[注釈]
細切れに読んでいるためもあって、文章全体の趣旨が活かされていないように感じました。まず、ちょっと図式化しておくと、こうなります。
se souvenir, un re'cit dramatique, image <--> action, e've'nement, ce moment-la`
つまり、Drame 「悲劇(惨劇)」は、その当事者にとっても事後的に構成されたものであり、ましてや第三者には、その出来事そのものは想像されるしかない、というのが文章の趣旨です。
* On est alors comme stupide et tout entier aux actions... : x[この On は、病と今闘っている当事者のことです。それに対して]直前の l'on suit la maladie...のon はその病人を見守る人のことです。 Mozeさんの指摘を受けて[ ]部分を以下のように訂正します。
Onは最期まで病人に寄り添っている人のことです。病人に寄り添うその時、その場では、ただ看護に没頭するしかない、ということです。
* Ide'e famile`re a` tous...: この通念が人々の想像の中では裏切られている、とアランは皮肉を込めて指摘しています。
[試訳]
感じるとは、振り返ることであり、思い出すことだ。事の大小はあっても、誰もが身に覚えがあるだろう。新たな事態、思いもかけない出来事、一刻を争う行為にすべてが集中すると、どんな感慨もありはしない。まったく正直に、出来事そのものを再構成しようとすると、「無我夢中で、なにもわからず、何の備えもなかった」と語りたくなるだろう。けれども、思いを巡らせながら今覚える恐怖は、一編の悲劇となるのだ。誰かの死に至る病に寄り添う時の悲しみに関しても同様である。見守る私たちは、呆然とし、そのときその時の行為と感覚に一身を捧げている。たとえ他人にその恐怖と絶望の姿をわかってもらおうとしても、苦しいのは今であって、その時ではなかった。また、自分の苦痛を突き詰めて考えすぎた人々は、そのことを語り、他人の涙を誘うことによって、小さな慰めを感じさえしている。
なにより、死者が何を感じたにしても、死はすべてを消し去ってしまっている。私たちが新聞を開く頃には、彼らの苦しみは終わってしまっている。あるいは苦しみからすでに解放されている。広く行き渡った考え方によると、人々は死後の世界など本当は信じていない事になる。その一方で、生きながらえている人々の想像力の中では、死者の苦しみは果てることがない。
……………………………………………………………………………………………….
実は、ぼくはアランの文章は苦手です。これは多分に自分の資質と関係があるのかとも疑っていたのですが、みなさんの訳文を読んで思ったのは、これは異邦人にはどこか扱いにくい文章なのですね。たとえば、Paul Vale'rie の文章などは普遍的な論理を踏まえることに留意すれば、そこそこ私たちにも過たず読める気がするのですが、アランの文章はフランス的な健全な理屈を共有しなければ十分に読めない文章であるような気がします。そこのところが、健やかな常識を忘れつつある日本人には難しいのかもしれません。
それで、来年もふたたびアランのフランス語に挑戦することから教室をはじめたいと思います。XCI l'art d'e^tre heureux を読むことにします。pleurnicher sur des cendres.までの試訳を 1/11(水)にお目にかけます。
さて、今年最後のLecon となりました。昨年最後のLecon には、佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房)を紹介しながら、ぼくはこんなふうに書いていました。「来年は、もう少し腰を据えて、読み、考え、書ける年にしたいものです。そう、佐々木のいう広義の「文学」の力を、ひとりでも多くの人が見直せる年になることを祈っています。」
こう書いたものの、今年の後半以降はとくに「腰を据えて」読み、書くことは侭なりませんでした。アランの教えに反して、ここで小さな告白をすれば、昨年秋に経験した深い喪失から心身ともに自分を解き放つことがまだできずにいます。万という数の喪失を強いた大震災と自分のちっぽけな経験を、どこか重ねずにはいられませんでした。
でも、先に引いた文章の後半部分は、大災害を経てますます切実なものになったような気がします。作家の天童荒太が新聞の小さな記事に書いていましたが、わたしたちは偶然隣り合うような身近に、大きな喪失を経験した人が佇む、そんな社会を今生きているのです。その喪失を共有するために、「佐々木のいう広義の「文学」の力」が今あらたに必要とされているように思われます。
その一方で、言葉を通して喪失の意味を探る営為を、成長戦略に寄与しないからという理由で排除、抑圧しようとする声も、これからますます喧しくなるでしょう。そうした声に遮られない響きを、これからも続けて発してゆきたいと考えています。
今年も、教室を支えて下さってありがとうございました。どうかみなさん、よいお年をお迎えください。ぼくは年末・年始を古井由吉『やすらい花』を読んで過ごすことにしています。
Shuhei
