misayoさん、Akikoさん、midoriさん、Mozeさん、今回も、それぞれに正確な訳文ありがとうございました。今週もぼくからとくに付け加えることは、何もありません。試訳をご覧になって疑問に思う点があれば、遠慮なくお尋ね下さい。
正直申し上げると、ぼくの『審判』は本棚に忘れ去られたままです。これを機に読んでみなくてはなりません。
[試訳]
ある日、次の日曜日郊外の館に出頭するよう(先方は名も明かさないまま電話で)促される。Kにかかわるちょっとした調査に立ち会えと言うのだ。そもそも無用に長引かせたくない審判を面倒なものにするのもいやなので、Kは命令に従うことに決める。つまり、出頭するのだ。正確な時間を指定されたわけでもないのに、Kは急ぐ。最初路面電車に乗ろうかとも考える。馬鹿に几帳面に時間に正確なところを見せて、判事に平身低頭に振る舞うのもいやなので、路面電車は止めにする。
けれども同時に、審判の成り行きを長引かせるのも本意ではない。それでKは走る(ドイツ語の原典では「走る laufen」という言葉が同じパラグラフに三度くり返されている)。彼は走る。自分の尊厳を守るために。けれど同時にまた、時間も定かでない呼び出しに遅れないために。
こんなふうにないまぜになった、重大さと軽さ、おかしみと悲しみ、意味と意味のなさが、Kの処刑まで物語全編に寄り添っている。そこから他に例を見ない奇妙な美しさが生まれる。できることならこうした美しさを明確にしてみたいのだが、と同時にそんなことはできそうもないことも、私にはわかっている。
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前回は、以前ここでご紹介した白井聡との対談相手、水野和夫の著作を紹介しました。昨日は、その白井と笠井潔の対談『日本劣化論』(ちくま新書)を読み終えました。
『永続敗戦論』の白井の主張を再び確認できたのはもちろんですが、戦争にまつわる笠井のこんな指摘が印象に残りました。
笠井「すでに第一次世界大戦がそうでしたが、新たな戦争は「正しい敵」との戦争ではなく、一方的に攻撃してきた「犯罪者としての敵」との自衛戦争です。どちらの陣営も敵国を侵略者とし、自国の戦争を自衛戦争と位置づけますから、戦争は要求を獲得するための相対的な国民戦争から、犯罪者としての敵を殲滅する絶対戦争に転化する。(...)第二次世界大戦も同じことで、開始された以上は敵国の体制崩壊まで続くことが最初から決まっていました。二〇世紀の戦争がデスマッチであることに無自覚だった日本は、対米戦争も日露戦争と同じように判定勝ちに持ちこめるだろうと考え、安易に開戦に踏みきったわけです。」
白井「かえすがえすも痛恨なのは、そのような認識の誤りによって戦争を始めてしまい、その誤りを修正できなかったことです。だからこそ「国体の護持」という観念にズルズルこだわって、その間にどんどん犠牲者を増やしていきました。」(pp.. 239-240)
ひと時は世界戦争の唯一の勝者として振る舞えたアメリカですが、その超大国ももう世界の警察の役目は果たせなくなっています。第一次世界大戦以降の、そうした世界の趨勢に無自覚なまま、人も住まない小さな島をめぐる争いでちっぽけなプライドを守ろうと、またもやアメリカとの「絆」にすがりつこうと安倍政権はしています。今年の八月は年中行事の「八月」にしてはならないと、この暢気なぼくが考えています。
さて、しばらく夏休みを頂いて、Rentre'e sclaire は9月17日(水)とします。9月の第一週までに新しいテキストをみなさんのもとにお届けするようにします。
気がついてみれば、こんなご挨拶をする時期になっていました。みなさん、暑中お見舞い申し上げます。どうかお元気で厳しい夏を乗り切って下さい。
Bonnes vacances ! Shuhei
[試訳]
