フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

次回テキスト アラン『幸福論』

2011年11月26日 | Weblog
 お知らせしておいたように、次回からはAlain <<Propos sur le bonheur>>を読みます。
 まず、おことわりがあります。folio essaiシリーズの同書をスキャニングしたのはいいのですが、今回はそれをテキスト化できませんでした。正確に言うと、前回は首尾よくやれたgoogle documents を使っての読み込み方がわからなくなってしまいました。本日、朝からあれこれやってみたのですが、テキストをお届けするのが遅くなるばかりですし、とりあえず今回はテキスト化を断念することにしました。
 それで、テキストは各自pdf形式でダウンロードしていただけますか。Propos sur le boneur というファイルをネット上からダウンロードすることができます(google で検索してみて下さい)。今回扱うのは、XIV Drames の章です。
 今月は変則的に第一回目を12月7日(水)までとし、以降14日,21日に試訳をお目にかけます。
 1)...bien compose'es. 2) rien senti. 3) jamais de mourir. までとします。
 ITスキルがなくて本当に情けないお話ですが、そんなわけで、テキストは各自手に入れて下さい。
 大阪は、今日は平年並みの晩秋ですが、明日は季節外れの小春日和となりそうです。どうかみなさん、よい週末を。
 Bonne lecture ! Shuhei

ひとつではない性のあり方(4)

2011年11月23日 | Weblog
[注釈]
 
 * ...pour de'naturer ou naturaliser - c'est selon-…: 一種の言葉遊びですが、naturaliser に注意が必要です。naturalisation と名詞になれば、動物の剥製化や植物の標本化を意味します。Mozeさんの「形骸化」というぴったりの訳語を拝借しました。
 * aussi fonde'es soient-elles : aussi +形容詞・副詞+que+接続法で譲歩構文となります。ここではqueが省略されています。ex. Aussi riche qu'il soit, elle ne l'e'pousera pas.
 * Comme il s'agit de sciences, : このsciences は文脈からすると「お勉強、学問」のことでしょうね。

 [試訳]
 
 生物学的な性などないという馬鹿げた議論だけでジェンダー・スタディーを回避する理論や、人間や霊長類の社会の多様性においてなされた観察を曲げて私たちの性愛を歪曲、あるいは場合によっては形骸化するようなあらゆる理論に私は反対する。そうした理論の求めるところは私にも理解できる。けれども、それらは科学の領域でなされるものではない。特殊創造説を支持するものや宗教的保守主義者がそうであるように、それがいかに強固であろうとも、そうした理論の組織化や動機は科学の領域では正当性を持たない。それは政治の場でなされるべきであって、そうした論者たちには「畑」を間違えないよう申し上げたい。
 忘れないようにしたいのは、フランスは性教育に関してもっとも良質の教育が行われている国のひとつでありながら、様々な保守的な立場のために、対立しあっているのは、三十年以上にわたって同じ主張であることだ。そうした立場は、宗教的に中立の共和国の学校における科学教育とはなんの関係もない。対照的に、アメリカでの、少女のままで母になる子供の比率の異常な高さや、中絶反対のファッショ的な運動を思い出せば十分だろう。ピューリタニスムは性的、社会的な抑圧と悲惨を生み出しただけである。
 こうした教育もまた進化しなければならない。理由は二つある。ひとつは、性や人間についての知識と変化は著しく進んだこと。ふたつめは、私たちの社会は、性愛と家族の形態の大きな変化を経験していることである。
 議員たちが教育内容に関心を持つのは当然のことだろう。ことが学問にかかわる以上、その内容を確定し、認証するのは政治に携わるものの役目だろう。しかしながら、政治的、哲学的、宗教的な信条に基づき科学的な知識に対して介入することは不当である。そうした知識が、たとえ政治家たちの信条にそぐわないものであったとしても。政治家たちの信条は私にもわからないではない。けれども、現代社会において最も重要な価値は尊重されなくてはならない。宗教的中立性である。お分かりのように、私が擁護しているのは、科学ではなく、宗教的中立性である。ただ私はこうした論争を好ましくも思っている。それによって学校が市民の議論の中心に据えられるからだ。
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 いかがだったでしょうか。Mozeさんが仰るように、少し長かったですね。でもmidoriさんも触れていたlaicite' をめぐるこうした議論は、フランス社会においてとても大きな意味を持っています。その歴史的経緯を詳しく辿りたい方は、以前一度この場でも紹介した、工藤庸子『宗教vs国家』(講談社新書)を是非一読ください。
 議論の枠組みは違いますが、ここで問われたジェンダーという言葉、いまでも日本の保守系の政治家は毛嫌いしますね。阿倍政権時に山谷と言う女性議員がこの概念に噛み付いたことを覚えていらっしゃるでしょうか。もう少しさかのぼれば、森前首相は「寝た子を起こすな」と学校での性教育を抑圧していました。こうした政治家にとっては、人々が御しやすい「日本国民」であることが一番望ましいのでしょうね。ムズカしいことなど考えてくれるな、というわけです。
 さて、早いもので、次回から扱う文章が今年最後のテキストとなります。NHK E-tv にあやかってAlain <<Propos sur le boheur>>を読むことにしましょう。たしか今晩の番組「100分de名著」が、アランの『幸福論』を扱った最終回になります。
 実は、まだ大学院で修士論文の準備をしていた頃に、今回シリーズの講師役合田正人先生からお電話を頂戴したことがあります。ある先生づてにぼくがレヴィナスのプルースト論のテキストを探していることが伝わって、当時お務めだった東京都立大学からわざわざ大阪まで電話を下さったのでした。もう朝の9時は回っていたと思うのですが、ぼくはその呼び出し音で布団から這い出て、受話器からの低いお声の「合田ですが...」という一声で、冷水を浴びせられたように目が覚めたことを今でもよく覚えています。
 週末にはテキストをお届けします。Shuhei
 p.s. Danielle Mitterrand, Francois Mitterrand 元フランス大統領夫人が亡くなりました。以下で生前の彼女のインタヴューを見ることができます。ミッテラン大統領との一生を振り返って<< Je ne suis jamais ennyue'e.>>と語る夫人の言葉に、彼女のというより、むしろ元大統領の充実した一生を思わずにはいられませんでした。また自身のことをmilitante と考える夫人はPremie're Dame ファーストレディーと呼ばれるのを快く思っていませんでした。ご冥福をお祈ります。
 http://www.francetv.fr/info/danielle-mitterrand-j-ai-eu-une-belle-vie_29827.html

