フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

パウロの手紙 (2)

2009年12月23日 | Weblog
 [注釈]

 * tous mes biens : ウィルさん、Moze さんの訳文にあるように、ここでは「財産」を意味します。
 * Lors que j’e’tais enfant (…) : よく言われるように、子供が、大人とは異質な独自の価値、世界を持っていることに人々が思い至るのは、近代以降のことです。それまでは子供とは、「未熟な大人」としか見なされていませんでした。そうした見方の淵源のひとつが、こうしたところに見受けられるのですね。
 * mais alors, nous voyons face a` face. : alors とは、quand ce qui est parfait sera venu を意味しています。
 * je connaitrai comme j’ai e’te’ connu. : ここはわかりにくいのですが、connaitre en partie との対照で考えるのなら、j’ai e’te’ connu par ce qui est parfait と読むべきではないかと考えました。

 [試訳]
 
 私が人々のさまざまな言語のみならず、天使の言葉を話したとしても、もしその私に愛がなければ、私は、音が鳴る青銅や鳴り響くシンバルにすぎない。また私に予言の能力や、あらゆる神秘を解き明かす理知、あらゆる知識があるとしよう。さらに山々を動かすほどの信心があったとしょう。その私に愛がなければ、私は何ものでもない。またさらに、自分の財のすべてを貧しき人々の食事のために分け与え、自らこの身を挺して火やぶりにあったとしても、その私に愛がなければ、そうした行為は何の役にも立ちはしない。
 愛は忍耐強く、善に満ちあふれている。愛はけっして妬まない。愛はそれを鼻にかけず、奢りによって増長することもない。愛は不誠実を働かず、利益を求めず、苛立つこともない。悪を少しも疑わない。不正を喜ぶことはけっしてなく、真実を喜ぶ。すべてを許し、すべてを信じ、すべてを希望し、あらゆることを堪え忍ぶ。
愛はけっして亡びることがない。預言は終わりをむかえ、言葉は止み、知識もいつかは消え失せる。というのも、私たちは部分においてはなにをか知り、部分においては預言をする。けれども、まったきものが来る時、部分的なるものは消え失せる。かつて子供であった私は、一人の子供として話し、考え、理知を働かせていた。けれども、大人になった今では、子供らしかったものはすべて捨ててしまっている。今日私たちは鏡を使って、おぼろげにものを見ている。けれども、まったきものが来れば、私たちは物事を正面から見ることになる。今日私は部分的にしかものを知らない。けれども、その時が至れば、かってまったきものによって私が知られていたように、私は知ることになる。
 そうであれば今これら三つのものが残っている。信仰と、希望と、愛だ。けれどもこの中で最も偉大なものは、愛である。
…………………………………………………………………………………..
 みなさん、それぞれにお忙しい時に訳文を掲載して下さってありがとうございました。来年も、みなさんの熱心さに支えられて、「教室」を細々とでも続けていけたらいいなと願っています。
 新年は、1月8日までには新しいテキストをお届けすることにします。先の地球環境問題に関するコペンハーゲン・サミットの成果についての、ミッシェル・セールの見解を読む予定でいます。
 年末年始は、しばらくでもアルファベット文字を忘れて、太宰治『津軽』をじっくり読みたいとは考えています。
 Joyeux Noel et Bonne Anne’e !
 smarcel

パウロの手紙 (1)

2009年12月16日 | Weblog
 [注釈]

 * ce qui la ferait de’pendre de... : ce は直前までの内容、つまり que l’action moralement bonne peut e^tre de’finie par les re’sultats de l’action, par son utilite’ 「道徳的に善いとされる行為は、行為の結果やその有用性によって定義されること」を指しています。で、そうなってしまえば、善行もたかだか利益条件によって左右されてしまう、ということです。
 * une sorte d’e’gosime dissimule’ ainsi de toutes les actions exte’rieurement bonnes : 実は、ここの ainsi de がよくわかりません。「たとえば表面的に善なる行為によって隠された一種のエゴイズム」としておきます。
 * << amour de bienveillance >> : ここも勉強不足で、おそらく定訳があるのでしょうが、「慈愛」としておきます。

