フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

オクターヴ・マノーニ『フロイト』(6)

2008年10月29日 | Weblog
 [注釈]
 
 * Il reste que (...) c’est cela que les constructions... : il reste que...「それでも…」フロイトの原父殺しの「仮説」の実証性を問うことは出来ない。それでも、そこにはフロイトのそこまでの学説の流れを豊かにするものがある、ということです。
 * Freud n’est ni le premier ni le dernier qui ait (...) donne’ une explication...: qui の先行詞に 最上級やそれに準じる表現が使われている時は、関係節で接続法が使用されます。
 * Il se de’clare bien (...) mais c’est, en fin de compte... : 自身の精神分析学説と「現実」の問題にどう折り合いを付けるのか。その取り組みの中から、「現実原則」から「快感原則の彼岸」への理論的跳躍が準備されているようです。
 「現実」と「幻想」との間の往還、あるいは揺れを念頭に置いてもらえれば、「難しい」とおっしゃる、この部分の言わんとするところを理解してもらえるのではないでしょうか。

 [試訳]

 実証的な知に関して、フロイトを批判することも、擁護することもすべきではない。けれども、神話であるかどうかには係らず、根源的な侵犯、- 死んだ父という自責感を植え付けるイメージ、- 死んだことを知らなかった父(夢見る側の願い)、あるいは「狼男」の父。「トーテムとタブー」を構築することによって整理しようとしたのは、こうしたものであることには違いない。それは、強迫神経症者の、また同時に、宗教的な諸行為を分析することによって至ったものであり、またそれは、それ以後益々重要になって来る罪責感の問題に対する最初のアプローチでもあった。
 現実を参照することによって、フロイトは近親相姦の禁止を根拠づけようとしたのであるが、そのことの困難さから、無限循環に基づく説明を持ち出したのは、なにもフロイト一人ではない。ところが、1911年、つまりほぼ同じ頃フロイトはある論文を発表していて、そこでは180度異なる態度を取っている。その論文の冒頭部分では、現実原則をひき続き重視してゆきたいと明言している。けれども、結局、無意識でも、現実原則に従順な思想でもない、空想(幻想)に最も大きな場所を割いているのだ。
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 読む量にも関係すると思うのですが,今扱っているところは、論の展開に乏しく少々退屈ですね。みなさんが「難しい」と仰るのも分かるような気がします。もう少しだけ辛抱しておつき合い下さい。次回は,p.148 du re^veur. までとしましょう。

 みなさん、お見舞いの言葉ありがとうございます。今週月曜日から,ようやくいつものように声を張り上げて授業が出来るようになりました。とくに先週一週間は、重い身体を引きずるようにして過ごしていました。どうにか本調子に戻りました。
 長い通勤時間が少々辛かったその一週間、谷川俊太郎・徳永進の往復書簡『詩と死をむすぶもの』(朝日新書)を読んでいました。学生たちにも,同書を薦めたのですが,その際にこんな話をしました。-
 世界を還流するドルを操っていたグリーン・スパンが自身の過ちを認めた。世間の流れにどんなに必死に追いついて行こうとしても,その流れを誰も正確に読み取ることは出来ない。高等教育機関ではここのところ,いかにして時流に棹さすかばかりを教え込もうとしているが,ときにその流れから少し距離おいて、世界を,社会を、人間を冷静に眺める知恵も、片方でしっかり学んでほしい。そうした知恵を一昔前は「教養」と呼んで、少しは人々がありがたがったのだけれど...。
 上記の本に収録されていた、詩人谷川俊太郎が、トックーこと徳永医師に宛てた最後の手紙に、韓国の詩人のつぎのような言葉が引用されていました。「この世で生きるべし。だがこの世に属してはならない」
 優しく、柔軟な精神で人の生死を見つめる、医師と詩人の言葉の数々に、上に述べたような「教養」を、僅かながらですが授かることが出来ました。機会がありましたら,是非ご一読下さい。詳しくは以下をご参照下さい。
 http://aspara.asahi.com/asahi-shinsyo/login/asahi-shinsyo.html
 smarcel





