[注釈]
* je ne peux dire que cela me soit totalement inconnu. : pouvoir は、pas をともなわずに ne だけで否定形となります。他に、oser, savoir も同様。ですから、que 以下が接続法になっています。je ne peux (pas) dire que + subj.
* Depuis toujours cela bordait la vie. : ここの半過去形ですが、上記と関係があります。母が今占めている、その名付けようのない「広がり」がわたしにとって未知のものでないのは、昔からずっと(Depuis toujours )わたしの人生をも縁取って来たものだからです。
* des internes et des interne’s : interner が「強制収容する」という動詞ですから、ここは、精神に変調を来したものを看守する側とされる側のことでしょう。
* pour le salut de nous tous : ここは、me’diter にも prier にもかかると考えられます。そうとると、以下の pourtant とうまくつながります。つまり、彼らはぼくたちのために思慮し、祈ってくけるわけでもない。「それでも」そうした人々は、ぼくたちのためにあの荒野に送られた人々ではないのか、ということです。
[試訳]
母が身を置き、時には横になったり座ったりするその広がりを、わたしは空間とも時間とも名付けることが出来ない。そこには方向付けがなく、どこに向かうわけでも、死にさえ向かうわけでもない。奇妙なことだが、母に会うごとにわたしはその広がりから逃れたくてしょうがない。それでも、それがわたしにとってまったく未知のものだということも出来ない。ずっと以前からそれは人生を縁取って来たものだし、わたしはそのことを薄々感じ取っていた。
何の役にも立たないそんな空間と時間は、一体何の役に立つのだろうか。それは長い苦役を言い渡された人々の生きる時空。打ち捨てられた人々の、監禁する側とされる側の、希望のない病人たちの、何を待つわけでもなく待ち受けている人々の時空。そんな人々は、私たちすべての救済のために沈思しているわけでも、祈っているわけでもない。それでも彼らは、人間の臨界に、私たちとは無縁でない荒野に、私たちのために遣わされた人々のようだ。
*************************************************
Moze さんが名前を出された鷲田清一ですが、今や大阪大学の学長ですね。実は、とある勉強会で、氏のデビゥー作と言っていい『分散する理性』(勁草書房,1989年)を Moze さんとともに読んだことがあります。もうあれから何年も経つのですが、ついひと月ほど前のことだよ、とふと人にいわれても、まったく怪しむこともないかもしれません。
氏の繊細で柔軟な文章はあの頃から変わりませんが、扱うテーマはずいぶんと変わりましたね。ぼくは、梅雨のことだったか、『感覚の幽(くら)い風景』(紀伊国屋書店)を読みました。思索的エセーとでもいった本で、たとえ鷲田ファンでなくとも、取っ付きやすいものかもしれません。Mozeさんがあげられた作品とともに、お薦めです。
次回は p. 34 Sa solitude から、p.35 cours de re'duction. までとしましょう。
* je ne peux dire que cela me soit totalement inconnu. : pouvoir は、pas をともなわずに ne だけで否定形となります。他に、oser, savoir も同様。ですから、que 以下が接続法になっています。je ne peux (pas) dire que + subj.
* Depuis toujours cela bordait la vie. : ここの半過去形ですが、上記と関係があります。母が今占めている、その名付けようのない「広がり」がわたしにとって未知のものでないのは、昔からずっと(Depuis toujours )わたしの人生をも縁取って来たものだからです。
* des internes et des interne’s : interner が「強制収容する」という動詞ですから、ここは、精神に変調を来したものを看守する側とされる側のことでしょう。
* pour le salut de nous tous : ここは、me’diter にも prier にもかかると考えられます。そうとると、以下の pourtant とうまくつながります。つまり、彼らはぼくたちのために思慮し、祈ってくけるわけでもない。「それでも」そうした人々は、ぼくたちのためにあの荒野に送られた人々ではないのか、ということです。
[試訳]
母が身を置き、時には横になったり座ったりするその広がりを、わたしは空間とも時間とも名付けることが出来ない。そこには方向付けがなく、どこに向かうわけでも、死にさえ向かうわけでもない。奇妙なことだが、母に会うごとにわたしはその広がりから逃れたくてしょうがない。それでも、それがわたしにとってまったく未知のものだということも出来ない。ずっと以前からそれは人生を縁取って来たものだし、わたしはそのことを薄々感じ取っていた。
何の役にも立たないそんな空間と時間は、一体何の役に立つのだろうか。それは長い苦役を言い渡された人々の生きる時空。打ち捨てられた人々の、監禁する側とされる側の、希望のない病人たちの、何を待つわけでもなく待ち受けている人々の時空。そんな人々は、私たちすべての救済のために沈思しているわけでも、祈っているわけでもない。それでも彼らは、人間の臨界に、私たちとは無縁でない荒野に、私たちのために遣わされた人々のようだ。
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Moze さんが名前を出された鷲田清一ですが、今や大阪大学の学長ですね。実は、とある勉強会で、氏のデビゥー作と言っていい『分散する理性』(勁草書房,1989年)を Moze さんとともに読んだことがあります。もうあれから何年も経つのですが、ついひと月ほど前のことだよ、とふと人にいわれても、まったく怪しむこともないかもしれません。
氏の繊細で柔軟な文章はあの頃から変わりませんが、扱うテーマはずいぶんと変わりましたね。ぼくは、梅雨のことだったか、『感覚の幽(くら)い風景』(紀伊国屋書店)を読みました。思索的エセーとでもいった本で、たとえ鷲田ファンでなくとも、取っ付きやすいものかもしれません。Mozeさんがあげられた作品とともに、お薦めです。
次回は p. 34 Sa solitude から、p.35 cours de re'duction. までとしましょう。