるために、フロイトは当時の最新医学の理論を応用したかったのでは、という可能性のことを言っているのだと思います。
 * il ne pouvait concevoir d’explication que mytique. : d’explication の d’ は、否定文中の直接目的補語につく、あれです。ex. Il n’a pas d’explicaion de cet accident pour le moment.
 
 [試訳]
 フロイトが先史の「現実」に託したのは、そうすると、現在においては幻想の形でしか存在しないものである。「系統発生的な継承」という仮説をそんなふうにフロイトが利用しようとしたのか、あるいはただ単に、こうした問題については神話的な説明しか出来なかったのか。そのどちらともいうことは難しい。ただ、ひとつだけ確かで明らかなのは、フロイトがそんなふうに現実を先史に位置づけたのは、現実を分析に導入しようとしたのではない、ということだ。明らかに現実を分析から遠ざけようとしたのだ。それに、罪責感を根拠づけるために現実的な事実を要請する「トーテムとタブー」と、そうした仮説をしりぞけ、罪責感は幻想に依拠すると考えざるを得ない「二原則の作用」についての新しい論文の間には、逆にいかなる矛盾もない。
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 長い間『フロイト』におつき合いいただきました。この書物、こうして細切れに読むには、ちょっと向かなかったですね。一生懸命に取り組んでいただいたみなさんには、申し訳ないことをしたかもしれません。それで、今回の内容を以下のような書物で補っていただければ幸いです。
 * 新宮一成『夢分析』(岩波新書)  著者はラカン派の精神分析家。フロイト-ラカンの理論の入門書としては、最良のもののひとつです。
 * 十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』(講談社選書メチエ)
 19世紀末以降の「近代」が要請したフロイト理論の意義と限界を明確に捉え直した上で、システム論をもとに精神分析理論を今日において更新しようとする試みです。
 「精神分析には、治療という枠組みを超えて、人間が潜在的に持つ、経験の多様性へと接続して行く側面がある。(…)精神分析がその固有の作動の局面に、広範な人間の経験に関する作動の知を接合させることができるなら、精神分析は自らを大きく更新し、私たちの新たな生の技法となりうるだろう。」
 どちらも自信を持ってお薦めできる一冊です。今回の取っ付きにくかった課題を、よかったら優れた書物で補って下さい。

 さて、もう一週だけ精神分析ネタにおつき合い下さい。といっても、今回の課題はごく一般的な内容を扱ったものですので、どうかご安心を。今年は、フロイト理論の重要な継承者 Francoise Dolto の生誕100年にあたります。Le Monde 紙上で特集も組まれました。その記事の一部を読むことにします。
smarcel

Pourquoi Obama ?

2008年11月05日 | Weblog
 今読んでいる「フロイト」のテキストと共に、来週は上記の11月3日付けの Le Monde の社説を読みます。
 テキストを希望される方は、
 smarcel@mail.goo.ne.jp
 までお知らせ下さい。添付ファイルにてお送りします。
 smarcel

オクターヴ・マノーニ『フロイト』(7)

2008年11月05日 | Weblog
 [注釈]
 * se laisser e’garer au point d’appliquer (…) : 被分析者の幻想に忠実であれ、とフロイトは言いたいのでしょう。au point de inf. : …するほどに ex. Elle riait au point de s’e’touffer.
 * quand il est claire qu’aucun crime re’el (…) : この quand は「譲歩」を意味しています。ほとんど quand me^me に近いですね。ex. Quand vous vous fa^cheriez, cela ne servirait a` rien.
 * le sentiment (...) n’a pour objet que le vœu fantasmatique : avoi qn / qch pour + 無冠詞名詞「…を~として持つ」ex. Cet accident a pour cause l’imprudence du conducteur.

 [試訳]
 ところでその論文のある一節(そこで自身の精神分析的な位置づけを定義している本質的な一節) で、フロイトは自分の懸念を強調している。「抑圧されていた心的形成を現実の尺度に合わせようとする余りに、方向を見失ってはならないし、またその結果、現実ではないことを理由に諸症状の形成における幻想の重要性を過小評価してはならない。たとえば、実際の罪が明らかに出来ないからといって、罪責感に別の起源を求めようとしてはならない。私たちは、探索先で使用されている貨幣を使わなければならない。私たちの場合でいえば、それが神経症(幻想)という貨幣である。」まさしくそこでフロイトは、「死んでいるのにそのことを知らない」父についての夢を例示してる。この夢における罪責感は、夢見るものの幻想的な願いをまさしく対象としている。
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 Moze さん、ご紹介いただいた鷲田清一の本、見落としていました。鷲田の新著には常に目を配っているつもりだったのですが...。
 今、東京大学出版会が『死生学』という全5巻の叢書を出版中です。そのPRも兼ねてでしょうが、熊野純彦が同出版会のPR誌に「死なれる」という、とてもいいエセーを寄せています。後期の授業が始まったばかりの頃に学生たちにも紹介した一文んです。
 少年時代多くの時をともに過ごした友人からの突然の電話で、その友人の妻の死を知らされます。そのとき友人が口にした「死なれた」という、西洋語には翻訳不可能にも思える言葉が書き手に残した思いから紡がれた文章です。少しだけ引用しておきます。
 - 「死なせた」をふくむ「死なれた」は、だからたぶん、かかわりようのない他者の死に、それでもかかわろうとする切実さをもった言葉なのだろう。被害と加害がないまぜになった、とりかえしがつかない思いが交錯する言いまわしなのだろう、きっと。
 
 次回は、残りも少なくなりましたが、p.149. fonde'e sur le fantasme. 最後までとしましょう。
 smarcel