フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

テキスト『ヘンデルを聴くよ!』について

2012年06月28日 | Weblog
 Chers amis,
今回はなんだか成り行きで、テキストをグーグル・ドキュメントでみんさんと共有することとなったのですが、先日お話しした通り、ぼくの処理が拙かったために黒地に白文字のテキストとなっています。もしどなたか改善の方法をご存知の方がいらっしゃいましたら、よい知恵をお授け下さい。
 Smarcel

著者マルセル・プルーストによる『スワン家の方へ』解説(4)

2012年06月20日 | Weblog
[注釈]

*Si me me permet de raisonner ainsi....c’est qu’il n’est a’ aucun degre’ une œuvre de raisonnement : Si+事実の提示, c’est que +理由
*Ce que nous n’avons pas eu a’ e’clairer nous-me^me, ce qui e’tait clair devant nous,… : avoir + 名詞 a’ +inf. 「….すべき***を持つ」ですから、前半は「私たち自身が明らかにしなくてもよいもの」。後半は、前半の一種の同格で「私たちが存在する以前から明らかなもの」
*C’est du “possible“ que nous e’lisons arbitairement. :arbitraire は volontaire と意味合いは同じです。既に自明なものを私たちは「意の侭に」選択できますが、「無意志的記憶」によって私たちに偶然もたらされたものは、私たちによる解明(e’claircissement)を待たなければならないのです。
「そうしたものの第一の性格は、私たちにそれらを選ぶ自由がないということ、それらはあるがままの形で私に与えられているということだったからだ。そして私は、それらこそが真正のものであることを保証する特徴にちがいない、と感じた。」(抄訳版『失われた時を求めて』III, p.364,鈴木道彦編・訳 集英社文庫)
*une qualite’ de la vision : la vision は、「ものの見方」あるいは、世界観とも言えます。
* subtilite’s と re’alite’s : 名詞の「単・複」の区別は難しいのですが、ここでは、プルースト作品に限定されずに、普遍性、一般性を帯びた「繊細さ」と「レアリテ」が問題となっているからだと考えられます。

[試訳]
 
 こんなふうに自作について私があえて解説するのも、私の作品がまったく理屈立った作品ではなく、作品のちょっとした細部まで私の感覚によって与えられたものであり、それがなにか分からないままに、私の奥底でまず気づかされたものだからです。そうしたものを知性で理解可能な何かに変換するのはひと苦労でした。それがまるで知的な世界と異質な、どう言えばいいでしょうか、たとえば音楽のモチーフのようなものであったかのように、苦労しました。どうもあなたは、それは繊細さの問題とお考えのようですね。違います。それは逆にリアリティそのものの問題なのです。私たち自身が明らかにしなくてよいもの、私たちを待たずとも自明なもの(たとえば論理的な思考)、そうしたものは本当のところは私たちのものではありません。私たちには、そうしたものがリアルなものであるのかどうかさえ分からないのです。それは「可能」性の領域に属するものであり、私たちは恣意的にそうしたものを選び取るのです。それにおわかりのように、そうしたことは文体によってすぐに分かるのです。
 文体というのは、人々が考えているような装飾ではまったくありません。それは技術の問題でさえないのです。文体は、画家における色彩のように、ヴィジョンの質であり、私たちひとり一人が見ているけれども、他人には見ることのできない、個別の宇宙の開示なのです。一人の芸術家が私たちに与えてくれる喜びは、私たちにもうひとつ別な宇宙を知らしめてくれることなのです。
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 名古屋で寝込んでからは、体調も回復し、まずまず元気にやっています。みなさん、ご心配頂いてありがとうございます。今日、フランス留学以来本格的に受診した健康診断の結果を聞いてきましたが、いわゆる悪玉コレステロール値が低く、担当医から「身体的にはエリートですよ」と妙な褒められ方をされました。 
 さて、このインタヴューの朗読をもう一度紹介しておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=dhoqSH-VPaQ
 
 みなさんもご存知のようにフランスは社会党出身の Francois Hollande新大統領を選び、つづく国民議会選挙でも同党を中心に左派が過半数を制することとなりました。今後しばらく政治的左派がフランス社会をリードすることとなります。ぼくが注目したのは、Hollande大統領のもとJean-Marc Ayrault首相が parite’ (男女同数)を完全実現し、男女同数の閣僚を選出したこと、そして SMIC(最低賃金)の引き上げを公約にしていることです。
 ところで本日6月20日の朝日新聞に日本近代政治史の坂野潤治氏へのインタヴューが載っていましたが、坂野氏はこんなふうに語っています。
「二大政党制は政党に信念がないと機能しない。たとえば、こちらは『社会福祉、人を救え』、向こうは『競争、自己責任』という具合です。日本の政党はそこが弱い。」
 昨今の最大の政治課題のひとつ、消費税引き上げにまつわるゴタゴタを見ていると、政治的信念の希薄さがもたらす日本政治の「わかりづらさ」にいらだちをすら感じます。
 もちろん経済がグローバル化した中、政治的な選択肢は狭まるばかりですが、フランス新大統領の信念の具現化をしばらく見守ってゆくことにします。
 次回からは、趣を変えて、最近出版された、一風変わった育児エセーを読むことにします。その文体に魅せられ最近購入したものです。まずは、編集者による紹介文を読むことにします。週末にはみなさんの元へお届けします。
 Smarcel
 p.s. midoriさん、お元気そうでなによりです。そちらの生活に慣れましたか。気が向いたら、また「教室」に顔を出して下さい。

