[注釈]
* Le plaisir d'intriguer.… L'intriguant se donne,… mais l'intriguant est... : ぼくもこの部分に躓きました。思い悩んで、神谷幹夫訳の『幸福論』をアマゾンで取り寄せ、参照しました。ただ、「策謀をめぐらす」「策謀家」という訳は腑に落ちません。辞書に当たると、intriguer : Donner à penser en suscitant un vif intérêt et une certaine perplexité. またs'intriguer となると、 S'agiter beaucoup, se donner beaucoup de peine pour faire réussir une affaire. とあります。
ですから、ここでは当該動詞を必ずしも政治的な駆け引きとは取らずに、もう少し広い文脈で使われたものと解釈しました。またみなさんの方で他のご意見があれば、是非聞かせて下さい。
* j'entends de tes petites peines : ここは挿入文としてtes peines をtes petites peines と限定しているようです。
* il est si bon de s'assoir dans l'herbe. : si bon とあるのは反語的な用法でしょう。
[試訳]
こうしたルールは折り目正しかった社会のルールであったことにお気づきだろうか。たしかにそんな社会は退屈だった。気楽に話もできなかったのだから。私たち市民がそんな社会の言葉に、必要であった自由闊達さを回復させたのだった。それはそれでよかった。けれどもだからといって、それぞれが自分のやり切れなさを好きなだけ積み上げてもいい、ということにはならない。それでは世の中がもっと暗くなるだけだろう。そうしたルールは、家族を超えて社会が広がってゆくために必要なのだ。というのも、身内においてはたいてい、つい甘えてたわいもない愚痴をこぼしてしまう。もし少しでもそこに気遣いがあれば、愚痴をこぼすことなど思いもよらないはずだけれども。様々な能力をめぐって創意工夫する喜びも、話せば取るに足りない愚痴を、やむなく忘れるところから生まれるのではないだろうか。創意工夫をするものは言わば自ら苦労を買って出ている。その苦労が喜びに変わるのだ。音楽家の、あるいは画家の苦労もそうだろう。ところがそうした工夫を凝らす人間が、誰よりも先につまらない苦悩から解放されるのだ。そうした人には愚痴をこぼす機会も時間もまったくない。大切なのはつぎの点だ。君は弱音など吐かない。私が言うのはちょっとした苦労のことだが。そうすれば君がいつまでもそんなことに囚われることはない。
私が考える幸福でいられる術に関して、あいにくの天気の過ごし方についても有益な助言をすることもできるだろう。書き物をしていると雨が落ちて来た。屋根瓦が鳴り、無数の溝で水の流れがおしゃべりをはじめる。大気は洗われ、まるで清められたようだ。雲は、大きく広げられた何枚もの布のように寄せ集まる。こうした美しさを捉えることを学ばなければならない。なのに、ある者は言う。雨で作物が台無しになる。別の者は、あらゆるものが泥で汚れると言う。また別の者は言う。濡れた草の上に座るのはなんとも気持ちが悪い、と。そんなことはもっともで、わかりきっている。でもそう嘆いてみても何が変わるわけでもない。私は家の中にいても愚痴の雨を受けることになる。だから、雨の時にこそ晴れやかな顔が恋しくなる。だったら、雨の時にはニコニコしていよう。
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misayo さん、佐々木中の著作気に入ってもらえたようでなによりです。ぼくは、冬休み中には読もうと思っていた佐々木のデビュー作『夜戦と永遠』(河出文庫)もいまだ手つかずのままです。
ところで、原発事故以後再生可能エネルギーの問題がしきりに論じられていますが、以前こんなユニークな発電方法がテレビで紹介されていました。それは、なにか特殊な装置を仕掛けた床の上を大勢の人間が歩く、あるいは走り回ることで電気が作られるというものです。報道番組に組み込まれた小さなコーナーで何ヶ月も前に見たそんな映像がふと思い出されて、少し奇妙なことを考えました。
ぼくたちは、そうした発電装置を組み込んだ床の上に立っています。そしてどうしたことか、有無を言わさずパン食い競走に参加させられているのです。ところが、スタートラインに立たされてみると、コース中程に成人の頭ほどもあるような大きなアンパンがいくつも吊り下げられているのが見えるのですが、走者の数に比して明らかにパンの数が少ないのです。もう少しパンを小振りにすれば、走者全員に十分パンが行き渡りそうなものです。ところが、それでは走者たちは全力疾走をしない。少ない数のアンパンをめがけて走者を追い立てるからこそ、床の発電機からたくさんの電気エネルギーが生まれるというしくみなのです。
概して足に自信のある人は、ある程度の競争・格差は必要だと説くのですが、ぼくは小さなアンパンを割って、こしあんの甘さ加減など共に走った相手と論評しながら、大勢の人たちとアンパンを頬張りたいものです。
そんなとめどもないことを考えたのは、阿部彩『弱者の居場所がない社会 - 貧困・格差と社会的包摂』(講談社新書)を最近読んだせいかも知れません。貧困問題の専門家である著者は、学生時代に積んだ路上生活者の「おっちゃんたち」との交流が、後年の研究生活のかけがえのない核となっていると「あとがき」で述べています。そしてこう語ります。「社会的排除を、抽象的な理論や、無機質なデータで語ることができない。私が知る社会的排除は、虱や体臭のように生々しく、リアルで、社会的包摂は大地のように『人間の生』にとって決定的な基盤だからである。(...)『この生々しさをわかってほしい』。叫びたいような、この衝動を抑えることができなかったのである。」
本の帯にある通り、良質の、「貧困問題の新しい入門書」です。
今日大阪は、昼前になってようやく降り注ぐような陽射しが戻ってきました。けれども昨日と比べてももう一段冷え込んでもきました。しばらく厳しい寒さが続くようです。どうかみなさんもお身体には気をつけて下さい。
次回以降のテキストはこの週末にはみなさんのもとにお届けします。
Shuhei