オクターヴ・マノーニ『フロイト』(5)

2008年10月22日 | Weblog
 [注釈]
 * On a conteste’… : contester / constater まぎらわしいですから、混同しないようにしましょう。
 * un fantasme fait aussi bien l’affaire. : faire l’affaire 「適当である」ex. Cette petite valise fera l’affaire, je n’ai rien a` emporter. ここは、フロイト自身が、原父殺しの客観的真実性を「必然ではない」と認めた、という流れをしっかりつかんで下さい。
 * Si Freud pre’fe`re (…) a` la ve’rite’ objective, la raison en est surprenante : まず si ですが、ここは「仮定」ではなく、「事実の提示」として働いています。ですから、フロイトが客観的な真実性よりも la croyance (ここではほとんど想像を意味しています)を大切にしていたということを認めた上で、その理由が、ちょっとびっくりですよ、と述べています。
 * surprenante : 事実性よりも、信念が問われる理由として、「いや~、原始人には幻想など必要ないのだから、実際に行われた行動しかないでしょう」と答えられたら、はやり面食らいますよね。それは、まさに un cercle vicieux (p.148)だからです。
 * l’homme aux loups については、
 http://yamatake.chu.jp/01ana/2ana_b/3.html
 をご参照下さい。
 「狼男症例」のポイントのひとつは、強迫神経症発症の引き金となるトラウマとなる出来事が、必ずしも確定的な歴史的な事実ではなく、夢の解釈を待って初めて再構成されるもとだ、ということです。つまり、ここにも真実と信念の間の境界の揺らぎがあります。
 
 [試訳]
 
 フロイトはそのことについて歴史(先史)的な根拠を与えようとした。ひとつの神話を想像したのだ。ある日のこと、息子たちが部族の父長を殺し食べてしまう。その結果として、「罪悪感に基づいた」新たな社会組織が生まれた。この神話はフロイトに感情的に大きな力を及ぼした。というのも、この想像にとても満足していたものの、これを世に問う際にフロイトは本物のパニックに襲われたからである。
 この神話の客観的な真実性に対して異議を唱えることは容易であった。この物語にそうした真実性が必要でないことは、フロイト自身が認めてたのだから、これを幻想だと言ってもかまわないだろう。ここには、同時期に展開されていた「狼男」の分析において課せられていた問いの反響を聞くことが出来るように思われる。フロイトは、客観的な真実よりも想いに肩入れすることを選んでいたのであるが、その理由がひとを驚かせるものだった。つまり、抑圧を知らない原始人は幻想を持つまでもなく、ただ行動すればよかった、というのだ。
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 次回は,少し長くなりますが,p148 obe'issant au principe de re'alite'. までとしましょう。
 
 先週の金曜に朝,喉の痛みで目を覚ましたのですが,その日は無理して仕事に出ました。ですが、月曜は大事を取って授業を休み、火曜は早朝から大学に出かけました。そして今日、普段から動きの鈍い頭がいっそう重く感じられるままに、この書き込みをしています。妙な間違いなどありましたら,お手数ですが,ご指摘下さい。どうもここ何年か、秋の戸入り口のところで身体が躓いてしまうことが多くなりました。みなさんもどうか気をつけて下さい。
smarcel

オクターヴ・マノーニ『フロイト』(4)

2008年10月15日 | Weblog
 [注釈]
 
