フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

著者マルセル・プルーストによる『スワン家の方へ』解説(2)

2012年05月23日 | Weblog
 [注釈]
 
 * Puis, comme une ville...les divers aspects...donneront...la sensation de temps e’coule’.: 起伏に富んだ山道を抜ける列車の左右の車窓にさまざまな風景が現れるように、一人の人物が時の経過に従って多様な面を見せる。そうしたことによっても、時の推移が感じられるであろう、と言うのです。
 * certaines impressions profondes, presque inconscientes (re’apparai^tront aussi au cours de cette oeuvre)と読むべきでしょう。
 * j’aurais aucune honte a` dire de ‘romans bergsoniens’ : de ですが、例えば、qualifier...de..., traiter de...と同じく「属詞」をあらわす de と考えられます。プルーストの作品が「ベルグソン的小説」「として」語られることを全否定する訳ではないと述べています。
 ベルグソンは、この教室でも一度ご一緒に読みましたね。以下をご参照下さい。
 http://blog.goo.ne.jp/smarcel/e/7cad2da6aaafa7df3610b3671de1d97d
 * la me’moire involontaire et la me’moire volontaire : 前者は偶然による五官の触発によって、思いがけず過去が全的に蘇る現象を指しています。その代表例は、味覚と口腔内の感覚によって、少年時代を生きたコンブレーの町全体が蘇るマドレーヌ体験であることは言うまでもありません。後者は、知性の意図的な行使によって取り戻す、たぶんに部分的、断片的な過去のことです。

 [試訳]
 
 加えて、列車が大きく蛇行する線路を走る時、町があなたの右側の車窓に見えたり、左側に見えたりするように、一人の人物が他人から見ると実に様々な様相を帯び、何人もの人物がつぎつぎに入れ替わっているように見え、それだけではないにしても、時の経過を感じさせることがあるでしょう。そうした人物は後になって、今の巻で見られる姿とは違った姿を、読者が思い描いていたとは異なった姿を見せることでしよう。もっともそうしたことは実人生においてもよく起ることですが。
 バルザックの連作小説に見られるように、この作品の進行にともなって、多様な局面において現れるのは同一の人物だけではありません、とプルースト氏は続けます。また同時に一人の人物の深層にある、ほとんど無意識のある種の印象もまたそうなのです。
 この観点からすると、私の本はおそらく一連の「無意識の小説」の試みのようなものとなるでしょう。そう思えば、「ベルグソン的小説」と言っても何ら恥じるところはありません。というのも、いつの時代でも文学は、当然のことながら、結果として、一世を風靡している哲学と結びつこうしてきたからです。しかしそう言っては、私の場合正確ではありません。というのも、私の作品においては無意志的記憶と意志的記憶の区別が非常に重要だからです。ベルグソン哲学においては、そうした区別がないばかりか、そういった区別が退けられているからです。
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 先日、風薫る五月というにふさわしい週末に、はじめて大山崎山荘美術館に行ってきました。残念ながらたまたまジャコメッティの作品は展示されていませんでしたが、モネの晩年の睡蓮のタブローは目にすることが出来ました。来館者はさほど多くなく、ところどころに花を浮かべた、濃紺の空を思わせる水面の広がりとゆっくりと向かい合うことが出来ました。
 http://www.asahibeer-oyamazaki.com/
 そて、次回はla beaute’ du style seule traduit.までとしましょう。6月6日に試訳をお目にかけます。Smarcel

著者マルセル・プルーストによる『スワン家の方へ』解説(1)

2012年05月09日 | Weblog
 [注釈]
 
 *titre ge’ne’ral : 『失われた時を求めて』という一大長編小説のタイトルのことです。その第一巻のタイトルが『スワン家の方へ』です。
 *je l’ai tache’ isoler : ここは辞書的な用法から考えると捉えにくいですね。やはり、本来はsubstance invisible な時間というものを「取り出す」という感じでしょうか。
 *il fallait que l’expe’rience pu^t durer. : もちろん il faut que +sub.。現在形なら、il faut que l’expe’rience puisse durer となりますが、主節が半過去なので、接続節内が接続法半過去pu^tとなっています。
 *tel petit fait....tel mariage : このtelは、ネタバレにならないように後の名詞の特定を避ける意味合いで使われています。「とある」ぐらいに当たるでしょうか。
 * certains patine’s de Versailles : patine は時の経過を跡づけるものの象徴です。プルーストは 『失われた時を求めて』という総題を決定する前には、『心の間歇』というタイトルを考えていたことはよく知られていますが、さらに遡ると、『緑青の輝き Reflets dans la patine』という題名もその候補にのぼっていました。

 [試訳]
 
 私が出版した『スワン家の方へ』は長編小説の第一巻に過ぎません。その長い小説全体は『失われた時を求めて』という総題を持つことになります。できればまとめて出したかったのですが、作品を何巻にも分けるようなことはもうしてもらえません。私は、たとえば現に住んでいるアパルトマンには大きすぎるタビストリーを持っていて、それをしぶしぶ裁たなければならない人のようです。
 年若い作家たちは、もちろん私も彼らと相通じるところがあるのですが、逆に登場人物のごく少ない単純な話を薦めてくれました。でもそれは私が考える小説ではないのです。どう言いましょうか。ご存知のように、平面幾何学と空間幾何学がありますね。例えていえば、私にとっては、小説というものは平面心理学だけではなく、時間における心理学でもあるのです。時間というこの目に見えないものを取り出してみせようと努めました。でもそのためには、経験が持続するものである必要があったのです。作品の最後で、取るに足らないある社会的な出来事が、第一巻ではまったく違う世界に属していた二人の人物の間のとある結婚が、時が流れたことを示してくれるといいと思っています。そうしてヴェルサイユの緑青を帯びた鉛の調度のあの美しさを表してくれればいいと思っています。あれは時間がエメラルドの鞘に納めたものなのですから。
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 今回は教室が賑やかになって、やはりうれしいものですね。Massakiさん、またそちらでの学生生活の様子も教えて下さい。
 先日5月2日にベルギーのダルデンヌ兄弟監督作品『自転車と少年 Le Gamin au ve’lo』を見てきました。ちょっとした印象をツィートしましたので、よかったら https://twitter.com/#!/hioki をのぞいてみて下さい。
 それでは、次回はcontredite par elle. までとしましょう。23日に試訳をお目にかけます。Shuhei