ひとつでない性のあり方(3)

2011年11月09日 | Weblog
 [注釈]
 
 *pratique'es alternativement...ou chageant au cours de leur vie, le plus souvent en e'tant e'panouis... : 多くは、ヘテロかホモかが「選択」されるが、「時には」「交互」に実践されたり、その人生遍歴に於いて「変化する」。そうした場合は、往々にして「充実した時期 e'panouis」であり、「相思相愛 dans l'affection partage'e」の状態である。
 *il s'agit bien d'une the'orie scientifique, : 「文化人類学」もその重要性を認めている 「ジェンダー gentre」は、まぎれもなく「科学的な理論である」il s'agit de...は、前文の説明となっています。
 
 [試訳]
 
 進化によって私たちはこうした民族-認識上の可塑性を受け継ぎ、また結果として教育や社会的表象が性愛の構築に介入している。そうして作られたものはジェンダーと呼ばれるが、それは生物学的な性とは反対に、厳密には女性的でも、男性的でもない。
 異性愛も同性愛も、正常でも異常でもない。それぞれは、私たちの人生におけるいくつもの性愛の可能な実践の仕方の一部である。変化するのは、こうした多様な性愛の形態を選択する人々の割合である。ときには個人によっていろいろな性愛が実践されることもあるし、生涯の中で性愛の形態が変化することもある。それは多くの場合個人が成熟し、愛情が共有された時である。
 そこにはいかなる逸脱もないし、ましてや病的な変質もない、と民族学や人類学や社会学は教える。西洋社会に限ってみても、いかに多くの歴史上の偉人たちが性的志向の多様性を経験したことだろう。また、民族学者によって研究された何百もの文化の中には、イニシエーションに含まれる、ある程度管理され、あるいは儀式化された性愛の多様な実践が見られる。文化人類学もジェンダーの構築の重要性を明らかにしてきた。それはまさに進化論と同様、観察に向き合った、言い換えれば、社会的事実に向き合った概念とパラダイムをともなった科学的な理論なのである(フランソワーズ・エリティエの研究)。
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 <<Le sexe n'est pas...>>いかがだったでしょうか。筆者は非常に慎重に論を運んでいて、その主張が鮮明になるのは結論部分となりそうです。今に至って、みなさんに読んでもらう部分をもう少し刈り込んでおけばよかったと反省していますが、次回最終回まで、もう一回この論考におつき合いください。
 さて、ぼくは大学で担当しているフランス語の授業の冒頭に、なるべく毎回本の紹介をしています。紹介したものは興味をもってくれた学生に持って帰らせるのですが、今年度後期から担当している法学部1年生はとても食いつきがよく、紹介した書物を全部譲っています。
 先日は、『成熟ニッポン、もう経済成長はいらない それでも豊かになれる新しい生き方』 (朝日新書)を紹介しました。ぼくは経済・金融のことはまったくの門外漢ですが、この本の共著者浜矩子のことは、その文章から信頼していて、それで同書を手に取ったわけです。そういうわけで、同書ももう手元にはないのでご紹介がてらここで引用もできませんが、同種の主張をちりばめた対談集を、昨年年賀状を書いてから読んでいたのを覚えています。内田樹・高橋源一郎『沈む日本を愛せますか?』(ロッキング・オン)ひょっとしたら、この本もこの場で一度取り上げたかもしれませんが、『成熟ニッポン...』のエッセンスをお伝えするために、この対談集の一部をここに引いておきます。
 今政治にまつわる言葉が、この日本社会の現実をまったく捉えられなくなっていると高橋源一郎は語り、こんなふうに続けています。
 --だから、この社会は右肩上がりの経験しかないんだ。そのうえに、政治的な用語ものっかっている。だから、僕が収縮していくと考えている世界の中で、政治的な言葉や政治システムがそれにどう対応するかについては、まったく未知だと思う。というか、それは誰も見たこともない世界だから、まだどこでも言語化されていないってことに、国民も薄々感づいていて、ひとことでいうと「なんか変だな」って感じだと思う。(p.330)
 
 浜矩子も、先進国中先頭をきって老成に向かっているこのニホンの実験的な成熟がどう見事に果たされるか、世界は注目していると語っていました。どこまで行っても経済的な成長を主要課題とする、「右肩上がりというイデオロギー」(内田)から、どうすればぼくたちは自由のなれるのか。そのことをまず立ち止まって熟慮しなければならないように思います。大震災を経験したこの社会に暮らすぼくたちのすぐ隣には、きっと大きな喪失を抱えた人々が生きているはずです。そのことに感じ入るだけでも、どこか慌ただしい当のイデオロギーから冷静な距離をとれるはずではないでしょうか。
 それでは、少し長くなってしまいますが、次回はこの論考を最後まで読むことにします。試訳は11/23(水)にお目にかけます。
 Shuhei