[注釈]
* Il reste que (...) c’est cela que les constructions... : il reste que...「それでも…」フロイトの原父殺しの「仮説」の実証性を問うことは出来ない。それでも、そこにはフロイトのそこまでの学説の流れを豊かにするものがある、ということです。
* Freud n’est ni le premier ni le dernier qui ait (...) donne’ une explication...: qui の先行詞に 最上級やそれに準じる表現が使われている時は、関係節で接続法が使用されます。
* Il se de’clare bien (...) mais c’est, en fin de compte... : 自身の精神分析学説と「現実」の問題にどう折り合いを付けるのか。その取り組みの中から、「現実原則」から「快感原則の彼岸」への理論的跳躍が準備されているようです。
「現実」と「幻想」との間の往還、あるいは揺れを念頭に置いてもらえれば、「難しい」とおっしゃる、この部分の言わんとするところを理解してもらえるのではないでしょうか。
[試訳]
実証的な知に関して、フロイトを批判することも、擁護することもすべきではない。けれども、神話であるかどうかには係らず、根源的な侵犯、- 死んだ父という自責感を植え付けるイメージ、- 死んだことを知らなかった父(夢見る側の願い)、あるいは「狼男」の父。「トーテムとタブー」を構築することによって整理しようとしたのは、こうしたものであることには違いない。それは、強迫神経症者の、また同時に、宗教的な諸行為を分析することによって至ったものであり、またそれは、それ以後益々重要になって来る罪責感の問題に対する最初のアプローチでもあった。
現実を参照することによって、フロイトは近親相姦の禁止を根拠づけようとしたのであるが、そのことの困難さから、無限循環に基づく説明を持ち出したのは、なにもフロイト一人ではない。ところが、1911年、つまりほぼ同じ頃フロイトはある論文を発表していて、そこでは180度異なる態度を取っている。その論文の冒頭部分では、現実原則をひき続き重視してゆきたいと明言している。けれども、結局、無意識でも、現実原則に従順な思想でもない、空想(幻想)に最も大きな場所を割いているのだ。
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読む量にも関係すると思うのですが,今扱っているところは、論の展開に乏しく少々退屈ですね。みなさんが「難しい」と仰るのも分かるような気がします。もう少しだけ辛抱しておつき合い下さい。次回は,p.148 du re^veur. までとしましょう。
みなさん、お見舞いの言葉ありがとうございます。今週月曜日から,ようやくいつものように声を張り上げて授業が出来るようになりました。とくに先週一週間は、重い身体を引きずるようにして過ごしていました。どうにか本調子に戻りました。
長い通勤時間が少々辛かったその一週間、谷川俊太郎・徳永進の往復書簡『詩と死をむすぶもの』(朝日新書)を読んでいました。学生たちにも,同書を薦めたのですが,その際にこんな話をしました。-
世界を還流するドルを操っていたグリーン・スパンが自身の過ちを認めた。世間の流れにどんなに必死に追いついて行こうとしても,その流れを誰も正確に読み取ることは出来ない。高等教育機関ではここのところ,いかにして時流に棹さすかばかりを教え込もうとしているが,ときにその流れから少し距離おいて、世界を,社会を、人間を冷静に眺める知恵も、片方でしっかり学んでほしい。そうした知恵を一昔前は「教養」と呼んで、少しは人々がありがたがったのだけれど...。
上記の本に収録されていた、詩人谷川俊太郎が、トックーこと徳永医師に宛てた最後の手紙に、韓国の詩人のつぎのような言葉が引用されていました。「この世で生きるべし。だがこの世に属してはならない」
優しく、柔軟な精神で人の生死を見つめる、医師と詩人の言葉の数々に、上に述べたような「教養」を、僅かながらですが授かることが出来ました。機会がありましたら,是非ご一読下さい。詳しくは以下をご参照下さい。
http://aspara.asahi.com/asahi-shinsyo/login/asahi-shinsyo.html
smarcel
