[注釈]
* Ce de’centrement : 自分の声の響きを録音機器で確認するように、そこから世界を認識している自己のあり方を、少し中心軸からずれてとらえてみることです。
* Ce n’est pas une sortie de soi. :自己という中心から、ひととき自分の位置をずらしてみることは出来ても、それは自己という「可動式の牢獄」(プルースト)からの解放を意味しない。
* notre intimite’ est ignorance. : うっかりこのテキストも荷造りしてしまったので今確認はできないのですが、たぶん ignorance という名詞の形になっていたと思います。なぜ無冠詞か? 冠詞の問題で一番難しいのは、この問題ですね。無冠詞の原則というようなものはありますが(avec patience, avoir sommeil etc...)、ここはなぜ無冠詞かと、ぼくもときどきつまずきます。
ここではむしろ、intimite’ の訳に頭を悩ませました。具体的にいうと、自分の内部から発しているこの声、自分の頭部にはりついているこの顔、そんなものが実は私たちには、道具の助けを借りないと分からない、ということですね。ためしに下記のように訳出してみました。
[ 試訳]
昔は、他人が聴いているままの自分の声を聴くことなど、誰にもできなかった。他人が見るままの自分の姿を見ることもできなかった。こんなふうに自分から距離をおくことは、道具によって可能となった。でもそれは自己からの出口ではない。道具によって確かめられたのは、自分たちの本当のことは分からないということだ。道具によって哲学的思考は助けられた。けれどもどちらの見かけが考えるに値するのかを、今度は自問しなければならなくなった。内側から、私たちにもたらされる私たち自身の見かけか。はたまた、客観的に思え、記録された見かけか。同じ問いは、顔にも、思考にも、私たちの行為全般にも問われるべきだ。しかしどこまで行ってもこの問いには答えはない。そのことに、あいかわらず驚かされる。
……………………………………………………………………………………
明子さん、ウィルさん、Moze さん、雅代さん,shokoさん、訳文ありがとうございました。いかがでしたか。やはり、意外に難しかったですね。
自分ではふつう客観的にとらえて、修正などできない「声」というのは、いわば生(キ)のままに他者に差し出されたものですね。ですから、自分の声はともかく、ひとの声にはぼくはつい耳を澄ませてしまいます。
このテキストをこの場で読み始めた頃、高校受験を終えたばかりの春休みに読んだ川端康成『みずうみ』を、三十数年ぶりに再読しました。冒頭、トルコ風呂で少女のような女性に裸の身を任せている中年の主人公が、その娘の声にうっとりする場面がありました。その当時、大人の読む小説なるものをまだほんの十数冊しか読んだことがなかった十代半ばのぼくですが、いやに熱心にその場面でところどころ傍線を引っ張っていました。声への関心は、その頃からのものだったのかもしれません。ただ、この『みずうみ』という小説には、再読して、正直がっかりさせられましたが…。
さて、次回からしばらくMarguerite Yourcenar (1903-87) の<< Les Songes et les Sorts >>という、自身の夢を語ったエッセーの序文を読むことにします。用意でき次第テキストをお届けします。
shuhei
* Ce de’centrement : 自分の声の響きを録音機器で確認するように、そこから世界を認識している自己のあり方を、少し中心軸からずれてとらえてみることです。
* Ce n’est pas une sortie de soi. :自己という中心から、ひととき自分の位置をずらしてみることは出来ても、それは自己という「可動式の牢獄」(プルースト)からの解放を意味しない。
* notre intimite’ est ignorance. : うっかりこのテキストも荷造りしてしまったので今確認はできないのですが、たぶん ignorance という名詞の形になっていたと思います。なぜ無冠詞か? 冠詞の問題で一番難しいのは、この問題ですね。無冠詞の原則というようなものはありますが(avec patience, avoir sommeil etc...)、ここはなぜ無冠詞かと、ぼくもときどきつまずきます。
ここではむしろ、intimite’ の訳に頭を悩ませました。具体的にいうと、自分の内部から発しているこの声、自分の頭部にはりついているこの顔、そんなものが実は私たちには、道具の助けを借りないと分からない、ということですね。ためしに下記のように訳出してみました。
[ 試訳]
昔は、他人が聴いているままの自分の声を聴くことなど、誰にもできなかった。他人が見るままの自分の姿を見ることもできなかった。こんなふうに自分から距離をおくことは、道具によって可能となった。でもそれは自己からの出口ではない。道具によって確かめられたのは、自分たちの本当のことは分からないということだ。道具によって哲学的思考は助けられた。けれどもどちらの見かけが考えるに値するのかを、今度は自問しなければならなくなった。内側から、私たちにもたらされる私たち自身の見かけか。はたまた、客観的に思え、記録された見かけか。同じ問いは、顔にも、思考にも、私たちの行為全般にも問われるべきだ。しかしどこまで行ってもこの問いには答えはない。そのことに、あいかわらず驚かされる。
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明子さん、ウィルさん、Moze さん、雅代さん,shokoさん、訳文ありがとうございました。いかがでしたか。やはり、意外に難しかったですね。
自分ではふつう客観的にとらえて、修正などできない「声」というのは、いわば生(キ)のままに他者に差し出されたものですね。ですから、自分の声はともかく、ひとの声にはぼくはつい耳を澄ませてしまいます。
このテキストをこの場で読み始めた頃、高校受験を終えたばかりの春休みに読んだ川端康成『みずうみ』を、三十数年ぶりに再読しました。冒頭、トルコ風呂で少女のような女性に裸の身を任せている中年の主人公が、その娘の声にうっとりする場面がありました。その当時、大人の読む小説なるものをまだほんの十数冊しか読んだことがなかった十代半ばのぼくですが、いやに熱心にその場面でところどころ傍線を引っ張っていました。声への関心は、その頃からのものだったのかもしれません。ただ、この『みずうみ』という小説には、再読して、正直がっかりさせられましたが…。
さて、次回からしばらくMarguerite Yourcenar (1903-87) の<< Les Songes et les Sorts >>という、自身の夢を語ったエッセーの序文を読むことにします。用意でき次第テキストをお届けします。
shuhei