Chers amis,
今年最後のテキストとして、自身の作品集にモディアーノ本人が寄せた序文を読むことにします。テキストご希望の方は、
shuheif336@gmail.com
までご一報下さい。Shuhei
Chers amis,
今年最後のテキストとして、自身の作品集にモディアーノ本人が寄せた序文を読むことにします。テキストご希望の方は、
shuheif336@gmail.com
までご一報下さい。Shuhei
[注釈]
* ceux qui suivent : この photo-journal のあとに、<<Les armoires vide's>>, <<Une honte>>などの作品が続いていますから、ceux=textes となります。
[試訳]
日記の抜粋は、選び取った写真に関連付けて載せることにした。人々が、場所が、とりわけそれらが撮られた歳月が表現されている写真にしたがって。そうした日記は決して写真の解説ではない。時には写真とほとんど同時期に書かれていることもあるけれども、大抵は写真の後に書かれた日記は。それは、時間に従って揺れ動く記憶を浮き彫りにし、私の人生の出来事に揺らめく仄かな光を投げかけてくれる。
この写真日記は私の著作の「挿絵」ではない。そこには『場所』『恥』『ある女』『歳月』で私が描写した写真の何枚かが掲載されているだけだ。それは作家活動の解説でもなく、ただその始まりを表しているに過ぎない。これまで私が書いて来たものを書いた理由を明らかにしている。それには穴があって、囲いもないけれども、それに続くテキストとはまた別の真実を担ったテキストと考えるべきだと、私は思っている。
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misayo さん、mozeさん、訳文ありがとうございます。いかがだったでしょうか。
さて、これもサプライズなのでしょうか。来月また投票所に足を運ばなければならなくなりました。様々な分野の専門家が現政権に対して批判や激励の声を上げていますが、ただぼくが願うのは、この社会が、もうすこし風通しのいいものにならないかということです。「風?、そんなものなくたって、懐にわずかなお金があって、安手であってもそこそこの物が選べて買えれば、それで何が文句あるの ?」とアベノミクス推進者には言葉を返されるでしょうか。「景気」さえ上向けば、あとは難しいこと言わずにおまが下さい、という政治家には、この一票は託したくないなと思っています。
それでは、今月中にはお約束した Patrick Modiano のテキストをご覧にいれます。
A biento^t ! Shuhei
[注釈]
*j'ai fait figurer deux extraits... : この後の本編を見ればわかるのですが、それぞれのページの見開きには、数葉の写真にエルノーの日記の一部が添えられています。
*著者自身がどこか味気ないと言う従来の伝記とは違って、ここであたらしい自伝の形式を開いてみせた。またそれは en associant ainis la re'alite' mate'rielle... et la re'alite' subjective du journal によって可能となる、ということです。
* Reste invisible tout le reste... : 添えられた写真によっても明らかにはできない事柄が以下に述べられています。
[試訳]
ただ事実だけを並べていて多くの場合がっかりさせられる伝記よりも、私はフォト・アルバムと日記という、二つの個人的な資料を結びつけることにした。つまり一種の写真日記だ。自分の人生において、あるいは書くことにおいて、あらゆる意味で大切だった、いまでも大切な人々や場所の写真を見つめながら、私は自分の日記の抜粋を作り、それを載せた。一方で、写真という物質的な、否定しようのない現実がある。でもそれを辿ってみると「物語が形作られ」、社会的な軌跡が描かれる。他方には、夢、執着、情愛の露な表現とともに、生きたことの意味を絶えず問い直しながら記された、日記という主観的な現実がある。その両方を結び合わせながら、それまでとは違った自伝的な空間を開く試みである。
自分の誕生以前の家族の写真を私はほとんど持ち合わせていない。結婚前の母の写真も、母の父、つまり、母が十三歳の時になくなった私の祖父の写真も一枚もない。自分の写真の中では、これも極端に少ないのだが、子供時代と青春の頃の、つまり、その後自分の人生を長きにわたって方向付けた、偶然と選択の織りなす時代の写真を、とりわけ選び取った。それらの写真はなにも私の人生を要約しているわけではない。ただ、ものを書くという私の企てが根付いていた、社会的な、家族をとりまく環境を、そして、その企てが実現された物質的な条件を、目に見えるものにするだけだ。だからその他は、私のテキストを、想念を、情熱を育んでいたすべてのもの、そして三十四年間務めてきた教師という仕事も、すべて見えないままだ。
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現在法政大学で教鞭をとっている、社会活動家の湯浅誠さんも猫二匹と共生されていることを、先日ペットとの暮らしを綴った新聞の連載記事で知りました。毎朝湯浅さんのパートナーは、朝ごはんを催促するその猫たちに頬を撫でられて目覚めるそうです。なんと甘やかな目覚めでしょうか。
今回のテキストの中で s'ancrer という動詞が出てきましたが、触覚を含めたぼくの今の五官の大きな部分も、猫たちとのドタバタとした子供時代の共生の日々に根を張っているのかもしれません。Mozeさんの可愛いパートナーとの暮らしぶりを垣間みて、そんなことを思いました。
さて先日、細見和之『フランクフルト学派』(中公新書)を読みました。今年の初夏の頃でしたか、同社の新書で『ハンナ・アーレント』を読み、日本にも多くの愛読者がいるこの女性政治思想家を亡命国アメリカで支えた、同学派の第一世代、つまり、アドルノ、ホルクハイマーの活動の豊かさに魅せられたばかりでした。
非常に充実した内容のフランクフルト学派通史を執筆した細見さんは、これは突拍子もない妄想ですが、ぼくが高校時代もうすこし優等生なら、同じ国立大学の同級生となっていたかもしれない詩人・現代ドイツ思想研究者です。勉強のできなかったぼくは、その後浪人をくり返し、細見さんとはまた別の道をふらふらと辿ることになります。そうした意味でも、忘れられない一冊となりそうです。現代の西洋思想に興味のある方には是非手に取って欲しい良書です。
さて、次回はこのテキストを最後まで読みきりましょう。試訳を26日(水)にお目にかけます。
そしてその後のテキストですが、モディアーノが自身の著作集にあてた序文を読むことにします。お楽しみに。 Shuhei