フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

マルセル・プルースト『サント=ブーヴに反論する』(2)

2009年10月28日 | Weblog
 [試訳]

 田舎に一軒の家があって、そこでかつて私は何度も夏を過ごした。時折その夏のことを考えたことはあったけれども、それは夏そのものではなかった。そうした夏が、私にとって永久に死に絶えたままである可能性は多いにあった。夏の蘇りは、すべての蘇りがそうであるように、ちょっとした偶然にかかっていた。ある夕べ、雪で凍えて帰って来て、しかも身体が温まることもなかった。ランプの灯った部屋で私が本を読み始めると、馴染みのお手伝いが、普段は私が飲まない紅茶を一杯すすめてくれた。そして偶然にも、何枚かの焼いたパンも持って来てくれた。私はそのパンを紅茶に浸した。それを口に運び、そして紅茶が染みて柔らかくなったパンを口蓋に感じると、私は震えを感じた。ジェラニウムやオレンジの木の匂いがした。強烈な光りの、幸福の感覚がしたのだった。
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 今回は、特にぼくが付け加えることはなにもありません。みなさんよく読めていました。ただ、ひとつだけあえて注釈をつけておくと、mais ce n’e’taient pas eux. の所でしょうか。前回扱った sous le nom de passe’ n’est pas lui. という文章を思い出してもらえれば、eux が plusieurs e’te’s を表していることが分かってもらえると思います。
 ところで、みなさんがプルースト作品に親しまれていること、心強く、うれしく思います。じつは、今、某デパートと大学の提携講座で、『失われた時を求めて』を鈴木先生の訳で読んでいます。受講生は6人。デパートの文化事業担当の職員さんが懸命に広く近畿圏で募集活動をして下さったにもかかわらず、この人数でした。あるいは、6人というのは、有り難い人数なのかも知れませんね。 
 Moze さん、自転車のことは災難でしたね。もう5年以上前のことになりますが、河内長野という市の丘陵地帯にある団地に住んでいた頃、愛用のマウンテン・バイクをぼくも盗まれました。それ以後、新しい自転車を買い替えることもなく、どこに行くにも徒歩でという習慣がついてしまいました。もっもと、「肩関節周囲炎」のために、今自転車のハンドルが握れるかどうか、自信もありませんが… 。

 それでは、次回はこの文章を最後まで読んでしまいましょう。Smarcel

マルセル・プルースト『サント=ブーヴに反論する』(1)

2009年10月21日 | Weblog
 [注釈]

 * quelque chose de lui-me^me : みなさんが仰るように、この一文を正しく理解するポイントの一つは、代名詞を過たず読み取ることです。lui-me^me は、男性単数名詞しか受けられませんから、既出の名詞を探すと、l’e’crivain を受けていることが明らかとなります。すなわち、知性のなし得ないことは、私たちの印象を捉え返し ressaisir 、作家自身の[内面にある]なにかに辿り着くこと atteindre です。で、それがすなわち芸術の唯一の素材である、というわけです。
 * Elle y reste captive : Elle ですが、これは落ち着いて考えて下されば、chaque heure であると分かるでしょう。
 * A travers lui : lui も、男性単数名詞を受ける強勢形ですから、l’objet のことです。
 * nous pouvons tre`s bien ne le rencontrer jamais : ここの pouvoir は、「可能性」ととらないと、文脈にそぐわなくなります。つまり、私たちの生きた過去の時間を秘めた物質にけっして出会えないこともある。だから、「蘇ることのない時間もある」、とつながってゆきます。

 [試訳]

