フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

『困ってるひと』読了

2012年02月23日 | Weblog
Chers amis,
昨日大野更紗さん『困ってるひと』の紹介をしました。さきほど同書を読み終わって、どうしてもう少し言葉を添えてみたくなりました。とくに後半部第十二章「わたし、生きたい(かも) 難病のソナタ」以降の内容にも少しだけ触れておきます。
 「わたし」は、オアシスと呼んでいる、難病患者に高度な治療を施す都内の某病院内で、「わたし」よりもはるかに長きにわたって闘病生活を続けている難病男子に出会い、恋に落ちます。そして、キスをします。それをきっかけけとして、無謀を百も承知でオアシスからの退院を決行し、その退院の日の出来事で本書は閉じられることになります。もう少しだけ引用しておきます。
 「病室に戻ってベットに入り、天井を見つめながら。わたしは、もう少し生きたいかもしれない、と思った。この気持ち。この感覚。もう一回くらい、キスしても、いいかもしれない。(...)
 だんだん、心の中から、ぶわーっと悲喜こもごものあらゆる感情がふき出してきた。死火山が、突然噴火したみたいに。(...)
 明日が来てもいいかもしれない、と思った。」(p.233-34)
 ぼくは、実は、ルパップとはかなり違った視点からプルーストの描く恋の様相を読んできました。プルーストの描く恋とは社会のコードにすぎない、というクールな解釈とは対極の恋の物語が、ここにはあります。Shuhei

ピエール・ルパップ『恋愛小説の歴史』(2)

2012年02月22日 | Weblog
 まずみなさんにお詫びしなければなりません。今回もOCRでのテクストの読み込み精度があまりよくなく、いくつか不備がありました。それに関して、もう二点補足しなければなりません。
 * il ne subsiste que la jalousie, amour toujours imaginaires : la jalousie のあとにvirgule が入るます。
 * avoir de demi-relations charnelles avec elle : chamelles は、正しくは charnelles です。

 [注釈]
 * Amour changeantes, amours biaise'es : biaise' に shokoさんは「邪な」という訳をあてていました。これは見事な訳で、拝借しました。 もうひとついうと、amours mortes の mortes を「失われた」としたmidoriさんの訳も見事だと思いました。これも、いただきました。
 * <<J'ai plaisirs a` avoir...>>この『失われた時を求めて』からの引用部分は、やはり難しいですね。主人公は初め、バルベックという避暑地の浜辺を背景としそぞろ歩く少女たち(花咲く乙女たち)の姿に恋心を抱き、やがてそこからひとり一人の少女が分化(divid)するにつれて、その中の一人Albertine をパリのアパルトマンに「囲う」ことになるのです。

 [試訳]
 
 恋の代わりに、はかない、色とりどりの欲望の扇が拡げられる。移ろげな恋。邪な恋。消え去っても一瞬の偶然によって生まれ変わる恋。嫉妬しか残らぬ失われた恋。恋はまたつねに想像力の産物であり、例えば、語り手がこの腕にアルベルチーヌを抱きしめていてもなお、花咲く乙女たちみんなに感じるような、「不分割」の恋。「わたしはアルベルチーヌとなかば肉体的な関係を結んで楽しんでいたが、それは最初の頃にあって、今また蘇ってきた、あの年若い女の子たちの小さな集団に対してわたしが抱いていた、恋の集合的な様相によるものであった。」
 相思相愛は想像の産物であり、追いかけあうのに疲れた恋人たちがふくらませる幻想の力に応じて、長続きしたり、そうでなかったりする。性愛の想像力が利用するイメージ、それが語る神話、揺るがされる感情。そうしたものは私たちのアイデンティティーの現れではなく、社会生活が生み出したものである。恋は、いくつもの欲望が対峙する、その洗練された、社会化された形態でしかない。社会の抑圧が軽減され、あるいは私たちがそこから解放されると、欲望の暴力は残酷の極みに達する。ときにプルーストの中にはサド公爵が姿を見せる。
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 今、昨年大変話題になった大野更紗『困ってるひと』(ポプラ社)を読んでいます。上智大学でフランス語を学んでいた学生であった著者が、その後、タイ国境に多数いるビルマ難民の支援に深く、精力的にかかわるのですが、大学院に進学して間もなく、筋膜炎脂肪織炎症候群という難病に突然襲われます。その後の顛末を綴った一種のドキュメンタリーですが、語り口は「平成女子」らしくポップで、きわめてユーモラスです。ただ、ぼくは正直言って、やはり時に読み進めるのが辛くなりました。それでもその一方で、巻を置こうとは決して思いませんでした。
 少しだけ引用します。
 「ひとが、最終的に頼れるもの。それは、『社会』の公的な制度しかないんだ。わたしは、『社会』と向き合うしかない。わたし自身が、『社会』と格闘して生存していく術を切り開くしかない。難病女子はその事実にただ愕然とした。
 だが、その肝心の日本の社会福祉制度は、複雑怪奇な『モンスター』である。」(p.213)
 そのモンスターたる日本の矛盾に満ちた社会制度との格闘も、身につまされるように活写されています。
 昨年たくさんの書評が出た本書ですが、まだ未読の方は是非手に取ってみて下さい。
 それでは、今年は遅れそうな桜の咲く頃またお目にかかります。
 Shuhei


