[注釈]
今回読んだ箇所を難しいと感じられたのは、時制の変化に伴われた「論の反転」のようなものが見えにくかったのではないでしょうか。例えば、
1.Lamartine exhortait...Il arrive que,…
2. Ainsi a-t-on cru pouvoir...Dieu nous les retire.
1.では、私たちを取り巻いていた自然が記憶の支えになるとラマルチーヌが説いていても、実際はque...のようなことが起る。2.では、私たちの信念にかかわらず、神は時として非常だというわけです。
[試訳]
思い出をえるに際しての連想の大切さを感じていたラマルチーヌは、自然が自分の思いを記憶するための支えとなることを強調していた。ところが、馴染んだ場所に帰ってみると、そうした場所が自分の過去の何ものも留めていないことに気づかされる。そんなふうに私たちは「自分たちの心情や、夢や、恋を」「野原や泉」に預けることができた(例えば詩「みずうみ」のように)と信じていた。神はそうした思いを取り除いてしまわれたのだ。神は、「私たちの魂が刻まれた渓谷に命じる。私たちの痕跡や名前を消し去ってしまえと」ネルヴァルもエルマノンヴィルで叫んでいる。「あなたはこの過去のなにものも留めてくれなかった !」
ところが、目を見張るべき逆転によって詩人は誓うのだった。この自分を忘れてしまった風景を忘れはしない、と。「あなたが私たちのことを忘れても、私たちはあなたのことを忘れはしません。なぜって、あなたは私たちにとっては、恋そのものの影なのですから !」過去を見守ってくれていた外部の支えが、思い出をもはや呼び覚まさないのであれば、こう考えるのも容易ではなくなる。忘却とは、思い出を保存していた神経繊維の痕跡が消えることではなく、むしろ思い出を呼び起こす鍵となる出来事や刺激の不在であるのだと。
…………………………………………………………………………………………….
前回ここでご紹介した諏訪敦彦、東京造形大学学長の式辞は、その後朝日新聞の夕刊でも取り上げられていました。
「現場主義」「競争社会の現実」というクリシェによって、本来はそれも一種のフィクションに過ぎないホンネと呼ばれるものが、私たちの目の前の現実を一色に染め上げてゆくことに居心地の悪い違和を感じています。
そんな居心地の悪さをしばし沈鎮めてくれる一冊を先日まで読んでいました。
水野和夫・大澤真幸『資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか』
https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00884002013
世にはびこるそんなホンネを解毒するには、幅広く、深い射程を持った知識がやはり必須であるという思いを、ここでもまた新たにしました。
さて、次回はp.224. appelons l'oubli>>.までを読むことにします。試訳は5月8日(水)にお目にかけることにします。
Bonne lecture ! Shuhei