あるいはこれは罪と罰の物語なのだろうか。そんなことはない。ドストエフスキー流のこの二つの観念は、ここではまったく場違いだ。それでも、カフカ研究者の間では、それらが『審判』の主要テーマだと考えられて来た。カフカの親友、マックス・ブロートは、隠された重大な過ちがカフカの中にあることを疑ってはいなかった。ブロートによるとKは「人を愛することが出来ない Lieblosigkeit」罪を負っていた。同様に、こちらも著名なカフカ研究者エドワード・ゴールドステュッカーもKに罪を認めている。「なぜなら彼はその生活が機械化、自動化、疎外化されることに甘んじていたから」であり、それによって「あらゆる人間がそれに服さなければならない法、私たちに人間的であれと命じる法に背いていたからである」。
しかしまた、もっとしばしば目にするのは(私にはさらにバカバカしく思えるのだが)、まったく逆の解釈、つまり、カフカにオーエル的な要素を見るものだ。それによるとKは、時代を先取りした「全体主義」の権力の手先によって迫害されていることになる。それは例えば、1962年オーソン・ウェルズによって映画化された作品の場合であろう。
ところで、Kは無垢な存在でも、罰せられるべき存在でもない。そうではなく、彼は自責の念に駆られているculpabilisé男なのだ。辞書にあたってみると、動詞culpabiliserは1946年にはじめて使用され、名詞の方culpabilisationはもっと遅く1968年が初出となっている。これらの言葉が最近生まれたことを考えると、そうした言葉はありふれたものではないことがわかる。私たちがそれによっ思い知らされたのは、私たちひとり一人は(筆者自らも新語で遊ぶことを許してもらえば)自らを責めることができるculpabilisableのであり、そのことが人間の条件の一部であるのだ。弱いものを傷つけてしまったのではないかという良心の呵責であれ、自分たちよりも強いものとの摩擦を怖れる臆病心からであれ、罪責性はつねに私たちとともにある。
カフカは人生の問題について抽象的な思弁を述べることは決してなかったし、理論を考え出すことも、哲学者の役回りをすることも好まなかった。カフカはサルトルとも、カミュとも違う。カフカが人生を見つめると、それがたちまち幻想に、詩に、散文詩になるのだった。
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misayo さん、Akikoさん、Mozeさん、midoriさん、それぞれに正確な訳文ありがとうございました。今回も、また少々長かったですね。つい欲張り過ぎます。
前回にひき続き、ぼくから何も付け加えることはありません。試訳をご覧になって、疑問に思うところがあれば、またお尋ね下さい。
さて、何回か前に水野和夫と白井聡の対談をここでご紹介しました。そのエコノミストというか、経済史家の水野氏の話題作『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)を遅ればせながら読みました。評判に違わず、大変読み安く、なおかつとても示唆に富んだ論考でした。
同作の前半は、「利子率」の変動から、イタリア都市国家からはじまった資本主義社会の変遷の歴史を明晰に跡づける内容となっています。その資本主義の本質は、簡単に言うと、「周辺」で安く仕入れ、「中心」で高く売るというシステムですが、
「資本主義は「周辺」の存在が不可欠なのですから、途上国が成長し、新興国にて転じれば、新たな「周辺」をつくる必要があります。それが、アメリカで言えば、サブプライム層であり、日本で言えば、非正規雇用であり、EUで言えば、ギリシアやキプロスなのです。二一世紀の新興国の台頭とアメリカのサブプライム・ローン問題、ギリシア危機、日本の非正規社員化問題はコインの裏と表なのです。」(p.42)
文字通りグローバルに、地球規模に広がってしまった資本主義は、こうして「周辺」を無理矢理ひねり出さなければならない段階に達していて、実は、もうその寿命は尽きているというのが本書のテーマです。その延命を無謀に図り、さらに大きな危機を招かない叡智こそが今本当に必要であること。そのことが大変説得力を持って説かれています。是非一度手にとってみて下さい。
さて、テキストは残り少なくなりましたが、クンデラの文章をつぎは最後まで読むことにしましょう。そのあと、勝手ながら夏休みとさせて下さい。23日(水)に試訳をお目にかけます。Bonne lecture ! Shuhei