 [試訳]
 
 パウロが善の原理として讃える愛を、道徳の領域に移した哲学的観念が、カントが『道徳形而上学の基礎づけ』で定義した「善良なる意志」である。同書のなかでも第一部がとりわけ、使徒パウロのテキストの一種の解説、さらには哲学的な展開ともなっている。道徳の原理を打ち立てるにあたってカントは、道徳的に善なる行為は、行為の結果、その有用性によっては定義できないことを示している。もしそうであるならば、善なる行為は、ある種の利益条件や、意志の不確かな動機に左右されることになるからである。実際、私たちはなにか利益を当てにしたり、まったくうわべだけの善行のように、ある種のエゴイズムを隠しても、よい行為を行うこともできる。そうした法には適っている行為をカントは「適法性」とよんだ。ところで、愛のみが、無私で無償であり、ある目論見から自由でいられる。同様に、善なる行為は、善良なる意志によって、すなわち善だけを目指して、つまり善良なる意志、善のみをのぞむ意志によってなされる行為である。よってそうした行為は「その見返りを求めず」、そこから結果する利益をも求めない。このように理解される善良なる意志は、無償の愛であり、とりわけデカルトやマルブランシュが「慈愛」と呼んだものである。
……………………………………………………………………………
 それでは、次回はパウロ書簡を読むことにしましょう。
 フランスでも、先週末から本格的な寒波に襲われ、新型インフルエンザの一層の拡大も心配されています。関西も、今日から週末にかけて日に日に寒くなってゆくようです。どうかみなさんも、お身体には気をつけて下さい。
 smarcel

Michel Serres << Faute >> (2)

2009年12月09日 | Weblog
 [注釈]
 
 * de tel ou tel qu'il est noir ou juif (…) : これは少し格調高い用法ですが、冠詞なしの 不定代名詞 tel は「ある者」を意味します。ex. Tel pre'fe`re la mer, tel autre la montagne.
 * une carte re'dige'e dans la me^me langue : ここは多くの方が訳されように「同じ言語で」という解釈で問題ありません。la me^me langue は行為の主体ではないので re'dige'e de la me^me langue 「同じ言語によって」とはなりません。
 * Je ne suis pas francais : francais は、「自己同一性を保証する、なにかの実体としての 」francais という意味合いでしょう。Francais となれば、帰属集団を指すことになります。
 * Non, il s'agit d'appartenance. : Non, il ne s'agit pas d'identite', mais d'apppartenance. ということです。
 
 [試訳]

