フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Alain Badiou <<Eloge de l'amour>>, Chapitre II. (2)

2013年09月25日 | Weblog

[p.22-p.26 要旨]
 

 プラトンは恋愛の中にイデアと呼ばれる、普遍的なものへの跳躍のきっかけを見ていましたが、私も同じように考えています。二人の偶然の出会いという、個別的な出来事が、普遍的な価値を持ったものへの導きとなりうると考えるからです。つまり、恋愛が利害によるもたれ合いや、計算ずくめの投資でないとすれば、それは世界を同一性ではなく、差異として経験することだからです。
 ところで精神分析家ジャック・ラカンは、「性愛による関係など存在しない」という、大きな議論を呼んだ、しかも大変深い洞察を含んだ言葉を残しています。ラカンが言いたかったのは、こういうことです。二つの肉体がどんなに親密に肌を合わせたとしても、性愛はどこまでもひとり一人の出来事であり、快楽もそれぞれ自らの快楽でしかない。だからそれは果てのないような反復を要求するのです。
 ところが、愛こそが、そうした非関係性を補うものであり、「他者の生きてあること」に触れようとする試みにほかなりません。あなたとともに、ありのままの他者が生きることを可能とするのです。欲望は他者の特定の身体部位にフェティシストのように向かうのですが、愛は、断絶を経験し、再構成されたわたしの生のにおいて、ありのままの他者に問いかけようとするのです。
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 今回も、masayoさん、Mozeさん、そしてAkikoさん、コメントありがとうございました。
 misayoさんが仰る通りp.26 dans ma vie の ma は確かに唐突な感じがしますが、他者を愛する主体としての「わたし」ということだと思います。
 それから、Akikoさんのまとめに、「ボーヴォワールへの批判」とありましたが、『第二の性』は若い頃のバディゥーに性愛の虚しさを教えてくれた書物であったようです。p.25のle semtiment...que le corps de la femme および le sentiment syme'trique de la femme que le corps de l'homme...、この部分の二つのque はいずれも同格を導く que です。つまり、性行為のあとの男女を襲う le sentimentの説明となっています。
 Moze さんがご覧になったタピスリー「貴婦人と一角獣」をぼくは未だに目にしたことがありません。クリュニー美術館の北側の通りを数えられないほど行き来しているはずですが、同美術館に足を踏み入れたことは未だないのです。本当に残念なことです。つぎの機会にはきっと訪れてみることにします。
 さて、次回はこのテキストを最後まで読んでしまいましょう。10月9日(水)にその部分の要旨をお目にかけます。Shuhei
 


Alain Badiou <<Eloge de l'amour>>, Chapitre II. (1)

2013年09月11日 | Weblog

[要旨p.19-21.]
 愛をめぐる哲学には、極端にも思える対照的な二つの態度が存在します。
 一方には、愛が持つ、時としてとどめ難い性的な側面に対する不信があります。アルチュール・ショウペンハウワーなどは、呪われた人間という種を生み続けることになる、女性の愛の情念を断罪していました。もう一方には、愛の宗教であるキリスト教を背景としながら、人を宗教的な跳躍へと導くものとして、愛を肯定する立場があります。
 セーレン・キエルケゴールは、愛には三つの段階があるとしました。成就しない誘惑と反復の経験である、審美的な愛の段階。絶対的なものを希求する、永遠の誓いが問われる倫理的な段階。それは、真摯な愛を本質的な運命へと決定づける結婚によって、最後の宗教的な段階へと移行可能となります。
 キエルケゴールはレジーネとの恋愛と彼女との婚約破棄によって、身をもって第一、第二の段階を経験し、そして第三段階への移行には失敗したのでした。
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 misayoさん、Moze さん、コメントありがとうございました。misayoさんの「キルケゴールの第一段階をうろうろし...」という言葉には上質なユーモアーを感じました。Mozeさんが紹介して下さった『S先生のこと』は、ぼくも各紙の書評などでおおいに食指を動かされていましたが、未だに未読です。これを機に読んでみることにします。
 そして、ぼくからも一冊ご紹介しておきます。これもいくつもの書評の出た、注目の俊英の著作、白井聡『永続敗戦論』(太田出版)です。いつものように、ご紹介がてら少しだけ引用しておきます。
 「われわれが歴史を認識する際の概念的枠組み、すなわち「戦後」という概念の吟味と内容変更を提案する。震災後、疑いもなくわれわれは、「戦後の終焉」に立ち会っているが、天変地異が自動的にひとつの時代を終わらせるわけではない。かくも長きにわたってわれわれの認識と感覚を拘束して来たという意味で「戦後」はひとつの牢獄であったのだとすれば、それを破るには、自覚的で知的な努力が必要とされる。」(p.34)そうした読者の努力に、著者は「永続敗戦」という概念をもって伴走してくれます。

 ところで、「永続敗戦」とはなにか。それは「敗戦の代償をあらゆる手段でもって最小化する(対米関係を除き)という「戦後」の国是」(p.117)を成す、日本社会の根深い構造であり、私たち日本人の意識を枠づける、無意識の欲望とも言えるでしょうか。
 ぼくにとって、忘れられない一冊となりました。今学ぶべきところを重点的に再読をしているところです。
 さて、次回はp.26 recompose'e. までを、同じように扱いましょう。9月25日(水)までに疑問点、ご意見などを聞かせて下さい。同日また要旨をお目にかけます。
 Mozeさん、使用するブラウザによって違うのかもしれませんが、テキストを何度かクリックしてもらえれば、その都度テキストは拡大されます。一度試してみて下さい。Shuhei