 日ごとに私は知性なるものに価値を置かなくなっている。日ごとによくわかるようになったのは、知性の外部においてしか、作家というものは、私たちの印象のなにものかを再び捉えることは出来ないのではないか、つまり作家自身のなにかに、芸術の唯一の題材に達することできないのではないか、ということだった。知性が過去という名の下に私たちに返してくれるものは、過去ではない。ある種の民間伝承において身まかった魂に起きるように、本当は私たちの人生の時間は、死に絶えるとたちまちなにかの物質に身をやつし、姿を隠すのだ。そんな時間は物質に捕らえられたまま、もし私たちがその物質に出会えなければ、永遠に捕らえられたままだ。物質を通して、私たちがその時間をそれと認め、呼びかければ、時間は解放される。時間が身を潜める物質 - あるいは感覚、というのも私たちにとってあらゆる物質は感覚だからであるが、と私たちがけっして出会えないということも、もちろんあり得る。それだから、けっしてもう蘇ることのない、私たちの時間というものがあるのだ。それは、そうした物質はひどく小さく、世界に紛れているものだから、それが私たちの通る道に転がっていることは、残念ながら滅多にない 。
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 明子さん、お忙しくも、精力的なご活躍されているようですね。お会いになられた文化人類学者とは、川田順三氏のことでしょうか ?
 みさよさん、集英社文庫から出ている抄訳『失われた時を求めて』をぜひ一度手にとってみて下さい。ご自身の入って行けそうな箇所を見つけて、大長編を気ままに散策なされてみるといいと思います。「困難」と仰っていましたが、今回のテキストはよく読めていましたよ。
 Moze さん、今回が Lecon 200となるとは、知りませんでした。月並みな言い方かもしれませんが、みなさんの熱心な参加があればこそ、ここまで続けて来られました。
 実際この教室のおかげでぼく自身も、いろいろ学ばせてもらっています。例えば、購入するフランス語の書籍の種類の幅が、随分と広がりました。以前は、自分の狭い関心に従って、文学研究や、哲学関係の本しか求めなかったのですが、「教室」をはじめてから、教材として使えそうな良書という基準も本購入の基準となり、そのおかげで、本のストックにも少しは広がりができました。
 これからも、細々とでも続けてゆけたらと思っています。どうか懲りずにおつきあい下さい。
 次回は、une sensation d’extraordinaire lumie`re, de bonheur ; までとしましょう。
Smarcel

ミッシェル・トゥルニエ『イデアの鏡』(3)

2009年10月14日 | Weblog
 [注釈]

 * l’insertion de notre personne dans le monde concret : 例えば、最近は、大学で3年間学び、licence を取得した学生を実社会に送り込む、すなわち、働き口を見つけることを inse’rer と言ったりします。ここでは、「私たちを実世界に適合させる」としました。
 * resserrer tout le passe’ accumule’ pour n’en retenir que ce qui utile... : resserer tout le passe’ は、pour 以下を考えて「全過去を絞り込む」としました。
 * le cerveau n’est que cet organe limite’ et utilitaire : とくに limite’ et utilitaire は、脳の機能への言及を踏まえて解釈すべきです。misayo さんの「実利一辺倒」という訳は、気のきいた訳だと思います。
 * Mon beau navire o^ ma me’moire : o^ が、6となっていました。気がつかなくて、ご迷惑をおかけしました。

 [試訳]
 
 こうした形の過去の保存が、習慣というものです。ですから、この働きがなければ、私たちは話すことも歩くことも、読み書きさえできません。ところで、こうした活動は身体によるものであり、私たちを実世界へと適合させることに係っています。こうした適合のツールが脳であり、その働きは、積み重なった全過去を絞り込み、現在の状況に有益なもののみ留めておくことです。眠っている人間の夢は、逆に脳のこの絞り込みが緩み、役に立たない記憶の幻想が意識に入り込んだものです。
 こうした理論から、アンリ・ベルグソンは精神の不死の可能性を結論づけました。それというのも、脳が現在の有益性だけを目指す器官にすぎないのだとすれば、肉体的な死によって脳が破壊されても、必ずしも私たちの精神の終焉が導かれるわけではないからです。

