フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Tadie' <<Le sens de la me'moire>>(2)

2013年04月24日 | Weblog

 [注釈]
 

 今回読んだ箇所を難しいと感じられたのは、時制の変化に伴われた「論の反転」のようなものが見えにくかったのではないでしょうか。例えば、
1.Lamartine exhortait...Il arrive que,…
2. Ainsi a-t-on cru pouvoir...Dieu nous les retire.
 1.では、私たちを取り巻いていた自然が記憶の支えになるとラマルチーヌが説いていても、実際はque...のようなことが起る。2.では、私たちの信念にかかわらず、神は時として非常だというわけです。
 

 [試訳]
 

 思い出をえるに際しての連想の大切さを感じていたラマルチーヌは、自然が自分の思いを記憶するための支えとなることを強調していた。ところが、馴染んだ場所に帰ってみると、そうした場所が自分の過去の何ものも留めていないことに気づかされる。そんなふうに私たちは「自分たちの心情や、夢や、恋を」「野原や泉」に預けることができた(例えば詩「みずうみ」のように)と信じていた。神はそうした思いを取り除いてしまわれたのだ。神は、「私たちの魂が刻まれた渓谷に命じる。私たちの痕跡や名前を消し去ってしまえと」ネルヴァルもエルマノンヴィルで叫んでいる。「あなたはこの過去のなにものも留めてくれなかった !」
 ところが、目を見張るべき逆転によって詩人は誓うのだった。この自分を忘れてしまった風景を忘れはしない、と。「あなたが私たちのことを忘れても、私たちはあなたのことを忘れはしません。なぜって、あなたは私たちにとっては、恋そのものの影なのですから !」過去を見守ってくれていた外部の支えが、思い出をもはや呼び覚まさないのであれば、こう考えるのも容易ではなくなる。忘却とは、思い出を保存していた神経繊維の痕跡が消えることではなく、むしろ思い出を呼び起こす鍵となる出来事や刺激の不在であるのだと。
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 前回ここでご紹介した諏訪敦彦、東京造形大学学長の式辞は、その後朝日新聞の夕刊でも取り上げられていました。
 「現場主義」「競争社会の現実」というクリシェによって、本来はそれも一種のフィクションに過ぎないホンネと呼ばれるものが、私たちの目の前の現実を一色に染め上げてゆくことに居心地の悪い違和を感じています。 
 そんな居心地の悪さをしばし沈鎮めてくれる一冊を先日まで読んでいました。
 水野和夫・大澤真幸『資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか』
https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00884002013
 世にはびこるそんなホンネを解毒するには、幅広く、深い射程を持った知識がやはり必須であるという思いを、ここでもまた新たにしました。
 さて、次回はp.224. appelons l'oubli>>.までを読むことにします。試訳は5月8日(水)にお目にかけることにします。
 Bonne lecture !   Shuhei


Tadie' <<Le sens de la me'moire>>(1)

2013年04月10日 | Weblog

今回はけっして内容は易しくはないのですが、比較的平易な文章だったこともあって注釈としてとくにつけ加えることはありません。ただ、たとえば、Ces souvenirs existaient encore...など、複合過去・半過去などの時制の使い分けには気をつけて下さい。

 [試訳]

 決定的な忘却
 量と持続において生じるこうした部分的な忘却とは別に、もうひとつ別の問題がある。事実や人物、あるいは生活の断片などは、私たちの記憶から完全に消え去ることがあるのだろうか。最初に忘却と、そもそも記憶さえされないことを区別しておこう。私たちが経験するたくさんに物事や、そこに立ち会ったいくつもの出来事、たまたま隣り合った様々な人々は、長きにわたって私たちの記憶に刷り込まれることはなかった。本当の意味で記憶されなかったそれらを、私たちは忘れることもなかったわけだ。一方ある期間記憶にとどめていたけれども、今はもう私たちがそれらを思い出せないとき、それを忘却として語ることは許されるだろう。けれどもその思い出の存在を証明することは容易ではない。というのも、私たちは思い出のその中身を忘れてしまったのだから。ただ間接的な証拠が、写真や外的な助けを借りて与えられるのみだろう。やがて想起される可能性がまったく失われるまでは、そうした思い出は私たちの中に存在する。聖アウグスティヌスが書いているように、私たちは忘却の記憶は持っているのだ。

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 ウィルさん、またお時間の許す限りでおつき合い下さい。shokoさん、難しいと感じられたとのことですが、訳文を拝見する限りは、意味のちゃんと通るものとなっていました。

 次回は、p.223 sa re'surgence. までを読むこととしましょう。24日(水)に試訳をお目にかけます。

 ところで、東大の教育社会学の本田由紀さんから紹介されたのですが、東京造形大学の学長となった映画作家の諏訪敦彦さんの式辞が見事なものでした。以下で読むことが出来ます。

 http://www.zokei.ac.jp/news/2013/001-1.html

 ぼくも、金曜日初めてお目にかかる1年生の授業で、さっそく諏訪学長の式辞を紹介することにします。

 Shuhei