フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

フレデリック・ヴァームス『誰かを思うこと』(3)

2015年07月29日 | 外国語学習

[注釈]
 *elle relève… de la vie sensible qu'elle dérit. : このrelever は prendre, ramasser ce qui est contenu dans qch の意味、つまり、「見つける、指摘する」の意でしょうか。すると de la vie sensible のde la は部分冠詞となります。
   
[試訳]
 この見事な試論によって、フレデリック・ヴァームスは哲学のひとつの書き方を確立した。それは書くことにおいて、感受される命を明かし、記述する。エコール・ノルマルで教壇に立ち、ベルグソンの著作も編纂し、現代フランス哲学も研究する著者は、ここではもう研究者として、また理論家としてのみ語っているわけではない。それらとはちがった領域で、繊細であると同時に親しみやすく、かといってありきたりのエピソードなども見られない、一種の私的な省察日記において自らを語っている。もちろんそこで読者はルソーから、スピノザ、ウィニコットを経てドゥルーズに至るあらゆる思想家に出くわすことになる。といってそこには、しゃちほこばった、これ見よがしの衒学的なところは微塵もない。いかめしい台座を持たない哲学は、様々な意味で、文字通りに他者に思いを馳せている。
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 misayo さん、Mozeさん、訳文ありがとうございました。それにしても通勤電車で制服の子供たちの姿が稀になってからのこの暑さには参りました。もうすでに音をあげています。いよいよ日本の暑さの質が変わってきたのか、年々歳々こらえ性がなくなってきたこの身体のせいなのか。
 明日大阪の北のはずれの大学での補講が済めば、愛知と大阪を行き来する日々からはしばらく解放されます。暑さを言い訳にせずに、まとまった読み書きにしばらく励むことにします。みなさんも、どうかご自愛ください。9月13日までに新しいテキストをお届するつもりです。Shuhei


フレデリック・ヴァームス『誰かを思うこと』(2)

2015年07月22日 | Weblog

[注釈]
 *Nous penserions à nos amis, (...) comme nous pensons à des objets : 前者が条件法現在形になっていることに注意してください。
 
[試訳]
 通常、それが明白な誤りであっても、こう考えて差し障りなさそうである。つまり、「他者に思いを馳せる」ことは「思考すること」のじつに様々な可能性の中のひとつのあり方であると。私たちは、友のことを、両親のことを、子供のことを、身近にいる人々のことを、上司のことを、同僚のことを考えるのみならず、敵のことを、ライバルのことを、競争相手のことを考える。それは対象が何かの物であっても、風景であっても、何であっても同じであろうと。精密に、繊細な筆致で、フレデリック・ヴァームスは、それがまったくの誤りであることを説明する。誰ひとりとして全般的に「他者に」思いを馳せることはない。私たちが思うのはいつも特定の「誰か」である。そうすると、こうした思いは必然的に具体的な姿をとることになる。すなわち「君のことを考える」とは、そこにひとりの人間の姿を思い描き、かぼそい声を、笑みを、思わず漏れた咳を耳にすることである。思考は誰でもない他者ではなく、単独性に、あの人に捉えられている。つまり思考とは、言葉や眼差しや肌合いなども含んだ、あるスタイルにかかわるものなのである。

 私的な省察日記
 
 こうした具体的な状況を仔細に見てみると、思考することがただ知性に限った出来事ではないことがまず理解される。感情や、感覚、情動、欲望と無縁な思考などはない。官能も心理も記憶も身体性もが、思考には織り込まれている。現実に、愛や憎しみや、喜び、悲しみ、希望や恐れを伴って「誰かを思うこと」は、あらゆる思考のモデルであり、原型でさえあることが、ページを追うごとに明らかになる。他者とかかわることが、不可欠の要素であるのみならず、原初の状況であるという意味において、思考の発生条件であることが明かされる。他者はまた思考を活性化する。なぜなら、いつまでも生き生きとして予見不能の他者は、思考を超え、私たちが他者に対して抱く思考にけっして還元されることがないからだ。「いつだって君にはハッとさせられる」
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 misayoさん、Mozeさん、暑い中訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。
 前回ここで触れた小熊英二『生きて帰ってきた男 - ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)を読み終えました。小熊のいつもながらの旺盛な仕事ぶりに違わず、岩波新書としては大部の、四百ページに届こうとする著作でした。でも端正な文章と、平成を挟んだ戦後のある部分は、このぼくも共にした同時代であり、飽きることなくページを進めることができました。
 その「あとがき」にもあるように、どんなに突出した人物であっても、どんなに平凡な市民であっても、それぞれに時代の構造に否応なく組み込まれつつ、そこからの偏差もひとり一人の特異な人生として生きている。そのことを、この決して小さくない新書を通して、まざまざと追体験するることができました。戦後70年にふさわしい良書でした。
 それでは、すこし変則的になりますが、テキストの残りすこしの部分の試訳を29日(水)にお目にかけて、夏休みとします。
 最後になりましたが、暑中お見舞い申し上げます。またCaniculeの毎日が続きすが、どうかみなさんお身体には気をつけてください。Shuhei



