フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Lecon 127 注釈と試訳

2007年10月31日 | Weblog
[注釈]
 * je ne peux dire que cela me soit totalement inconnu. : pouvoir は、pas をともなわずに ne だけで否定形となります。他に、oser, savoir も同様。ですから、que 以下が接続法になっています。je ne peux (pas) dire que + subj.
 * Depuis toujours cela bordait la vie. : ここの半過去形ですが、上記と関係があります。母が今占めている、その名付けようのない「広がり」がわたしにとって未知のものでないのは、昔からずっと(Depuis toujours )わたしの人生をも縁取って来たものだからです。
* des internes et des interne’s : interner が「強制収容する」という動詞ですから、ここは、精神に変調を来したものを看守する側とされる側のことでしょう。
 * pour le salut de nous tous : ここは、me’diter にも prier にもかかると考えられます。そうとると、以下の pourtant とうまくつながります。つまり、彼らはぼくたちのために思慮し、祈ってくけるわけでもない。「それでも」そうした人々は、ぼくたちのためにあの荒野に送られた人々ではないのか、ということです。
 
 [試訳]
 母が身を置き、時には横になったり座ったりするその広がりを、わたしは空間とも時間とも名付けることが出来ない。そこには方向付けがなく、どこに向かうわけでも、死にさえ向かうわけでもない。奇妙なことだが、母に会うごとにわたしはその広がりから逃れたくてしょうがない。それでも、それがわたしにとってまったく未知のものだということも出来ない。ずっと以前からそれは人生を縁取って来たものだし、わたしはそのことを薄々感じ取っていた。

 何の役にも立たないそんな空間と時間は、一体何の役に立つのだろうか。それは長い苦役を言い渡された人々の生きる時空。打ち捨てられた人々の、監禁する側とされる側の、希望のない病人たちの、何を待つわけでもなく待ち受けている人々の時空。そんな人々は、私たちすべての救済のために沈思しているわけでも、祈っているわけでもない。それでも彼らは、人間の臨界に、私たちとは無縁でない荒野に、私たちのために遣わされた人々のようだ。
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 Moze さんが名前を出された鷲田清一ですが、今や大阪大学の学長ですね。実は、とある勉強会で、氏のデビゥー作と言っていい『分散する理性』(勁草書房,1989年)を Moze さんとともに読んだことがあります。もうあれから何年も経つのですが、ついひと月ほど前のことだよ、とふと人にいわれても、まったく怪しむこともないかもしれません。  
 氏の繊細で柔軟な文章はあの頃から変わりませんが、扱うテーマはずいぶんと変わりましたね。ぼくは、梅雨のことだったか、『感覚の幽(くら)い風景』(紀伊国屋書店)を読みました。思索的エセーとでもいった本で、たとえ鷲田ファンでなくとも、取っ付きやすいものかもしれません。Mozeさんがあげられた作品とともに、お薦めです。
 次回は p. 34 Sa solitude から、p.35 cours de re'duction. までとしましょう。

Lecon 126 試訳

2007年10月24日 | Weblog
[試訳]
 子供の頃のわたしは母と一緒にいたがり、母の側を離れようとせず、母が行ってしまおうとするとダダをこねたらしい。後年、戦争が終わって間もない頃、しみじみと、あるいは独り立ちしようとするわたしをからかうように、人からそう言われた。

 今は、わたしはもう母と一緒にいることも出来ないし、近くに、傍らにいることさえ出来ない。母の現在の状態で、母に会いにゆき、しばらく時間を過ごすなかでわたしに望めることは、わたしのことを本当には分かっていなくても、母がわたしの方を見てくれることだ。そうすれば母を前にして話しかけ、たとえわずかな間でも、会話のまねごとをする能力を呼び覚ましたり、食べるものを与えるができる。わたしは目の前の人物を母と認め、見つめ、耳を傾ける。好奇心と痛みを持って。奇妙な、非対称的な関係においては、この人物に時間を捧げることが求められている。以前は母とわたしの関係は、それと口に出さなくともユーモラスなものであったが、今はそうした関係はほとんど崩れ去り、とても古い人形(ひとがた)を、かすかな生気を感じながらも、それでも力強い時代がかった彫像を、わたしは前にしているように感じる。

 * 冒頭の Enfant は、主語 je の説明と考えればいいのです。
 ** figure の訳はやりすぎかもしれません。
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 Bienvenue et bonne continuation ! 丸子さん。気軽におつきあいください。
 雅子さん、ぼくも時々 Province の番組見ていました。個人的には、世界遺産てんこもりのパリよりも、地方のフランスの方が好きだったりします。留学中の下宿も、パリ近郊の Clamart という町でした。近所の Meudon の森での逍遥が、何よりの贅沢でした。「ロバと女王」は見る機会に恵まれせんでした。
 次回は p.8を最後まで読みましょう。