* Il reste que (...) c’est cela que les constructions... : il reste que...「それでも…」フロイトの原父殺しの「仮説」の実証性を問うことは出来ない。それでも、そこにはフロイトのそこまでの学説の流れを豊かにするものがある、ということです。
* Freud n’est ni le premier ni le dernier qui ait (...) donne’ une explication...: qui の先行詞に 最上級やそれに準じる表現が使われている時は、関係節で接続法が使用されます。
* Il se de’clare bien (...) mais c’est, en fin de compte... : 自身の精神分析学説と「現実」の問題にどう折り合いを付けるのか。その取り組みの中から、「現実原則」から「快感原則の彼岸」への理論的跳躍が準備されているようです。
「現実」と「幻想」との間の往還、あるいは揺れを念頭に置いてもらえれば、「難しい」とおっしゃる、この部分の言わんとするところを理解してもらえるのではないでしょうか。
[試訳]
実証的な知に関して、フロイトを批判することも、擁護することもすべきではない。けれども、神話であるかどうかには係らず、根源的な侵犯、- 死んだ父という自責感を植え付けるイメージ、- 死んだことを知らなかった父(夢見る側の願い)、あるいは「狼男」の父。「トーテムとタブー」を構築することによって整理しようとしたのは、こうしたものであることには違いない。それは、強迫神経症者の、また同時に、宗教的な諸行為を分析することによって至ったものであり、またそれは、それ以後益々重要になって来る罪責感の問題に対する最初のアプローチでもあった。
現実を参照することによって、フロイトは近親相姦の禁止を根拠づけようとしたのであるが、そのことの困難さから、無限循環に基づく説明を持ち出したのは、なにもフロイト一人ではない。ところが、1911年、つまりほぼ同じ頃フロイトはある論文を発表していて、そこでは180度異なる態度を取っている。その論文の冒頭部分では、現実原則をひき続き重視してゆきたいと明言している。けれども、結局、無意識でも、現実原則に従順な思想でもない、空想(幻想)に最も大きな場所を割いているのだ。
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読む量にも関係すると思うのですが,今扱っているところは、論の展開に乏しく少々退屈ですね。みなさんが「難しい」と仰るのも分かるような気がします。もう少しだけ辛抱しておつき合い下さい。次回は,p.148 du re^veur. までとしましょう。
みなさん、お見舞いの言葉ありがとうございます。今週月曜日から,ようやくいつものように声を張り上げて授業が出来るようになりました。とくに先週一週間は、重い身体を引きずるようにして過ごしていました。どうにか本調子に戻りました。
長い通勤時間が少々辛かったその一週間、谷川俊太郎・徳永進の往復書簡『詩と死をむすぶもの』(朝日新書)を読んでいました。学生たちにも,同書を薦めたのですが,その際にこんな話をしました。-
世界を還流するドルを操っていたグリーン・スパンが自身の過ちを認めた。世間の流れにどんなに必死に追いついて行こうとしても,その流れを誰も正確に読み取ることは出来ない。高等教育機関ではここのところ,いかにして時流に棹さすかばかりを教え込もうとしているが,ときにその流れから少し距離おいて、世界を,社会を、人間を冷静に眺める知恵も、片方でしっかり学んでほしい。そうした知恵を一昔前は「教養」と呼んで、少しは人々がありがたがったのだけれど...。
上記の本に収録されていた、詩人谷川俊太郎が、トックーこと徳永医師に宛てた最後の手紙に、韓国の詩人のつぎのような言葉が引用されていました。「この世で生きるべし。だがこの世に属してはならない」
優しく、柔軟な精神で人の生死を見つめる、医師と詩人の言葉の数々に、上に述べたような「教養」を、僅かながらですが授かることが出来ました。機会がありましたら,是非ご一読下さい。詳しくは以下をご参照下さい。
http://aspara.asahi.com/asahi-shinsyo/login/asahi-shinsyo.html
smarcel