 * L’essentiel (…) n’est pas entame’ par l’abandon ou la re’futation... : entamer には、第一義的には enlever en coupant une partie、そこから転じて、物事を損なうという意味で使われることがあります。 ex. Rien ne peut entamer sa re’putation. フロイトの業績は民俗誌学的には批判できるだろうけれども、…という流れをしっかりなぞって下さい。
 * Freud … ne pouvait faire ce retournement ironique. : ce retournement とありますから、前文の内容を当然受けています。つまり、トーテミスムは、その真実性によって民俗誌学者によって受けいられたわけではなく、彼らのエディプス・コンプレックスに訴えるところがあったのではないか、といった「皮肉な」見方のことです。なお retourner には批評などを「投げ返す」という意味もあります。
 * Mais est-il lui-me^me explicable ? : これも、Il se contente de constater le caracte`re universel de l’OEdipe... という文脈からすると、il は le caracte`re universel de l’OEdipeのことです。
 
 [試訳]
 
 いずれにしてもフロイトの仕事が、彼が依拠していた科学的な真実よりも遠くまで及ぶことは初めてではない。今日の民俗誌学は、フロイトが支えとした民俗誌学を批判することは出来るであろう。けれども、言ってみればそれは民俗誌学内部の問題である。ことの本質、つまりエディプスの禁止とそれにともなう幻想世界の問題は、トーテミスムを捨象しても、反駁しても、損なわれることはない。
 トーテムと関連づけられる二つの禁止(トーテムを殺してはならない。同一のトーテムに属するパートナーと性的な関係を結んではならない)は、エディプスの禁止に対応している。おそらくは、民俗誌学者たち自身のエディプス・コンプレックスのゆえに、彼らに対してトーテミスムがこんなにも成功を収めたのであろう。フロイト自身は、このような皮肉な見方はしなかっただろうけれども。フロイトは、あらゆる習俗を説明できる、エディプスが持つ普遍的な性格を確認しただけであった。しかし、エディプスの普遍的性格それ自体は説明可能なのだろうか。
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 Le Cle'zio については、ぼくも授業で彼への受賞後のインタヴューを学生に見せたり,邦訳を紹介したりしました。彼はまだ68歳だったのですね。八十をとうに超えた、老大家然とした姿を漠然と想像していたものですから、『調書』をひっさげて颯爽と文壇にデビューを果たした頃とさして変わらない、依然として若々しい姿に驚きました。
 『フロイト』が一段落したら,彼にまつわる文章を読むことにしましょうか。
 それでは、次回は、p.147 au lieu d'agir. までとしましょう。


オクターヴ・マノーニ『フロイト』(3)

2008年10月08日 | Weblog
 [注釈]
 
 * un fondement obscur, a` chercher du co^te’ de l’inconscient : 「無意識の側に探求すべき、定かでない根拠」名詞 + a`+ inf.「…すべき~」ex. Elle a rien a` faire aujourd’hui.
 * Freud a de confiance (...) adopte’… : de confiance 「安んじて」。フロイトは当時の社会科学の知見を、いささか無批判に自身の理論構築の出発点としていた、ということです。そして、その例示が、 Il a admis sans critique que...と Il n’a pas discute’ non plus l’ide’e … と二つ掲げられています。
 * la parente’ par consanguinite’ e’tant << biologique >>, est aussi plus naturelle... : この aussi はMoze さんの解釈で正しいと思います。「また」ぐらいの意味です。
 * quand il montre les rapprochements a` faire entre … : ここの a` faire も、un fondement a` chercher と同じと考えられます。