Lecon 125 注釈と試訳

2007年10月09日 | Weblog
[注釈]
 * des mouvements non plus automatiques et pre'vus, mais impre'visibles et libres : non plus...mais ~ 「もはや…ではなく ~ 」
 * Telle est l'apparence. : 実は、Voila` ce que nous croyaons voir. の手前で、今回は区切りべきでした。というのは、この部分は、この後の論の展開と密接のかかわるところだからです。
 ベルクソンは以下しばらくのあいだ、当時の生理学・脳科学の知見に依拠した反論を予想してみせます。そうした立場からすると、意識が身体から自由であるという立場は、常識的なうわべ(apparence)だけをなぞった考えだとなるからです。もちろんベルクソンは、それでも魂の身体からの自律を説いてゆきます。
 
[試訳]
 まとめてみましょう。一方には、今という時に張り付き、空間の中で自らが占める場所に限定されている身体があります。それは、自動機械として振る舞い、外からの力に機械的に反応するものです。他方私たちには、空間においては身体を超えてはるか遠くまで広がり、時間を通じて持続する何かがあります。その何かが、もはや自動的で、予期された運動ではなく、思いがけなく自由な運動を身体に命じたり、課したりしている。どこからも身体を超え出ていて、自らを再創造しながら、さまざまな行為を創り出すこの何かが、自己であり、魂であり、精神なのです。精神とは正に、内に秘めたもの以上のものを自らから引き出し、受け取ったもの以上のものを返し、持てるもの以上のものを与える力のことです。以上が、私たちが理解していると信じていることです。これが一目で理解しているところです。
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 雅代さん、コメントの訂正についての助言ありがとうございます。こうした教室を運営していながら、ぼくは相変わらずのデジタル音痴です。またいろいろ教えて下さい。
 4回に渡って読んで来たベルクソンに関係する本をもう一冊紹介しておきます。最近 TVなどにも出演なさっている茂木健一郎さんの『脳と仮想』(新潮社)です。全 9章からなる essai ですが、第一章が「小林秀雄と心脳問題」、第九章「魂の問題」と題されています。読後ずいぶんと時間が経ってしまっているので内容に関する解説は出来ませんが、著者は大変広い人文的教養をお持ちの脳科学者です。寺田寅彦、斎藤茂吉、加藤周一、上田二三四、加賀乙彦などに連なる文人だといえるでしょうか。
 そういえば、今評判の、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社新書)も未読ですが、今一番読んでみたい書物のひとつです。
 さて、次回からは趣向をがらりと変えて Pierre Pachet << Devant ma me`re >> を読むことにします。今回もテキストをみなさんにメールにてお送りします。10/17(水)までにはご用意します。少し時間が空きますが、しばらくお待ちください。また常連の方(?)以外であらたにテキストを希望する方は、smarcel@mail.goo.ne.jp までお知らせください。
                                               smarcel

Lecon 124 注釈と試訳

2007年10月03日 | Weblog
 [注釈]
* s'il est vrai que le passe' y laisse des traces... : ここは、物質というものがあくまで現在にとどまるものだ、という文章を受けるところですから、この si は「譲歩」を意味します。つまり、「なるほど…だが」
* elle, retient ce passe', l'enroule sur lui-m^me... : la conscience enroule le passe' sur lui-me^me <--> le temps se de'roule この対立に注意して下さい。
* l'objet me^me de la vie humaine : obljet は、「対象、的、目的」を意味する言葉です。ですから、ここは「人間の命の目標そのもの」。

 [試訳]
 時間についてはどうでしょうか。身体は物質ですが、物質というものは、今現在あるものですね。ところで、確かに過去が物質に何らかの痕跡を残すことはありますが、そうした過去の痕跡も、それに気づき、気づいたものをその記憶の光に照らして解釈する意識にとってのみ存在するのです。つまり、流れる時間の中で過去を押しとどめるのは意識であり、やがてその過去とともに、意識は未来を創造することになるのです。同様に、先程話題にした意思的な行為も、それ以前の経験の中で学んだ運動の総体に他なりません。その運動はまた、この意思の力によってそのつど新たな方向に向かうのですが、世界に常に新しい何かをもたらすことが、その意思の役割であるかのようです。そうです。この力はそれ自身の外に新たなものを創造するのです。なぜなら、意思の力は空間において、思いがけない、予測できない運動を描き出すからです。さらに意思の力は、それ自身の内部においても、新たなものを創造します。というのも、意思的な行為はそれを望んだ者にはね返り、一定程度その行為を生み出した者の性質を変えてしまいます。そうしてある種の奇跡によって、自己による自己の創造を成し遂げるのですが、それこそが人間の生命の目標であるかのように思われます。
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 Moze さん、コメントの編集についてですが、申し訳ないのですが、どうしたらよいかわかりません。もし他にご存知の方がありましたら、教えていただけますか。
 さて、ベルクソンですが、次回を最終回とします。Telle est l'apparence で区切ることとしましょう。
 
 それから、旧「フランス語読解教室」ですが、データの移行が可能だったのは「日記」のみで、皆さんに利用してもらっていた「掲示板」の内容は移行できないものでした。ただ、
 http://cafe.ocn.ne.jp/profile/mshuhei/bbs
 に、「目次」のみ移しました。また何かの参考にして下さい。
                                             smarcel