 すてきな船 私の記憶 
 私たちは十分航海を楽しんだ 
 飲むには苦い波を存分にさまよった 
 美しい暁から、悲しい夕べまで
           ギヨーム・アポリネール
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 雅代さん、時間を忘れて人の話に耳を傾けるという、すてきな経験をされたのですね。うらやましい。
 ぼくは、神奈川県内の各駅停車しか止まらない小田急沿線の下宿から、渋谷にある大学に通っていたのですが、当時はまだ東急文化村もありませんでした。アルバイトに忙しく、渋谷はいつも素通り。渋谷のみならず、都市文化をもう少し享受する余裕を持ちたかったな、と今になって思います。 
 さて、次回からですが、折角の機会ですから、マルセル・プルーストのいわゆる「無意志的記憶の想起」を読むことにしましょう。とはいっても、『失われた時を求めて』の、あまりにも有名なマドレーヌの一節は、すでに読んだ方も多いかと思います。それで、ここでは、その挿話の元となった、未完の『サント・ブーヴに反論する』の序論の一部を読むことにします。
 第1回目は<< (...) 'il se trouve sur notre chemin! >> までとしましょう。

ミッシェル・トゥルニエ『イデアの鏡』(2)

2009年10月07日 | Weblog
 [注釈]

* un puissant levier, le souvenir affectif : 「強力な梃子、すなわち情感的な記憶」梃子と記憶、ここは、同格のように読むべきでしょう。『失われた時を求めて』の主人公が、家族の愛情と密接に関係した記憶とともに、過去を全的に想起することはよく知られています。
* le propre de l’esprit : 「精神に固有なもの」過去全体を蘇らせる精神 / 現在に密接に関係するかぎりの過去を保存する脳、といった対立を踏まえての表現です。
* leur singularite’ : すべてのレッスンそれぞれの独自性。たとえば、バックハンドがうまく使えるようになったレッスンのその朝、ささいなことで妻と口喧嘩して家を出て来たのだった、というような記憶です。

 参考までに 詩句<< le vert paradis des amours enfantines >> を含むボードレールの詩編、Mœsta et Errabunda の一部を紹介しておきます。

 - Mais le vert paradis, plein de plaisirs furtifs.

 L’innocent paradis, plein de plaisirs furtifs,
 Est-il déjà plus loin que l’Inde et que la Chine ?
 Peut-on le rappeler avec des cris plaintifs,
 Et l’animer encor d’une voix argentine,
 L’innocent paradis plein de plaisirs furtifs ?

 [試訳]

 ボードレールが「幼い恋の緑の楽園」と呼んだ、若き日に形作られた過去は、それへの郷愁から私たちの胸を締めつけたり、あの無邪気な時代をもう一度とり戻したい、生き直したいという強い願いをかき立てることもあります。これが、真の個人的な考古学でもある、マルセル・プルーストの作品『失われた時を求めて』の持つ全般的な意味合いです。マルセル・プルーストは、ささいな感覚をきっかけとして湧き上がる情感的な記憶を、強力な梃子として利用し、- たとえば、一杯のお茶に浸したマドレーヌの味など - 、そして、時を揺るがすほどに生々しく、ひとつの過去を丸ごと蘇らせるのです。
 アンリ・ベルグソンによると、記憶のこうした働きは精神特有のものです。けれども過去はまた、運動に関する、有益な要素しか留めない肉体にも書き込まれることがあります。脳の役割はまさしく、現在の生活の必要に応じて過去を練り上げておくことです。脳は習得した行為しか保存せず、習得にまつわる日付や状況は削除してしまいます。たとえば私がテニスをしている時には、それまでに習ったテニスにまつわるすべてのレッスンを活用してはいますが、精神のなかで、それぞれのレッスンを別々に思い起こしているわけではありません。
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 ところで、拙宅では BSが視聴できません。テレビフランス語放送 TV 5 を見るために、NTT系列の「ひかりTV」に加入していますが、これは BS とはまた別系列のテレビチャンネルなのですね。新聞のBSの番組欄を眺めながら、これは観ておきたいな、と時々ため息をついています。
 それでは、次回は「記憶と習慣」を最後まで読むことにしましょう。
 Smarcel