細切れに読んでいるためもあって、文章全体の趣旨が活かされていないように感じました。まず、ちょっと図式化しておくと、こうなります。
se souvenir, un re'cit dramatique, image <--> action, e've'nement, ce moment-la`
つまり、Drame 「悲劇(惨劇)」は、その当事者にとっても事後的に構成されたものであり、ましてや第三者には、その出来事そのものは想像されるしかない、というのが文章の趣旨です。
* On est alors comme stupide et tout entier aux actions... : x[この On は、病と今闘っている当事者のことです。それに対して]直前の l'on suit la maladie...のon はその病人を見守る人のことです。 Mozeさんの指摘を受けて[ ]部分を以下のように訂正します。
Onは最期まで病人に寄り添っている人のことです。病人に寄り添うその時、その場では、ただ看護に没頭するしかない、ということです。
* Ide'e famile`re a` tous...: この通念が人々の想像の中では裏切られている、とアランは皮肉を込めて指摘しています。
[試訳]
感じるとは、振り返ることであり、思い出すことだ。事の大小はあっても、誰もが身に覚えがあるだろう。新たな事態、思いもかけない出来事、一刻を争う行為にすべてが集中すると、どんな感慨もありはしない。まったく正直に、出来事そのものを再構成しようとすると、「無我夢中で、なにもわからず、何の備えもなかった」と語りたくなるだろう。けれども、思いを巡らせながら今覚える恐怖は、一編の悲劇となるのだ。誰かの死に至る病に寄り添う時の悲しみに関しても同様である。見守る私たちは、呆然とし、そのときその時の行為と感覚に一身を捧げている。たとえ他人にその恐怖と絶望の姿をわかってもらおうとしても、苦しいのは今であって、その時ではなかった。また、自分の苦痛を突き詰めて考えすぎた人々は、そのことを語り、他人の涙を誘うことによって、小さな慰めを感じさえしている。
なにより、死者が何を感じたにしても、死はすべてを消し去ってしまっている。私たちが新聞を開く頃には、彼らの苦しみは終わってしまっている。あるいは苦しみからすでに解放されている。広く行き渡った考え方によると、人々は死後の世界など本当は信じていない事になる。その一方で、生きながらえている人々の想像力の中では、死者の苦しみは果てることがない。
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実は、ぼくはアランの文章は苦手です。これは多分に自分の資質と関係があるのかとも疑っていたのですが、みなさんの訳文を読んで思ったのは、これは異邦人にはどこか扱いにくい文章なのですね。たとえば、Paul Vale'rie の文章などは普遍的な論理を踏まえることに留意すれば、そこそこ私たちにも過たず読める気がするのですが、アランの文章はフランス的な健全な理屈を共有しなければ十分に読めない文章であるような気がします。そこのところが、健やかな常識を忘れつつある日本人には難しいのかもしれません。
それで、来年もふたたびアランのフランス語に挑戦することから教室をはじめたいと思います。XCI l'art d'e^tre heureux を読むことにします。pleurnicher sur des cendres.までの試訳を 1/11(水)にお目にかけます。
さて、今年最後のLecon となりました。昨年最後のLecon には、佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房)を紹介しながら、ぼくはこんなふうに書いていました。「来年は、もう少し腰を据えて、読み、考え、書ける年にしたいものです。そう、佐々木のいう広義の「文学」の力を、ひとりでも多くの人が見直せる年になることを祈っています。」
こう書いたものの、今年の後半以降はとくに「腰を据えて」読み、書くことは侭なりませんでした。アランの教えに反して、ここで小さな告白をすれば、昨年秋に経験した深い喪失から心身ともに自分を解き放つことがまだできずにいます。万という数の喪失を強いた大震災と自分のちっぽけな経験を、どこか重ねずにはいられませんでした。
でも、先に引いた文章の後半部分は、大災害を経てますます切実なものになったような気がします。作家の天童荒太が新聞の小さな記事に書いていましたが、わたしたちは偶然隣り合うような身近に、大きな喪失を経験した人が佇む、そんな社会を今生きているのです。その喪失を共有するために、「佐々木のいう広義の「文学」の力」が今あらたに必要とされているように思われます。
その一方で、言葉を通して喪失の意味を探る営為を、成長戦略に寄与しないからという理由で排除、抑圧しようとする声も、これからますます喧しくなるでしょう。そうした声に遮られない響きを、これからも続けて発してゆきたいと考えています。
今年も、教室を支えて下さってありがとうございました。どうかみなさん、よいお年をお迎えください。ぼくは年末・年始を古井由吉『やすらい花』を読んで過ごすことにしています。
Shuhei