 たとえば、ある人物に関して、その人が黒人であるとかユダヤ人であるとか女性である言えば、それは人種差別的な発言となる。なぜなら、その言葉は帰属と自己同一性をいっしょにしてしまっているからだ。私そのものは、フランス人でも、ガスコーヌ人でもない。私は、私のものと同じ言語で書かれたカードをポケットに携帯し、時にオック語で夢を見る人々のグループに属している。誰かを、その人の持つ複数の帰属のひとつだけに押し込めてしてしまうことで、その人物を迫害してしまうこともありうる。ところで、私たちが、宗教的、文化的、国民的な同一性を話題にしている時には、そうした過ちを犯し、そうした侮蔑を与えているのだ。そこで問われているのは、自己同一性などではなく、帰属にすぎない。それでは、私とは誰であろうか。私とは私である。ただそれだけのこと。ただ同時に私は、多数の帰属の総体でもあるが、その全貌は死んでみないとわからない。というのも、おしなべて進歩とは、あらたな集合に入り込むことだからだ。私がトルコ語を習えば、私はトルコ語を話す人ということになる。原付バイクを修理できる人ともなれば、ゆで卵を調理できる人ともなるだろう。国民的な同一性など、錯誤であり、過ちである。
……………………………………………………………………………………
 明子さんが仰るように、Les minarets 建造中止をめぐるスイスでの国民投票結果は、フランスでの Identite' nationale の議論に大きな影響を及ぼしています。フランス政府もようやく、こうした議論がいかに危険で不毛なものであるかに気づかされたのではないでしょうか。
 ぼくは恥ずかしながら、今に至るまでラテン語を本格的に学んだことはありません。大学2年の時にラテン語を履修しようとしたのですが、たまたまなにかの必修の授業と重なり、次善の策として古典ギリシア語を取りました。週一回(学生だった当時の実感としては)たった2単位の授業でしたが、ほとんど毎日1~2時間の予習に追われた記憶があります。でも思いのほか楽しくて、自身の語学好きに気づかされました。でも今では、パイデュオー「教育する」という基本動詞の活用さえすっかり忘れています。
 ラテン語もぼくの大きな宿題のひとつです。
 さて、次回からは巷のクリスマス色に因んで、パウロの「コリント人への手紙」を読みます。テキストは今しばらくお待ち下さい。
 smarcel
 

Michel Serres << Faute >> (1)

2009年12月02日 | Weblog
 [注釈]
 
 * Je connais pas mal de Michel Serres : pas mal de... 「かなりの(数の)…」
 * une faute de logique, re'gle'e par les mathe'maticiens. : ここの re'gler は「決める」の意味。つまり、「数学者によって決められた論理的な過ち」
 * Cette erreur expose a` dire n'importe quoi. : exposer には、mettre qch. dans une situation pe'rilleuse という意味がありますから、「こうした過ちによって、(根拠のないことだって)何でも言えてしまう」という意味合いだと考えられます。ぼくもこの箇所で、躓きました。

 [試訳]
 
 セールと私の身分証明書には記されている。スペインでは、シィエラ、ポルトガルではセーラと言うけれども、これは山の名前である。フランス、スペイン、ポルトガルに限っても、たくさんの人がこの名で呼ばれている。ミッシェルの方はというと、もっと多くの人がこの名前を持っている。私はミッシェル・セールという名の人物を少なからず知っている。私は、ロテガロンヌ生まれの人々のグループに属するように、こうした名の人たちのグループにも属している。つまり、私の身分証明所に記されてあるのは、私の自己同一性などではなく、いくつかの私の帰属なのだ。他にも二つの帰属が記されている。私は身長180cmの人間であり、フランス国民に属する人間でもある。自己同一性と帰属をいっしょにしてしまうことは、数学者に言わせると論理的に誤りである。a が a であり、私は私というのなら、それは自己同一性で、a がある集合に属するというのであれば、それは帰属である。こうした誤りによれば、何でも言えてしまう。けれどもこの誤りは政治的な罪ともなる。つまり、人種差別である。
.........................................................................................................
 『現代思想 11月号 大学の未来』に載っていた、岩崎、大内、西山三氏による鼎談を興味深く読みました。

 「高等教育の公共性が曖昧になった原因は、先ほども話のあった高等教育費における私費負担の大きさにあると思います」

 これは大内氏の発言ですが、思わず強く膝を打ちました。
 ここ何年か、毎年新入生に、みなさんの保護者の方が支払わされている高騰を続ける学費は、日本のような先進国においていかに非常識な額かという話をしています。学生が属する家族集団が個々に高額な学費を負担させられているがために、「公共性」という視点が教育の場で見過ごされいます。
 また、大学での4年間が、ひとり一人の学生の本来の資質、志向を二の次にして、高い学費の「元を取る」という目的のために規定されてしまっている様が、残念ながら年々顕著になって来ています。
 ひるがえって、みなさんはいかに自由に、開かれて学ばれていることでしょう。

 さて、次回は残りを読んでしまいましょう。
 smarcel