[注釈]
* dont la voix haut perche'e ne fait me^me plus illusion : 文脈からすると、「その声は甲高くても、(女性であるという)幻想ももう抱かせられない」ということでしょう。
* Il en "fait" des bases... : ぼくも、ここはよくわかりません。ただ 辺野古に来て落ちぶれる e'chouer a` Henoko 前の彼の身の上のことなので、少し「建設的」に解釈してみました。
[試訳]
辺野古の静かな夜には灯っているネオンもまばらだけれども、バー「千草」のネオンはそんな中で明かりを放っていた。店内は仄暗く、赤のビロードのソファーをいくつか並べている。60年代のヒット曲を奏でるジューク・ボックスにスロットマシーン、ビリヤード台が置かれている。壁には名前が手書きされた数えきれない数の1ドル紙幣がピンで止められていた。「いよいよ派遣が決まった兵隊たちが、縁起をかついでお札を残して行ったのサ。また取りに戻れるようにって。もう戻ることもなかった人もいるし、思い出に残して行ったやつもいるけれど。」と、店主のサチコは言った。
店は、祖母が朝鮮戦争(1950-1953)のはじめに開いたものだった。サチコの母がその後を継ぎ、サチコが姉とともにそれをまた譲り受けた。白の装いのサチコは、背が高く、愛想がいいが、還暦は過ぎているだろう。彼女がベトナム戦争時代の賑わいを語ってくれた。兵士の間での取っ組み合い。警察が弱腰だったこと。黒人兵士も、白人兵士も、それぞれ別々の店に通っていたこと。町での暴力、麻薬…。それに、出発を前にして兵士たちが酒に溺れていたこと。
「みんな貧しかった。娘たちには他にこれといって仕事もなかったし、兵隊たちは、私たちと同じで、どうしようもないやつらで、多くは怯えていた。それで、パァーッと飲むのヨ。娘たち ? こんなところにはもういないよ。でももうお婆さん !兵隊たちももっと陽のあたるところで暮らしてるサ。」
バーはがらんとしていた。ただひとり、歓楽の砂浜にうち上げられたような、うら哀し気な年齢不詳の女装のオトコがひとり(その声は甲高くても女と見紛うはずもない)、酒をチビチビ飲んでいる老漁師と話し込んでいる。そのオトコもかつてはくらしの基盤を持っていたのだが、辺野古に来て落ちぶれたのだと言う。そのオトコ一人を主人公とする物語もあるのであろう。
それからは、ただ週末にだけ、名護市から働きに来る娘たちによって「千草」も少しはにぎわう。サチコがジューク・ボックスにコインを落とす。「ラストダンスはあなたと」をスティーヴィ・ワンダーが歌う。「私も二十歳だった」と彼女は夢見るように言う、郷愁のバーで。
…………………………………………………………………………………………………….
いかがだったでしょうか。普天間基地の移転に関して、五月には民主党のマニフェストを裏切らない結論が出ることを願って止みません。
それでは、ここで勝手ながら「教室」を休ませてもらいます。
振り返れば、そもそもこの教室をはじめたきっかけは、論文作成になかなか身が入らなくて困っている時に、野崎・斉藤の対談『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(東大出版会)を読んだことでした。当時から(今でも)、大学の教室で、外国語の少し高度な訳読をすることは、なかなか難しい状況にありました。それでも、同書で再確認できたのは、外国語の習得にあたって、「訳読」という作業がいかに欠かせないものか、でした。だったら、大学の外でやろう、というのが当初の思いつきでした。
それから、もう6年ほどになるでしょうか。ほんとうに長いあいだ、地味なブログにおつき合いいただいて、ありがとうございました。ぼくも、さまざまなことをこの場で学びました。
ただ、オフ会を実現できなかったことと、それから、テキストの音声化に至れなかったことは今でも残念に思っています。これは、今後の課題にしておきます。
それでは、またこの「教室」でフランス語の読解を楽しんでもらえる時まで、どうかみなさん、お元気で。もし来阪されるようなことがあれば、smarcel までご連絡下さい。
Bonne continuation et bonne lecture !