 

ピエール・ルパップ『恋愛小説の歴史』(1)

2012年02月15日 | Weblog
 [注釈]
 
 *Il n’y a pas de psychologie amoureuse, sinon sous la forme...: ne ...pas...sinon...「……でなければ…でない」という二重否定となっています。つまり、「恋愛心理」といってもla dissection maniaque ではないか、ということです。
 * L’amour est du temporel qui joue a` pre’tendre le contraire ; le contraire は、le temporel 「はかないもの」の反対ですから、「永遠」を意味しています。
 * Celles de Swann et d’Odette...Celle du narrateur pour Gilberte...: Celles は、性は異なりますが des amours としか読みようがありません。でも、「恋」を指示代名詞の女性形で表した著者の「錯誤行為」は興味深く、情愛深いamours は、母・祖母を含めた女たちcellesのものなのかもしれません。
 * de quelque sexe qu’il provienne : il =plaisir, 「その快楽がどんな性から生まれたものでも」つまり、主人公「わたし」にとって拭うことの出来ない、アルベルチーヌの同性愛疑惑を踏まえています。

 [試訳]
 
 恋とは、自分のことがわからない「わたし」と、そんな「わたし」の欲望がたえまなく作り、作り直す対象との間の追いかけっこの軌跡である。恋愛心理なるものがあるといっても、それはきわめて移り気な態度や言葉や行為の偏執狂的な腑分けでしかない。そこからはどんな知識も生まれず、ただ無数の仮説や解釈が寄せ集められ、やがては狂気と紙一重に至る。プルーストにおいては(ベケットも同様)分析の結果はつねに悲劇的であり、喜劇的でもある。つまり哀れを催す。
 恋とは、永遠を気取っていても、しょせん移ろうものである。美も同じこと。つまり、慧眼な審美家であったプルーストが知らぬはずがないのは、美も、選民が自分たちに都合良く作り上げた発明であり、時代ごとの選民たちの欲望にしたがって、その基準も変化するものである。したがって移り気な、通じ合えない、盲目の、滑稽ないくつもの恋があることになる。嫉妬にとり憑かれ錯乱にまで至る、スワンとオデットの恋。むなしくも初恋のときめきを取り戻そうとする、語り手のジルベルトに対する恋。「時には奔放で、時には気取った」ジゼルの恋。サン・ルーと娼婦ラシェルとの恋。男女を問わず、肉体の、あるいは精神のどんな歓びにも貪欲なアルベルチーヌに対する語り手の恋。シャルルュスと仕立て屋ジュピアンの、そしてその後釜となる音楽家モレルとの恋。そのモレルはまたサン・ルーの愛人ともなるのだが、その一方で後者はジルベルトを妻に迎えていた。
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 shokoさん、お忙しいなか訳文の寄稿ありがとうございました。そうです、課題文が少し長い時は全訳でなくとも一部だけでもかまいません。できるだけ継続してフランス語に取り組んでください。
 さて、Gallimard社の編集者のツィッターで以下の記事のことを知りました。
 http://www.actualitte.com/actualite/monde-edition/societe/kenzaburo-oe-ne-pas-trahir-la-memoire-des-victimes-d-hiroshima-32002.htm
 いわゆる脱原発運動に積極的にかかわっている大江健三郎のことを扱っています。大江は、日本の戦後の原発推進政策がヒロシマ・ナガサキの原爆犠牲者の魂を踏みにじるものであったと、一貫して訴えてきたのですが、東北大震災の万にも上る犠牲者の声に耳を傾けることなく、私たちは安易に「復興特需」などと言挙げすることは慎むべきなのだ。そんな思いをあらたにしました。
 それでは、「恋愛小説の歴史」の残りの試訳は、来週水曜日22日にお目にかけます。
 大阪は今日で三日続きの冷たい雨が、まだ降り続いています。流感の拡散にはこれで少し歯止めがかかるのかもしれませんが、青空を仰いで手足を伸ばしてみたいものです。週末にはもう一段の寒さの底となるとか。みなさんもどうかお身体には気をつけて下さい。Shuhei