[注釈]
*non-sens : これは文脈にふさわしい訳語を考えるしかありませんね。misayoさんの「不条理」というのも、いいかもしれません。
*Pluto^t avoir ve’cu : ここは、後者を選ぶよりは「むしろ」ということですから、une ve’ritable vie, une existence de’fini d’amourのことです。
文末の内容に関しては、語られていることが当たり前すぎて、かえってその論理が見えづらいかもしれません。試訳を参照ください。
[試訳]
死とは命の条件であるのだろうか?
死ぬことは、生きてあることの条件そのものです。死こそが、生から意味を奪いながらも、そこにある意味を与えるのだ、と多くの人が言いましたが、私もその列に加わることになります。死は、命に意味を与える意味ならざるものなのです。ある意味を与えながらも、その意味を否定する意味ならざるもの。それが、短く苛烈な生にあって、はかなく熱い生にあって、死の役割が明らかにするものです。そんな生において、力と強度を与えるのが死なのです。それは逃れることのできない二者択一なのです。私たちはともすると生の激しさと同時に永遠をものぞみます。でもそれは思考不能なことであり、人間にはでき過ぎた虫のいい話で、人間の身分に相応しいものではありません。
ですから、私たちに許された二者択一とは、こうです。はかない、けれども真実の、愛のある命。そうでなければ、果てのない、愛もない、まったく命とは呼べない、永遠の死のようなもの。もしこうした二者択一が示されたら、私の考えでは、後者を選ぶ人はほとんどいないでしょう。むしろ、たとえ夏のひと日であっても、蜻蛉のように果てることを選ぶでしょう。というのも、こうして見ると、長いも短いも同じことだからです。たとえ私は命を失わなければならないとしても、少なくとも命を経験しているはずです。そうでしょう。命を失わなければならないということは、それをすでに生きたということですから。
……………………………………………………………………………………………
今回も、また本の話になりますが、池澤夏樹『春を恨んだりはしない』(中央公論新社)を読み、夏休み明けの大学の授業で紹介もしました。仙台若林地区に叔母夫婦が住んでいた著者が、何度も被災地に入り、物資の運搬などにも手を貸しながらまとめたルポルタージュでもあり、文明論としても読める一冊です。少しだけ引用しておきます。
「自然には現在しかない。事象は今という瞬間にしか属さない。だから結果に対して無関心なのだ。人間はすべての過去を言葉の形で心の内に持ったまま今を生きる。記憶を保ってゆくのも想像力の働きではないか。過去の自分との会話ではないか。」(p.24)
言葉という、精妙な、けれどもか細い糸を通じて過去と繋がっていなければ、私たちは今この時を十全に、ゆたかに生きることはできません。そのことを忘れて、転変する社会状況に適合することに、あるいは未来に設定された目標をのみ見つめることに、私たちは文字通り「我を忘れて」いるのではないか。そんなことを思いながら、同書を読んでいました。
文芸誌『新潮』10月号に掲載された、古井由吉・平野啓一郎の対談「震災後の文学の言葉」も、相前後して大変興味深く読みました。内容に関しては、hiokiという名でツィートしましたから(http://twitter.com/#!/hioki)、ここではくり返しません。興味のある方は、お手数ですが、そちらをご覧下さい。
さて、次回からは、「ジェンダー」という言葉を巡って先日議論が沸き起こった、フランスの「教科書」問題に関する論考を読むことにします。今週末には皆さんの元にお届けするようにします。
大阪は、日中こそまだ夏のようですが、朝晩はすっかり秋めいてきました。shokoさんどうか大事になさって下さい。みなさんも、季節の変わり目、お身体には気をつけて下さい。Shuhei
*non-sens : これは文脈にふさわしい訳語を考えるしかありませんね。misayoさんの「不条理」というのも、いいかもしれません。
*Pluto^t avoir ve’cu : ここは、後者を選ぶよりは「むしろ」ということですから、une ve’ritable vie, une existence de’fini d’amourのことです。
文末の内容に関しては、語られていることが当たり前すぎて、かえってその論理が見えづらいかもしれません。試訳を参照ください。
[試訳]
死とは命の条件であるのだろうか?
死ぬことは、生きてあることの条件そのものです。死こそが、生から意味を奪いながらも、そこにある意味を与えるのだ、と多くの人が言いましたが、私もその列に加わることになります。死は、命に意味を与える意味ならざるものなのです。ある意味を与えながらも、その意味を否定する意味ならざるもの。それが、短く苛烈な生にあって、はかなく熱い生にあって、死の役割が明らかにするものです。そんな生において、力と強度を与えるのが死なのです。それは逃れることのできない二者択一なのです。私たちはともすると生の激しさと同時に永遠をものぞみます。でもそれは思考不能なことであり、人間にはでき過ぎた虫のいい話で、人間の身分に相応しいものではありません。
ですから、私たちに許された二者択一とは、こうです。はかない、けれども真実の、愛のある命。そうでなければ、果てのない、愛もない、まったく命とは呼べない、永遠の死のようなもの。もしこうした二者択一が示されたら、私の考えでは、後者を選ぶ人はほとんどいないでしょう。むしろ、たとえ夏のひと日であっても、蜻蛉のように果てることを選ぶでしょう。というのも、こうして見ると、長いも短いも同じことだからです。たとえ私は命を失わなければならないとしても、少なくとも命を経験しているはずです。そうでしょう。命を失わなければならないということは、それをすでに生きたということですから。
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今回も、また本の話になりますが、池澤夏樹『春を恨んだりはしない』(中央公論新社)を読み、夏休み明けの大学の授業で紹介もしました。仙台若林地区に叔母夫婦が住んでいた著者が、何度も被災地に入り、物資の運搬などにも手を貸しながらまとめたルポルタージュでもあり、文明論としても読める一冊です。少しだけ引用しておきます。
「自然には現在しかない。事象は今という瞬間にしか属さない。だから結果に対して無関心なのだ。人間はすべての過去を言葉の形で心の内に持ったまま今を生きる。記憶を保ってゆくのも想像力の働きではないか。過去の自分との会話ではないか。」(p.24)
言葉という、精妙な、けれどもか細い糸を通じて過去と繋がっていなければ、私たちは今この時を十全に、ゆたかに生きることはできません。そのことを忘れて、転変する社会状況に適合することに、あるいは未来に設定された目標をのみ見つめることに、私たちは文字通り「我を忘れて」いるのではないか。そんなことを思いながら、同書を読んでいました。
文芸誌『新潮』10月号に掲載された、古井由吉・平野啓一郎の対談「震災後の文学の言葉」も、相前後して大変興味深く読みました。内容に関しては、hiokiという名でツィートしましたから(http://twitter.com/#!/hioki)、ここではくり返しません。興味のある方は、お手数ですが、そちらをご覧下さい。
さて、次回からは、「ジェンダー」という言葉を巡って先日議論が沸き起こった、フランスの「教科書」問題に関する論考を読むことにします。今週末には皆さんの元にお届けするようにします。
大阪は、日中こそまだ夏のようですが、朝晩はすっかり秋めいてきました。shokoさんどうか大事になさって下さい。みなさんも、季節の変わり目、お身体には気をつけて下さい。Shuhei