[注釈]
*aucun objet sur qui nous puissions... : なるほど、shokoさんのご指摘の通りここは sur lequel でもいけそうですね。
*Aucune figure n'est arre^te', : figure は訳に困る言葉のひとつですが、ここは比喩的な意味でも取れるよう「表情」としました。
* Tel est, par exemple, le sens poe'tique d'un Rilke. : masayoさんの「詩的感覚」という訳を見て、考えさせられました。ただここは、受容ではなく、parler のくり返しに見られるように、もっぱら表現の側面が問題となっているので「意味」としました。
[試訳]
詩的な生活を生きること、それそのものとして詩的な状態を実現すること、それはどんな人にでも与えられていることである。それには世界を見つめれば十分である。どんなひと、どんなものに目を凝らしてみても、必ずそこには別のものが見て取れるはずだ。どんな表情も静止していないし、どんな状況も明確ではない。確定したものなどなにもなく、私たちは二重の意味を担った世界に生きている…。
おそらくそこにこそ詩的な生活の秘密がある。それは、ひとつのもの、ひとつの言葉が私たちの中で多様な響きを打ち鳴らし、そして魂を混沌とした不可思議な世界へ、恍惚(ex外-stase停止)の境地へと追いやることを可能にするものである。なぜなら恍惚とは、私たちがそこに留まっている自らの外へ連れ出すもののことだからである...。
たとえば、リルケのような文学者の詩的な意味とは、こうしたものであろう。この詩的な意味によって、リルケがどんなありふれたもののことを語ろうと、その筆に平板なものの影が差すことはない。またどんなに些細な現実との接点を失わずに、リルケはそのままごく自然に崇高さへと達するのだ。
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先週末、先々週末と、ここ岡崎にも、歩行での往来が困難になるような雪が降りました。両日とも外出する必要があり、一歩一歩を、文字通り踏みしめるように雪道を歩きました。何十分の一にしか過ぎませんが、雪国の冬の厳しさに思い至ことが出来ました。
さて、次回はp.17 の最後までを読むことにしましょう。3月5日にいつものように試訳をお目にかけて、そのあと春休みとします。
桜の盛りの頃でしようか、新学期はここで言及されているリルケの書簡の仏訳を読もうかなと、今のところは考えています。 Shuhei
[注釈]
*traduire la vie. : ここはこの言葉の原義の「解釈」が続きますから、Mozeさんが訳したように「翻訳」とするのがよいでしょう。
*c'est essayer de la dominer : 直前の la faire no^tre, それからこの後のnous en appropriant la substance をふまえると、この dominer は「全体を把握する、見下ろす」の意味が強く出ています。ぼくもMozeさんと同じく、「俯瞰」という訳をつけました。
*ce n'e'tait pas le sujet qui nous trouve : ここはce...qui の強調構文となっています。
*une sorte de pre'sence : 私たちの外部から押し寄せてくる「何か」のことだと思うのですが、この書き方は抽象度が高く、何か特定できるものではないような気がします。
[試訳]
(小説を)書くとはどういう行為なのだろうか。なぜ私たちは書くのだろうか。こうした問にはすました態度を取るべきだと考える人々は、それは遊びであり、他の行いとそう変わるものでもなく、ただよりおもしろく、とりわけ人の注意を引き、自分のことを話題にする効果的な方法だと答えるかもしれない…。私にはそんないい格好はできない。たしかに私たちを書くことに駆り立てる力があるのだと思う。その力とは、人生を翻訳したいという欲求でもある。翻訳する。この言葉のそもそもの意味に従えば、それはある状態から別の状態への移行を意味する。そうすると、人生を翻訳するとは、そのあり方を変えること、それを私たちの人生にすること、その本質を私たちのものにし、人生を俯瞰しようとする試みでもあるだろう。書くとは、もちろんそれだけが唯一のやり方というわけではないにしても、私たちが出来事に向ける意識によって、そうした出来事を把握しているという確信が持てる手段である。それはつまり、人間にとって自分の運命を全うする手段であるといえるだろうか…。
そうであれば、私たちが小説を書くのは、なによりも自分のためであると、ことさらことわる必要があるだろうか。作家は、まっさらな原稿用紙に向かっているようでいて、実は自分自身に向かい合っているに過ぎないのであると…。それで結果として読者を得られれば、なんという幸運なことだろうか…。
いつも少なからず私が驚いてしまうのは、とある書き手が小説の主題を見つけたなどという話を新聞などで読んだ時だ。主題を見つける !まるで主題なるものが、どこか、私たちの外側に存在しているかのように。あたかも雑貨店の商品のように主題が並んでいて、それをただ手にすればよいかのように…。私たちを見つけるのが主題の側ではなく、その存在感のようなものが私たちに迫ってくるかのように…。そうした存在から自分を解き放つためでないとしたら、私たちはなぜ書くのだろうか ?ひとつの想念がある日私たちのに中に託され、私たちの中で育ち、私たちとひとつになるのだ。それはまるで一粒の種が自分に適した土地に落ちたかのように。そしてそれがやがて一冊の書物となる。
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misayoさん、shokoさん、Mozeさん、お見舞いの言葉ありがとうございます。成人式の翌日から寝込み、身体がようやく本調子に戻ったかなと思えたのは、先月も末頃でした。寄る歳波のせいなのか、ウィルスが強敵だったのかはわかりませんが、ひどい目に遭いました。立春を過ぎていよいよ厳しい寒波が到来していますが、みなさんもどうかお身体には気をつけて下さい。
さて今回、traduireという言葉がひとつキー・ワードになっていますが、野崎歓『翻訳教育』(河出書房新社)を今読んでいます。今やフランス文学の名翻訳家の一人に数えられる野崎歓が、翻訳という営みの喜び(歓び)と、人類の文化全般をささえるその営みの重要性を、肩の凝らない洒脱な筆致で描いた好エッセーです。
この「教室」も、野崎と、英文学者の斎藤兆史の対談『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』(東京大学出版会、2004年)に触発されてはじめたことは、以前この欄で書いた通りです。ちなみに、野崎の『フランス文学と愛』(講談社現代新書)も、「愛」をめぐるコンパクトな、けれども長大な文学史を見通した、見事なフランス文学史となっています。こちらも、是非お薦めです。
さて、次回はp. 16 a` la grandeur. までをあつかいます。19日(水)に試訳をお目にかけます。Shuhei