フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

ロジェ-ポール・ドロワ『暮らしの中の哲学 101の実験』(2) Lecon 220

2010年10月27日 | Weblog
 [注釈]
 
 * Ce de’centrement : 自分の声の響きを録音機器で確認するように、そこから世界を認識している自己のあり方を、少し中心軸からずれてとらえてみることです。
 * Ce n’est pas une sortie de soi. :自己という中心から、ひととき自分の位置をずらしてみることは出来ても、それは自己という「可動式の牢獄」(プルースト)からの解放を意味しない。
 * notre intimite’ est ignorance. : うっかりこのテキストも荷造りしてしまったので今確認はできないのですが、たぶん ignorance という名詞の形になっていたと思います。なぜ無冠詞か? 冠詞の問題で一番難しいのは、この問題ですね。無冠詞の原則というようなものはありますが(avec patience, avoir sommeil etc...)、ここはなぜ無冠詞かと、ぼくもときどきつまずきます。
 ここではむしろ、intimite’ の訳に頭を悩ませました。具体的にいうと、自分の内部から発しているこの声、自分の頭部にはりついているこの顔、そんなものが実は私たちには、道具の助けを借りないと分からない、ということですね。ためしに下記のように訳出してみました。
 
 [ 試訳]
 
 昔は、他人が聴いているままの自分の声を聴くことなど、誰にもできなかった。他人が見るままの自分の姿を見ることもできなかった。こんなふうに自分から距離をおくことは、道具によって可能となった。でもそれは自己からの出口ではない。道具によって確かめられたのは、自分たちの本当のことは分からないということだ。道具によって哲学的思考は助けられた。けれどもどちらの見かけが考えるに値するのかを、今度は自問しなければならなくなった。内側から、私たちにもたらされる私たち自身の見かけか。はたまた、客観的に思え、記録された見かけか。同じ問いは、顔にも、思考にも、私たちの行為全般にも問われるべきだ。しかしどこまで行ってもこの問いには答えはない。そのことに、あいかわらず驚かされる。

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 明子さん、ウィルさん、Moze さん、雅代さん,shokoさん、訳文ありがとうございました。いかがでしたか。やはり、意外に難しかったですね。
 自分ではふつう客観的にとらえて、修正などできない「声」というのは、いわば生(キ)のままに他者に差し出されたものですね。ですから、自分の声はともかく、ひとの声にはぼくはつい耳を澄ませてしまいます。
 このテキストをこの場で読み始めた頃、高校受験を終えたばかりの春休みに読んだ川端康成『みずうみ』を、三十数年ぶりに再読しました。冒頭、トルコ風呂で少女のような女性に裸の身を任せている中年の主人公が、その娘の声にうっとりする場面がありました。その当時、大人の読む小説なるものをまだほんの十数冊しか読んだことがなかった十代半ばのぼくですが、いやに熱心にその場面でところどころ傍線を引っ張っていました。声への関心は、その頃からのものだったのかもしれません。ただ、この『みずうみ』という小説には、再読して、正直がっかりさせられましたが…。
 さて、次回からしばらくMarguerite Yourcenar (1903-87) の<< Les Songes et les Sorts >>という、自身の夢を語ったエッセーの序文を読むことにします。用意でき次第テキストをお届けします。
  shuhei

ロジェ-ポール・ドロワ『暮らしの中の哲学 101の実験』(1) Lecon 219

2010年10月13日 | Weblog
 [注釈]

* mal pose’, mal place’e, de’cale’e, inattendue. : de’cale’e の訳には少し苦労されたのではないでしょうか。calerは、 家具などを固定させるために、なにかを「かませる」ことですね。その「かまし」をはずすことが、de’caler です。ですから、Moze さんの「しっくりこない」、manon さんの「ズレがある」などは、なかなか工夫された訳語だと思います。
* Vous vous connaissez << du dedans>>. Vous vous percevez comme << du dehors >>>. : connaitre / percevoir の違いを理解しておく必要があります。 percevoir には、parvenir a` connaitre, a` distinguer qch. malgre’ la difficulte’. といった意味合いがあります。ですから、普段は、「内側から」自分のことは分かっていたのが、録音機器を使って突然「外側から」自分の声を聞かされたことを表現しています。
* du dehors comme du dedans : たまに「外側から」自分の声を耳にする私たちとは違って、プロは、常に「内/外」から同時に自分たちの声を聞いている。
* avec et dans cette matie`r e : 先ほどとほぼ同じことをこう表現しています。つまり、ここでいう matie`re とは、声のことです。
* telle que les autres l’entendent. : tel que...「…のとおりに、…のままに」

 [試訳]

実験時間 数分
用意すべきもの 自分の声が聞ける録音機
効果 

 必ず意外に思う。「これが私の声 ?」確かにあなたの声なのに、甲高過ぎるように、あるいは低過ぎるように思えたり、またはおっとりしすぎていたり、早口にすぎたり、据わりが悪かったり、ぎこちなかったり、思いがけない聞こえ方をする。はじめ、それが自分の声の響きだとも、口調だともわからない。けれども、他人の声なら録音機は正確に再現している。あなたの声に限ってそうではない。
 これらの言葉も文章も、口にしているのは確かにあなただ。それに、迷わず自分の声だということは分かる。でも斜めからというか、横からといったらいいのか、おもしろい角度からとらえられたように聞こえる。それはあなたの声であって、あなたの声ではない。あなたは突然口を開けた裂け目に、隙間に落っこちる。「内側から」は自分のことと分かっていても、まるで「外側から」自分のことをとらえたようだ。プロであればこうしたことには慣れている。ラジオや制作関係者は、自分の声を外からでも、内からでもそれとわかる。彼らは声とともに、声のなかで働いている。つねに自分の声に耳を傾けている彼らは、他人が聴いているままの自分の声を初めて聞かされて普通は感じる、驚きや居心地の悪さをもう経験することもない。
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 明子さん、Moze さん、雅代さん、ウィルさん、manon さん、shoko さん、訳文ありがとうございました。今回扱っているのは、かなり平易な文章なのですが、それでも、みなさんの訳文を参考にしてはじめて、立ち止まって考えるべきところがいくつかあることに気づかされました。「試訳」を読まれて疑問に思うところがあれば、またコメント下さい。
 de'placant は、全体を訳出した後、あらためて相応しい訳を考えたいと思います。
 それでは、次回は、残り少ないですが、最後まで読んでしまいましょう。27日(水)に「注釈・試訳」をお目にかけます。