[注釈]
* message de compasion envers chaque personne de son fondateur : ここは、manekineko さんの訳に教えられるまで、ぼくも読み違えていました。message (…) de son fondateur と読むべきだったのですね。message 教えの内容は、compasion envers chaque personne です。
* autrement plus grave que celui des traditionalistes. : celui = un schisme, des traditionaliste は、「伝統主義者からの」と読むべきでしょう。
* a` qui Rome semble (…) : qui の先行詞は de nombreux fide`les et d'individus です。
[試訳]
教会の歴史は、一人ひとりに思いを寄せようという、その礎を築いたひとり一人の人物イエスの教えに忠実であろうとする態度と、往々にしてそうした教えを結果として見失ってしまう教会の指導者たちの態度との、こうした絶え間ない緊張によって特徴づけられている。指導者たちは、それ自体目的化した教会の利益を最優先にしたり、ささいなことに目くじらを立てる、馬鹿げた、非人間的な律法主義に閉じこもってしまっている。
ヨハネ・パウロ2世が教皇職にあったことは自体、大変両義的なことであった。教皇は道徳面、教義面で厳格な伝統主義者であったが、同時に対話の、心情の人でもあり、恵まれない人々、他宗教に対して、目覚ましい行いをさまざまになした。ベネディクト16世は前教皇の保守的な面しか受け継いでいない。それに、今の教会にはピエール神父も、エマニュエル修道女ももういない。独善的で、非人間的なさまざまな決定に対して怒りの声を上げ、胸のすくような役割を演じ、信者と教会を繋ぐ貴重な橋渡しが出来る彼らのような「信じるに足る信徒」は、もういない。
教会の左派では静かに分離が進行している。これはある意味で伝統主義者からの分離よりももっと深刻である。ベネディクト16世はヨーロッパを再びキリスト教化しようと企てたためだ。一握りの教条主義者の心を取り戻すことは、教皇には出来るであろうが、福音書の教えに忠実な多くの人々、教えの意味を求めている人々を失うことになるであろう。彼らにとって、教皇庁は、もはや教義と規律をしかもたらしてくれないように思えることであろう。
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manekineko さんからお尋ねのあった箇所、 Le scandale est tel que plusieurs e've^ques francais sont monte's au cre'neau pour condamner une de'cision inique (…)ですが、ここの試訳は、monter au cre'neau という表現の仏和辞典的な訳語に引っ張られた結果、曖昧なものになっていました。
monter au cre'neau は、intervenir, s'engager personnellement dans une lutte という意味ですから、comdamner の意味上の主語は plusieurs e've^ques francais となります。したがって、「騒ぎは広がり、何人ものフランスの司教が自ら立ち上がり、不公平な決定を糾弾した」とすべきでした。
tel は「強度」をあらわしています。つまり、「あまりに…なので」ということです。併せて試訳も訂正しておきます。manekineko さん、貴重なご指摘ありがとうございます。
さて、次回からは、すこし目先を変えて、日本映画の紹介記事を読むことにします。
先日、去年の春に " Nobody knows "のDVDをプレゼントしたある Madame から
"Still walking "を観たよとメールを頂戴しました。調べてみると是枝監督の『歩いても、歩いても』の英語タイトルでした。実はこの映画のタイトルには、ぼくにもささやかな思い出があります。そんなご縁で、今回同作品を評した Le Monde の映画評を読もうと思います。週末までには、みなさんのところにテキストをお届けします。
smarcel