[注釈]
* tous mes biens : ウィルさん、Moze さんの訳文にあるように、ここでは「財産」を意味します。
* Lors que j’e’tais enfant (…) : よく言われるように、子供が、大人とは異質な独自の価値、世界を持っていることに人々が思い至るのは、近代以降のことです。それまでは子供とは、「未熟な大人」としか見なされていませんでした。そうした見方の淵源のひとつが、こうしたところに見受けられるのですね。
* mais alors, nous voyons face a` face. : alors とは、quand ce qui est parfait sera venu を意味しています。
* je connaitrai comme j’ai e’te’ connu. : ここはわかりにくいのですが、connaitre en partie との対照で考えるのなら、j’ai e’te’ connu par ce qui est parfait と読むべきではないかと考えました。
[試訳]
私が人々のさまざまな言語のみならず、天使の言葉を話したとしても、もしその私に愛がなければ、私は、音が鳴る青銅や鳴り響くシンバルにすぎない。また私に予言の能力や、あらゆる神秘を解き明かす理知、あらゆる知識があるとしよう。さらに山々を動かすほどの信心があったとしょう。その私に愛がなければ、私は何ものでもない。またさらに、自分の財のすべてを貧しき人々の食事のために分け与え、自らこの身を挺して火やぶりにあったとしても、その私に愛がなければ、そうした行為は何の役にも立ちはしない。
愛は忍耐強く、善に満ちあふれている。愛はけっして妬まない。愛はそれを鼻にかけず、奢りによって増長することもない。愛は不誠実を働かず、利益を求めず、苛立つこともない。悪を少しも疑わない。不正を喜ぶことはけっしてなく、真実を喜ぶ。すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、あらゆることを堪え忍ぶ。
愛はけっして亡びることがない。預言は終わりをむかえ、言葉は止み、知識もいつかは消え失せる。というのも、私たちは部分においてはなにをか知り、部分においては預言をする。けれども、まったきものが来る時、部分的なるものは消え失せる。かつて子供であった私は、一人の子供として話し、考え、理知を働かせていた。けれども、大人になった今では、子供らしかったものはすべて捨ててしまっている。今日私たちは鏡を使って、おぼろげにものを見ている。けれども、まったきものが来れば、私たちは物事を正面から見ることになる。今日私は部分的にしかものを知らない。けれども、その時が至れば、かってまったきものによって私が知られていたように、私は知ることになる。
そうであれば今これら三つのものが残っている。信仰と、希望と、愛だ。けれどもこの中で最も偉大なものは、愛である。
…………………………………………………………………………………..
みなさん、それぞれにお忙しい時に訳文を掲載して下さってありがとうございました。来年も、みなさんの熱心さに支えられて、「教室」を細々とでも続けていけたらいいなと願っています。
新年は、1月8日までには新しいテキストをお届けすることにします。先の地球環境問題に関するコペンハーゲン・サミットの成果についての、ミッシェル・セールの見解を読む予定でいます。
年末年始は、しばらくでもアルファベット文字を忘れて、太宰治『津軽』をじっくり読みたいとは考えています。
Joyeux Noel et Bonne Anne’e !
smarcel
* tous mes biens : ウィルさん、Moze さんの訳文にあるように、ここでは「財産」を意味します。
* Lors que j’e’tais enfant (…) : よく言われるように、子供が、大人とは異質な独自の価値、世界を持っていることに人々が思い至るのは、近代以降のことです。それまでは子供とは、「未熟な大人」としか見なされていませんでした。そうした見方の淵源のひとつが、こうしたところに見受けられるのですね。
* mais alors, nous voyons face a` face. : alors とは、quand ce qui est parfait sera venu を意味しています。
* je connaitrai comme j’ai e’te’ connu. : ここはわかりにくいのですが、connaitre en partie との対照で考えるのなら、j’ai e’te’ connu par ce qui est parfait と読むべきではないかと考えました。
[試訳]
私が人々のさまざまな言語のみならず、天使の言葉を話したとしても、もしその私に愛がなければ、私は、音が鳴る青銅や鳴り響くシンバルにすぎない。また私に予言の能力や、あらゆる神秘を解き明かす理知、あらゆる知識があるとしよう。さらに山々を動かすほどの信心があったとしょう。その私に愛がなければ、私は何ものでもない。またさらに、自分の財のすべてを貧しき人々の食事のために分け与え、自らこの身を挺して火やぶりにあったとしても、その私に愛がなければ、そうした行為は何の役にも立ちはしない。
愛は忍耐強く、善に満ちあふれている。愛はけっして妬まない。愛はそれを鼻にかけず、奢りによって増長することもない。愛は不誠実を働かず、利益を求めず、苛立つこともない。悪を少しも疑わない。不正を喜ぶことはけっしてなく、真実を喜ぶ。すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、あらゆることを堪え忍ぶ。
愛はけっして亡びることがない。預言は終わりをむかえ、言葉は止み、知識もいつかは消え失せる。というのも、私たちは部分においてはなにをか知り、部分においては預言をする。けれども、まったきものが来る時、部分的なるものは消え失せる。かつて子供であった私は、一人の子供として話し、考え、理知を働かせていた。けれども、大人になった今では、子供らしかったものはすべて捨ててしまっている。今日私たちは鏡を使って、おぼろげにものを見ている。けれども、まったきものが来れば、私たちは物事を正面から見ることになる。今日私は部分的にしかものを知らない。けれども、その時が至れば、かってまったきものによって私が知られていたように、私は知ることになる。
そうであれば今これら三つのものが残っている。信仰と、希望と、愛だ。けれどもこの中で最も偉大なものは、愛である。
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みなさん、それぞれにお忙しい時に訳文を掲載して下さってありがとうございました。来年も、みなさんの熱心さに支えられて、「教室」を細々とでも続けていけたらいいなと願っています。
新年は、1月8日までには新しいテキストをお届けすることにします。先の地球環境問題に関するコペンハーゲン・サミットの成果についての、ミッシェル・セールの見解を読む予定でいます。
年末年始は、しばらくでもアルファベット文字を忘れて、太宰治『津軽』をじっくり読みたいとは考えています。
Joyeux Noel et Bonne Anne’e !
smarcel