 [試訳]
 しかしながら、こうした問題にフロイトが取り組まなければならなかった真の理由は、後に「超自我」の問題となるものに、フロイトがますますぶつかるようになったためである。道徳的意識の判断には理由の定かでない根拠、無意識の側に求めなければならない根拠がある。そうした判断は説明や正当化の必要もなくなされる。そうした点で道徳的判断はタブーと同じである。「未開の」人々もタブーを説明できないからだ。同様に、強迫神経症患者も自分たちの強迫観念がどんなものであるのかを理解することが出来ない。
 フロイトは、当時社会科学の分野で一般的に認められていた公準を疑いなく(けれども、実際のところは軽々に)議論の前提としていた。例えば、父系に因る血縁関係こそが「生物学的」であり、他の血縁関係よりもより自然であり、したがった、時間的には、父系血族がトーテミズム体制よりも先行するはずであると、なんらの検証もせずに認めていた。また、民族学者が研究対象としている同時代の未開人たちを、先史時代の人類のように看做し、子供たちを原始社会の状態といっしょにしてしまう考え方に疑いを持つこともなかった。けれども、餅屋に戻り、古くからの慣習と強迫神経症のある種の特徴を比較する段になると、フロイトは誰をも追随することはない。そして、この領域にこそフロイトの貢献の最も堅固な部分がある。
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 今回は難しかったようですね。試訳を参考の上でまた疑問点などありましたら、遠慮なくお尋ね下さい。
 丸子さん、お帰りなさい。夏のパリを楽しまれたようですね。Tram 懐かしいです。そうでした。新しい路線を使うと、 Cite' Universitaire にも行けちゃうのですね。ぼくは留学当時パリ近郊の Clamart という町に住んでいて,Issy から一駅、Les Meulineaux まで、まとまった買い物をする時などによく Tram を使っていました。ここ何年かは,寒い時期にしかパリに滞在していないので、あの夏の陽射しを忘れてしまいそうです。
 次回は,p.147. Mais est-il...までとしましょう。


オクターヴ・マノーニ『フロイト』(2)

2008年10月01日 | Weblog
 [注釈]
 * La solution e’picurienne (…) : ここは、前文の Pourquoi...を受けての文章ですから、solution は、明子さんの訳にあるように「解釈」、あるいは「答え」と考えるのがいいでしょう。
 * il a cette e’vidence impe’pe’trable qui (…) : ここの impe’ne’trable は、関係節以下に説明があるように、命令を受ける方からはその意味が「伺い知れない」ということです。理由は判らないながらも、そんなことはダメに決まってるでしょうという e’vidence。ですから、ときに「不条理」に思えるのですね。
 * cela ne de’plairait pas a` Freud : 宗教の起源を解き明かそうとしてユングと絶縁することも、フロイトは辞さなかったであろう。
 
 [試訳]
 快楽主義者の答え(禁欲するのは、さらなる満足を得るひとつの方法だ)は、確かに十分なものではない。打算によらない、しかも宗教的な神話より他の何ものかに基づくに違いない禁止というものがある。宗教的な神話といっても、実際、「私たちの魂の内的な働きを反映したものでしかない」のだから。そうすると禁止とは、なによりも、心的現実のひとつであることは間違いないだろう。あらゆる禁止の原型は、近親相姦のそれである。そこには真の命令がもつ、有無を言わさない明証性があり、不条理に見えることすらある。
 フロイトにとっては、自然人 - 単なる生物学的な想像物 - は、「禁止のない野生人」であり、彼らにとっては、エディプスの二つの禁止(近親相姦と父親殺し)は何の意味も持たないように思われた。ディドロがすでにそうした考えをもっていたが、しかしながらそれ以降、民俗誌学が私たちに知らしめたのは、説明のつかないタブーと、文化による強制よりも厳しいさまざまなトーテミズムの禁止によって、私たち以上に行動をずっと制限された「原始人」の姿であった(フレイザー『トーテミスムと異族結婚』(1911年))。さらに宗教の起源の問題を明らかにしようとすると、ユングと袂を分かつことになりかねない。フロイトは直接そうした絶縁に手を染めようとはしなかったが、そうなってもフロイトはまんざらでもなかったであろう。
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 misayo さん、同書の村上仁訳があるとは知りませんでした。さすが、翻訳大国日本ですね。実は、今読んでいる『フロイト』ですが、少し古い本なので今回取り上げるのに少し躊躇したのですが、門外漢ながらなかなかいい本だな、と思ったものですから、思い切ってテキストとして使用しています。専門家の村上さんの訳業があるのなら、やはり、そう悪い本ではないのですね。貴重な情報ありがとうございました。
 それでは、次回はp.147 son apport. までとしましょう。