著者マルセル・プルーストによる『スワン家の方へ』解説(3)

2012年06月07日 | Weblog
 [注釈]
 
 *sans doute il se rappelait, : ここは「過去の反復を表す」半過去形が使われていることに注意して下さい。意志的な記憶を通して何度かコンブレーにまつわる思い出を反芻してはいても、それは、いわゆるマドレーヌ体験の鮮烈さには遠く及ばないものなのです。Mozeさんの「覚えていた」という訳はその意味で的確です。
 *j’ai pu lui faire dire que comme dans ce petit jeu....toutes les fleurs de son jardin...tout cela...est sorti...de sa tasse de the’.:この長いセンテンスの構造はこうなっています。
 *celle qui justement le contenu du beau style, cette ve’rite’...感覚の超時間的な本質、それこそがプルーストにとっての「真実」であり、その本質を表現するものこそは、芸術作品におけるスタイルであり、文学表現においては「文体」だと、プルーストは考えていました。

 [試訳]
 
 - そうした区別はどのように立てるのですか。
 - 私に言わせれば、意志的な記憶とは、なによりも知性の、目の記憶であり、真実を欠いた過去のあれこれの面しか与えてくれません。一方まったく違った環境において見出された匂いや味覚は、私たちの中に思いがけなく過去を呼び覚まし、こうした過去が、私たちが想い出すと信じて来たものといかに異なるものであるかを、私たちは感じることになります。そして意志的な記憶が、まるで下手な画家のように、真実を欠いた色で描いていたことを私たちは知るのです。第一巻においてすぐに、「わたし」と語る人物が(そう言ってもそれは私ではありません)ひとかけのマドレーヌを浸した紅茶をひと飲みして突然、歳月や庭や忘れていた人々を見出すのを目にすることと思います。おそらくそうしたものをその人物は何度か想い出してはいたことでしょう。けれどもそこには色も魅力もありませんでした。彼の口を借りて私はこう書くことができました。それは、精巧な紙片を水につける日本の遊びのようであったと。ボールに張った水に浸けられると紙は伸び広がり、輪郭を得て、花や人の形になります。そんなふうに、彼の[スワン]庭の花々、ヴィボンヌ川の睡蓮、そしてやさしい村人たち、彼らの質素な住まい、教会、コンブレーのすべてとその周辺。そうしたもの全てが、形を得て、しっかりとし、町も庭園も、一杯の紅茶から飛び出すのです。
 お察しのように、私は、芸術家は作品の素材を無意志的記憶にこそ求めるべきであると考えています。それは何よりもまず、そうした記憶が不随意のものであり、同様の瞬間の類似性によって引き寄せられ、形成されるものであるために、無意識的記憶だけが真性の印を持つからです。それに、そうした記憶は、記憶と忘却の絶妙な調合において私たちに物事をもたらしてくれます。そして最後にそれらは、まったく違った環境において同一の感覚を私たちに味あわせるので、あらゆる偶然から感覚を解き放ち、その超時間的な本質を、すなわちまさに見事な文体の内容である、文体の美しさのみが表現可能な、普遍的で、必然的なこうした真実を私たちにもたらしてくれるからです。
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 一日遅れの更新となりました。ご迷惑をおかけしました。
 日曜日、慶事に出向いていた名古屋で何年かぶりかで高熱を出し、月・火と大学も休み、ホテルの一室で寝込んでいました。旅先で寝込んだのは生まれて初めてのことです。これも年のせいかも知れません。
 先週一週間それぞれの教室で、お笑い芸人の母親の生活保護費受給問題から考えるべきことを学生たちに話しました。ただ、将来のある若者たちには縁遠い話なのか、強い関心は持ってもらえなかったようです。ぼくは、企業活動とステレオタイプな家族像の外で、ひたすら公的な領域がやせ細ってゆくことには、強い違和感を感じています。
 この問題に関心のある方は
http://synodos.livedoor.biz/archives/1937837.html
をご参照下さい。
 それでは、次回はテキストの最後までの試訳を6月20日(水)にお目にかけます。Smarcel