[注釈]
* Puis, comme une ville...les divers aspects...donneront...la sensation de temps e’coule’.: 起伏に富んだ山道を抜ける列車の左右の車窓にさまざまな風景が現れるように、一人の人物が時の経過に従って多様な面を見せる。そうしたことによっても、時の推移が感じられるであろう、と言うのです。
* certaines impressions profondes, presque inconscientes (re’apparai^tront aussi au cours de cette oeuvre)と読むべきでしょう。
* j’aurais aucune honte a` dire de ‘romans bergsoniens’ : de ですが、例えば、qualifier...de..., traiter de...と同じく「属詞」をあらわす de と考えられます。プルーストの作品が「ベルグソン的小説」「として」語られることを全否定する訳ではないと述べています。
ベルグソンは、この教室でも一度ご一緒に読みましたね。以下をご参照下さい。
http://blog.goo.ne.jp/smarcel/e/7cad2da6aaafa7df3610b3671de1d97d
* la me’moire involontaire et la me’moire volontaire : 前者は偶然による五官の触発によって、思いがけず過去が全的に蘇る現象を指しています。その代表例は、味覚と口腔内の感覚によって、少年時代を生きたコンブレーの町全体が蘇るマドレーヌ体験であることは言うまでもありません。後者は、知性の意図的な行使によって取り戻す、たぶんに部分的、断片的な過去のことです。
[試訳]
加えて、列車が大きく蛇行する線路を走る時、町があなたの右側の車窓に見えたり、左側に見えたりするように、一人の人物が他人から見ると実に様々な様相を帯び、何人もの人物がつぎつぎに入れ替わっているように見え、それだけではないにしても、時の経過を感じさせることがあるでしょう。そうした人物は後になって、今の巻で見られる姿とは違った姿を、読者が思い描いていたとは異なった姿を見せることでしよう。もっともそうしたことは実人生においてもよく起ることですが。
バルザックの連作小説に見られるように、この作品の進行にともなって、多様な局面において現れるのは同一の人物だけではありません、とプルースト氏は続けます。また同時に一人の人物の深層にある、ほとんど無意識のある種の印象もまたそうなのです。
この観点からすると、私の本はおそらく一連の「無意識の小説」の試みのようなものとなるでしょう。そう思えば、「ベルグソン的小説」と言っても何ら恥じるところはありません。というのも、いつの時代でも文学は、当然のことながら、結果として、一世を風靡している哲学と結びつこうしてきたからです。しかしそう言っては、私の場合正確ではありません。というのも、私の作品においては無意志的記憶と意志的記憶の区別が非常に重要だからです。ベルグソン哲学においては、そうした区別がないばかりか、そういった区別が退けられているからです。
……………………………………………………………………………………..
先日、風薫る五月というにふさわしい週末に、はじめて大山崎山荘美術館に行ってきました。残念ながらたまたまジャコメッティの作品は展示されていませんでしたが、モネの晩年の睡蓮のタブローは目にすることが出来ました。来館者はさほど多くなく、ところどころに花を浮かべた、濃紺の空を思わせる水面の広がりとゆっくりと向かい合うことが出来ました。
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/
そて、次回はla beaute’ du style seule traduit.までとしましょう。6月6日に試訳をお目にかけます。Smarcel
* Puis, comme une ville...les divers aspects...donneront...la sensation de temps e’coule’.: 起伏に富んだ山道を抜ける列車の左右の車窓にさまざまな風景が現れるように、一人の人物が時の経過に従って多様な面を見せる。そうしたことによっても、時の推移が感じられるであろう、と言うのです。
* certaines impressions profondes, presque inconscientes (re’apparai^tront aussi au cours de cette oeuvre)と読むべきでしょう。
* j’aurais aucune honte a` dire de ‘romans bergsoniens’ : de ですが、例えば、qualifier...de..., traiter de...と同じく「属詞」をあらわす de と考えられます。プルーストの作品が「ベルグソン的小説」「として」語られることを全否定する訳ではないと述べています。
ベルグソンは、この教室でも一度ご一緒に読みましたね。以下をご参照下さい。
http://blog.goo.ne.jp/smarcel/e/7cad2da6aaafa7df3610b3671de1d97d
* la me’moire involontaire et la me’moire volontaire : 前者は偶然による五官の触発によって、思いがけず過去が全的に蘇る現象を指しています。その代表例は、味覚と口腔内の感覚によって、少年時代を生きたコンブレーの町全体が蘇るマドレーヌ体験であることは言うまでもありません。後者は、知性の意図的な行使によって取り戻す、たぶんに部分的、断片的な過去のことです。
[試訳]
加えて、列車が大きく蛇行する線路を走る時、町があなたの右側の車窓に見えたり、左側に見えたりするように、一人の人物が他人から見ると実に様々な様相を帯び、何人もの人物がつぎつぎに入れ替わっているように見え、それだけではないにしても、時の経過を感じさせることがあるでしょう。そうした人物は後になって、今の巻で見られる姿とは違った姿を、読者が思い描いていたとは異なった姿を見せることでしよう。もっともそうしたことは実人生においてもよく起ることですが。
バルザックの連作小説に見られるように、この作品の進行にともなって、多様な局面において現れるのは同一の人物だけではありません、とプルースト氏は続けます。また同時に一人の人物の深層にある、ほとんど無意識のある種の印象もまたそうなのです。
この観点からすると、私の本はおそらく一連の「無意識の小説」の試みのようなものとなるでしょう。そう思えば、「ベルグソン的小説」と言っても何ら恥じるところはありません。というのも、いつの時代でも文学は、当然のことながら、結果として、一世を風靡している哲学と結びつこうしてきたからです。しかしそう言っては、私の場合正確ではありません。というのも、私の作品においては無意志的記憶と意志的記憶の区別が非常に重要だからです。ベルグソン哲学においては、そうした区別がないばかりか、そういった区別が退けられているからです。
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先日、風薫る五月というにふさわしい週末に、はじめて大山崎山荘美術館に行ってきました。残念ながらたまたまジャコメッティの作品は展示されていませんでしたが、モネの晩年の睡蓮のタブローは目にすることが出来ました。来館者はさほど多くなく、ところどころに花を浮かべた、濃紺の空を思わせる水面の広がりとゆっくりと向かい合うことが出来ました。
http://www.asahibeer-oyamazaki.com/
そて、次回はla beaute’ du style seule traduit.までとしましょう。6月6日に試訳をお目にかけます。Smarcel