[注釈]
* tenir compte du " moindre mal " : tenir compte de... = prendre en conside'ration, accorder de l'importance 平たく言えば、人の弱さを糾弾するのではなく、その弱さに寄り添うべきだ、という文脈ですから、mal は「痛み」の意味でしょう。その「痛み」を汲み取った上で、道徳を説くべきだ、ということなのでしょう。
* Les pre^tres africains en savent quelque chose. : quelque chose は、アフリカの現実に対して持つ、避妊具の効用のこと。
[試訳]
騒ぎは納まらず、何人ものフランスの司教が自ら立ち上がり、一般道徳ばかりか福音の教えにも背く不公平な今回の決定を糾弾した。姦淫を犯した女を断罪することをイエスがあえてしなかった逸話を紹介するだけで十分だろう。律法に従えば女は投げられた石で打たれるべきであったが、イエスは厳格な律法主義者たちに問うた。「一度も罪を犯したことのない者が最初の石を投げてみよ」(ヨハネ8章)。イエス自身が何度も宗教の教えに背いていた。ドストエフスキーはこんな想像をしていた。もしイエスが、異端糾問が激烈であったトルクマーダのスペインに帰って来たとしたら、信教の自由を説いたことによって火刑に処せられたことであろうと。イエスが、ベネディクト16世のキリスト教界に生きていたのなら、愛による律法の超越を説いたことによって破門されていたのではないだろうか。
なにも、その確固たる教えを広めることを教会に断念せよと言っているのではない。見過ごせないのは、問題はそれぞれに具体的で複雑であるにもかかわらず、その戒律を再確認させるために、教会の位階性によって用いられた時に乱暴な理屈だ。フランス布教団の司教、イヴ・パトゥノートル猊下が強調しているように、レシフェ大司教によって宣告され、教皇庁が認めた破門の決定は、「カトリック教会の伝統的な司牧の務めを無視するものである。窮状にある人々の声に耳を傾け、寄り添う。また道徳に関しては、どんな小さな苦悩にも配慮するのが、その務めではなかったか。」エイズとの闘いのおいても同じことが言えるだろう。コンドームの使用は、なるほど理想的な解決策ではないであろう。それでも事実それは、感染の拡大を阻止する最良の砦であることに変わりはない。教会の説く禁欲を人々が従順に生きることは容易ではないのだから。アフリカの司祭たちはことの本質をつかんでいるのだ。
………………………………………………………………………………….
ぼくは SMAP に特別な思い入れはまったくありませんが、「逮捕」までする必要があったのかな、と疑問に思いました。交番でお灸を据えるぐらいでよかったはずです。それにしても、酔ってハメを外したひとりの青年のことを一国の大臣が「絶対に許さない」と、ここぞとばかりに見得を切る姿をテレビで見ていましたが、その姿の醜悪だったこと。映像を通してしか存じ上げませんが、法務大臣時代からあの人の軽さが気にかかって仕方なかったのですが、その軽薄さが「許さない」という厳しい言葉になんとそぐわなかったことでしょう。ぼくはあのひと言ですっかり嫌な気持にさせられました。その反動でしょうか。青年には同情の気持ちを禁じえません。
さて、次回はこのテキストを最後まで読むことにしましょう。
* tenir compte du " moindre mal " : tenir compte de... = prendre en conside'ration, accorder de l'importance 平たく言えば、人の弱さを糾弾するのではなく、その弱さに寄り添うべきだ、という文脈ですから、mal は「痛み」の意味でしょう。その「痛み」を汲み取った上で、道徳を説くべきだ、ということなのでしょう。
* Les pre^tres africains en savent quelque chose. : quelque chose は、アフリカの現実に対して持つ、避妊具の効用のこと。
[試訳]
騒ぎは納まらず、何人ものフランスの司教が自ら立ち上がり、一般道徳ばかりか福音の教えにも背く不公平な今回の決定を糾弾した。姦淫を犯した女を断罪することをイエスがあえてしなかった逸話を紹介するだけで十分だろう。律法に従えば女は投げられた石で打たれるべきであったが、イエスは厳格な律法主義者たちに問うた。「一度も罪を犯したことのない者が最初の石を投げてみよ」(ヨハネ8章)。イエス自身が何度も宗教の教えに背いていた。ドストエフスキーはこんな想像をしていた。もしイエスが、異端糾問が激烈であったトルクマーダのスペインに帰って来たとしたら、信教の自由を説いたことによって火刑に処せられたことであろうと。イエスが、ベネディクト16世のキリスト教界に生きていたのなら、愛による律法の超越を説いたことによって破門されていたのではないだろうか。
なにも、その確固たる教えを広めることを教会に断念せよと言っているのではない。見過ごせないのは、問題はそれぞれに具体的で複雑であるにもかかわらず、その戒律を再確認させるために、教会の位階性によって用いられた時に乱暴な理屈だ。フランス布教団の司教、イヴ・パトゥノートル猊下が強調しているように、レシフェ大司教によって宣告され、教皇庁が認めた破門の決定は、「カトリック教会の伝統的な司牧の務めを無視するものである。窮状にある人々の声に耳を傾け、寄り添う。また道徳に関しては、どんな小さな苦悩にも配慮するのが、その務めではなかったか。」エイズとの闘いのおいても同じことが言えるだろう。コンドームの使用は、なるほど理想的な解決策ではないであろう。それでも事実それは、感染の拡大を阻止する最良の砦であることに変わりはない。教会の説く禁欲を人々が従順に生きることは容易ではないのだから。アフリカの司祭たちはことの本質をつかんでいるのだ。
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ぼくは SMAP に特別な思い入れはまったくありませんが、「逮捕」までする必要があったのかな、と疑問に思いました。交番でお灸を据えるぐらいでよかったはずです。それにしても、酔ってハメを外したひとりの青年のことを一国の大臣が「絶対に許さない」と、ここぞとばかりに見得を切る姿をテレビで見ていましたが、その姿の醜悪だったこと。映像を通してしか存じ上げませんが、法務大臣時代からあの人の軽さが気にかかって仕方なかったのですが、その軽薄さが「許さない」という厳しい言葉になんとそぐわなかったことでしょう。ぼくはあのひと言ですっかり嫌な気持にさせられました。その反動でしょうか。青年には同情の気持ちを禁じえません。
さて、次回はこのテキストを最後まで読むことにしましょう。