* dont la voix haut perche'e ne fait me^me plus illusion : 文脈からすると、「その声は甲高くても、(女性であるという)幻想ももう抱かせられない」ということでしょう。
* Il en "fait" des bases... : ぼくも、ここはよくわかりません。ただ 辺野古に来て落ちぶれる e'chouer a` Henoko 前の彼の身の上のことなので、少し「建設的」に解釈してみました。
[試訳]
辺野古の静かな夜には灯っているネオンもまばらだけれども、バー「千草」のネオンはそんな中で明かりを放っていた。店内は仄暗く、赤のビロードのソファーをいくつか並べている。60年代のヒット曲を奏でるジューク・ボックスにスロットマシーン、ビリヤード台が置かれている。壁には名前が手書きされた数えきれない数の1ドル紙幣がピンで止められていた。「いよいよ派遣が決まった兵隊たちが、縁起をかついでお札を残して行ったのサ。また取りに戻れるようにって。もう戻ることもなかった人もいるし、思い出に残して行ったやつもいるけれど。」と、店主のサチコは言った。
店は、祖母が朝鮮戦争(1950-1953)のはじめに開いたものだった。サチコの母がその後を継ぎ、サチコが姉とともにそれをまた譲り受けた。白の装いのサチコは、背が高く、愛想がいいが、還暦は過ぎているだろう。彼女がベトナム戦争時代の賑わいを語ってくれた。兵士の間での取っ組み合い。警察が弱腰だったこと。黒人兵士も、白人兵士も、それぞれ別々の店に通っていたこと。町での暴力、麻薬…。それに、出発を前にして兵士たちが酒に溺れていたこと。
「みんな貧しかった。娘たちには他にこれといって仕事もなかったし、兵隊たちは、私たちと同じで、どうしようもないやつらで、多くは怯えていた。それで、パァーッと飲むのヨ。娘たち ? こんなところにはもういないよ。でももうお婆さん !兵隊たちももっと陽のあたるところで暮らしてるサ。」
バーはがらんとしていた。ただひとり、歓楽の砂浜にうち上げられたような、うら哀し気な年齢不詳の女装のオトコがひとり(その声は甲高くても女と見紛うはずもない)、酒をチビチビ飲んでいる老漁師と話し込んでいる。そのオトコもかつてはくらしの基盤を持っていたのだが、辺野古に来て落ちぶれたのだと言う。そのオトコ一人を主人公とする物語もあるのであろう。
それからは、ただ週末にだけ、名護市から働きに来る娘たちによって「千草」も少しはにぎわう。サチコがジューク・ボックスにコインを落とす。「ラストダンスはあなたと」をスティーヴィ・ワンダーが歌う。「私も二十歳だった」と彼女は夢見るように言う、郷愁のバーで。
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いかがだったでしょうか。普天間基地の移転に関して、五月には民主党のマニフェストを裏切らない結論が出ることを願って止みません。
それでは、ここで勝手ながら「教室」を休ませてもらいます。
振り返れば、そもそもこの教室をはじめたきっかけは、論文作成になかなか身が入らなくて困っている時に、野崎・斉藤の対談『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(東大出版会)を読んだことでした。当時から(今でも)、大学の教室で、外国語の少し高度な訳読をすることは、なかなか難しい状況にありました。それでも、同書で再確認できたのは、外国語の習得にあたって、「訳読」という作業がいかに欠かせないものか、でした。だったら、大学の外でやろう、というのが当初の思いつきでした。
それから、もう6年ほどになるでしょうか。ほんとうに長いあいだ、地味なブログにおつき合いいただいて、ありがとうございました。ぼくも、さまざまなことをこの場で学びました。
ただ、オフ会を実現できなかったことと、それから、テキストの音声化に至れなかったことは今でも残念に思っています。これは、今後の課題にしておきます。
それでは、またこの「教室」でフランス語の読解を楽しんでもらえる時まで、どうかみなさん、お元気で。もし来阪されるようなことがあれば、smarcel までご連絡下さい。
Bonne continuation et bonne lecture !