フレデリック・ ヴァームス『誰かを思うこと』(1)

2015年07月08日 | Weblog

[注釈]
 *présence à soi-même, aux autres et au monde modifiée par une autre présence : 初恋によって今までの存在のあり方に変化が生じることが述べられています。
 *instrusion : Mozeさんの「おせっかい」というのは名訳ですね。
 * cela ne signifie rien d'autre,… :cela は<<penser à quelqu'un>>を指しています。

「思考は他者ととも生きる」
 ある日おばあ様が著者に言った。「お前は恋しているね。」思春期に初めて覚える情感。つまり感覚が異変し、ひとりの他者の現れによって、自分自身と、多くの他者と、世界への向き合い方が変容する。それでも、そのひとりの他者はここにはいない...。そんな孫の初めての気持ちの揺さぶりを、おばあ様が一目で捉えたのだった。でもどんなふうにして? いったい何によって彼女は、ヴェルレーヌが言ったあの「恋の炎という名の新しい動揺」を著者のなかに見逃さなかったのか。また、どうしてわざわざそのことを孫に告げたのか。思いやりからかだろうか、それともなにか口を挟むためだろうか。その両方だろうか。哲学者である著者は、数十年の時を隔てて、ともすると平凡に見える、この昔の出来事に立ち返っている。彼の狙いは自叙伝ではなく、「誰かを思うこと」とは何であるのかを分析することである。フレドリック・ヴァームスのこの新たな試論を読み、私たち読者はすぐに理解することだろう。それはつまるところ、ただ単に「思考すること」に他ならないということを。ここにはいない他者に思いを馳せることによって、思考はその領野を拓くのである。この結論に至る道程には工夫がこなされ、教えられることも多い。
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 Mozeさん、Akikoさん、訳文ありがとうございました。いかがだったでしょうか。

 Mozeさんのおっしゃるように、<<Penser à quelqu'un>>を読んでみるのもいいですね。深いプールの底を思わせるような、濃い水色の表紙の手に取りやすい装丁になっています。
 先日、沖縄慰霊の日の前日に義理の祖母が亡くなりました。百三歳でした。戦中満州で男の子を二人亡くされ、まだ小さな娘三人を連れて、戦後の混乱の中を本土に帰国した経験をお持ちでした。そんなお話を直接聞く機会には結局恵まれませんでした。
 そんなことがあった少し前から、大岡昇平『靴の話 戦争小説集』(集英社文庫)を読み、今は小熊英二『生きて帰ってきた男 - ある日本兵の戦争と戦後』(岩波新書)を読み進めています。後者はシベリア抑留から生還した著者の父への聞き取りをもとにした、いわばオーラル・ヒストリーです。あとかぎより少しだけ引用しておきます。
 「父の足跡は、本人が意識していなかったにせよ、同時代の日本社会の動向に沿っている。(...)本書で記述した人物は、高学歴の都市中産層ではない。その点でも、本書は「記録されなかった多数派」の生活史である。(...)人間は、ある程度の揺らぎや偏差をふくみながら、同時に全体の構造に規定されている。本書で私が描こうとしたのは、父が個人的に体験した揺らぎと、それを規定していた東アジアの歴史である。(...)本書の意図は、一人の人物という細部から、そうした全体をかいまみようと試みたことである。」(p.385-87.)
 歴史に対して無知で、その流れに対する繊細な感度を欠いた人々が、この戦後70年に楔を打ち込もうとしている今、大した意図もなく、自然と手が伸びだ二冊。けれどもけっして忘れられない読書となりそうです。
 さて次回は<<Tu me surprends toujours>>までの試訳を7月22日(水)にお目にかけます。Shuhei


フランス語読解教室II あたらしいテキスト

2015年07月01日 | 外国語学習

 Chers amis,

 次回のテキストとして Roland Barthes のものを予告していましたが、ちょっと準備が間に合いませんでした。「教室」もしばらくお休みにしている形になっていますが、あらためて、昨年末に出版された Frédéric Worms <<Penser à quelqu'un>> (Flammarion)の書評を読むことにします。

 みなさんには、毎回Cciを使ってメールをお送りしていますが、どうしてだか、あるいは当然なのか、送信済みのメールが残りません。みなさんのメールアドレスがわからなくなっています。それで、あらためてみなさんのメールアドレスを下記までお知らせしてもらえますでしょうか。また、Cciを使っても送信履歴の残るやり方をご存知でしたら、是非教えてもらいたいと思っています。

 shuheif336@gmail.com

 ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします。

 Shuhei