[p.22-p.26 要旨]
プラトンは恋愛の中にイデアと呼ばれる、普遍的なものへの跳躍のきっかけを見ていましたが、私も同じように考えています。二人の偶然の出会いという、個別的な出来事が、普遍的な価値を持ったものへの導きとなりうると考えるからです。つまり、恋愛が利害によるもたれ合いや、計算ずくめの投資でないとすれば、それは世界を同一性ではなく、差異として経験することだからです。
ところで精神分析家ジャック・ラカンは、「性愛による関係など存在しない」という、大きな議論を呼んだ、しかも大変深い洞察を含んだ言葉を残しています。ラカンが言いたかったのは、こういうことです。二つの肉体がどんなに親密に肌を合わせたとしても、性愛はどこまでもひとり一人の出来事であり、快楽もそれぞれ自らの快楽でしかない。だからそれは果てのないような反復を要求するのです。
ところが、愛こそが、そうした非関係性を補うものであり、「他者の生きてあること」に触れようとする試みにほかなりません。あなたとともに、ありのままの他者が生きることを可能とするのです。欲望は他者の特定の身体部位にフェティシストのように向かうのですが、愛は、断絶を経験し、再構成されたわたしの生のにおいて、ありのままの他者に問いかけようとするのです。
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今回も、masayoさん、Mozeさん、そしてAkikoさん、コメントありがとうございました。
misayoさんが仰る通りp.26 dans ma vie の ma は確かに唐突な感じがしますが、他者を愛する主体としての「わたし」ということだと思います。
それから、Akikoさんのまとめに、「ボーヴォワールへの批判」とありましたが、『第二の性』は若い頃のバディゥーに性愛の虚しさを教えてくれた書物であったようです。p.25のle semtiment...que le corps de la femme および le sentiment syme'trique de la femme que le corps de l'homme...、この部分の二つのque はいずれも同格を導く que です。つまり、性行為のあとの男女を襲う le sentimentの説明となっています。
Moze さんがご覧になったタピスリー「貴婦人と一角獣」をぼくは未だに目にしたことがありません。クリュニー美術館の北側の通りを数えられないほど行き来しているはずですが、同美術館に足を踏み入れたことは未だないのです。本当に残念なことです。つぎの機会にはきっと訪れてみることにします。
さて、次回はこのテキストを最後まで読んでしまいましょう。10月9日(水)にその部分の要旨をお目にかけます。Shuhei