フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Humaniser la mort

2013年12月23日 | Weblog

尊厳のある死を

[注釈]
 *montre'e, affiche'e, exhibe'e d'un co^te', prise en otage de l'autre. : 生の、いわば最中にあって襲われた死は、スキャンダラスに語られるが、そうでない死は秘匿されがちである、ということだと思われます。
 *Et me^me plus que jamais : この日本と同じく、高齢化社会フランスにあっては、いまだかつてないほど、死を迎えることが生きることと不可分である。
 *assure's du bon moyen de se tuer, nous aurions moins besoin d'y penser, nous aurions tout le temps d'y penser. : もし自ら命を絶つ手段が確保されていれば、そんな忌まわしいことを考える必要により迫られなくなるし、あるいは[余裕を持って]いつでもその準備ができる、ということでしょか。

[要旨]
 11月22日金曜日高齢の夫婦がパリの高級ホテルの一室で手に手を取り合ったまま旅立った。何年にもわたって用意された最期だったが、それは二人が望んだような穏やかなものではあり得なかった。二人は、辛い手段を選ばざるを得なかったフランス司法の不備を嘆き、訴える手紙を残した。
 若者に限れば、交通事故に次ぐ死因となるほど、自殺は私たちに身近な死でもある。けれどもどちらかといえば忌み嫌われる最期であり、殺人ほど話題になることもない。特定企業の従業員が過労から自ら命を絶てば、人々の耳目をひと時引くことがあっても、多くの場合死を選んだものの魂のあり方や現実は、省みられることはない。
 人間の尊厳を犠牲にしてまで死が禁じられるいる現実が変わることが望まれるし、そう遠くない日にそれは実現されるであろう。言うまでもなく、死を迎えることも生きることの一部であり、誰かの死を助けることは、生きることに手を貸すことでもあるからだ。それは、死を尊厳を持って迎えることに他ならない。
 わたしたちはあらゆる情報に日々接することはできても、来る時にいかに旅立てはいいのか知る術もない。「私たち」の自由は拡大されても、そんな中で個々ひとり一人の精神の、テキストの領地は失われつつある。死刑が廃止されたあと緊急に望まれるのは、穏やかに死を迎えられる、私たちひとり一人の権利だ。

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 12月5日木曜日、朝階下の新聞受けに朝刊を取りに行くと、丁寧な手書の文字でShuheiと宛名書きされた、ほっそりとした細長い封筒が入っていました。見覚えのない筆跡でした。中には、横にした日本の官製はがきよりはひとまわり長いカードが入っていました。カードの左隅には、一目で60年代以前のものとわかる白黒の写真が印刷されていて、それぞれにダブルのスーツと袖無しのワンピースを来た若い美男美女が、にこやかに手をつないでこちらに向かって歩いて来る姿が写っていました。
 カード中央上部には「ベルナー・カーズ、オフィシェ・レジオン・ドヌール、経済企画局、時評家、批評家」と「ジョルジェット=ベロス・カーズ、文学教師」を主語として、ギュメをほどこした以下の文章が続いていました。「子供たちの傍らで恵まれた人生を共に歩めたことの幸福を噛みしめながら、高齢に伴う偶発時に見舞われる前に、二人の人生をひっそりと終えました。」
 そのあと、12月2日にパリ20区のペール・ラシェーズで、献花も花輪も辞退して埋葬が行われたことが記されてありました。
 昨年にひきつづき今年もぼくが夏を過ごしたのは、お二人のパリ近郊のお住まいでした。奥様のジョルジェット先生にはイシー・レ・ムリノ市が管理するイカールという文化教室で97年から2年近くお世話になりました。FLEの上級クラスの先生でした。当時もう七十を越えられていたと思いますが、少し早口な、よく響く明るい声でShuhei, Shuheiと、あとにも先にも唯一の日本人受講生であったぼくをかわいがってくれました。
 日本に帰国後何度か贈り物や手紙のやり取りをしたあと五年以上して、一冊のプルーストの研究書を届けてくれました。当時エコール・ノルマルに通っていた先生の息子さんが残された論文を、小さな書物にまとめたものでした。先生が元リセの文学教師であったことは知っていましたが、ご子息が将来を属目されたプルースト研究者であったことには、ぼくのフランス留学中ひとことも触れられませんでした。
 ここ数年ぼくが人並みの人生の苦難に耐えている間には、明晰な、それでいて愛情に溢れれたメールをときどきしたためて下さり、何度もおだやかな気持ちにさせられました。昨年春、四年振りにお会いした時には、自身が教師を志した理由、ご子息が交通事故で亡くなり、それをきっかけにして教職を辞されたことを今では後悔していることなど、ご自宅のお二階で、どこか晴れやかなご様子で話して下さいました。その後、夏一家でトゥールーズでバカンスを過ごす間、ここのお留守番をしなさいと、少し強い調子で仰られたことを思い出します。秀平に夏自宅を使わせることも、先生が最期を念頭においてのプログラムの、数多い項目の一つだったのだと今にして思います。
 ご夫婦で、社会党支持者で、どこかでキリストという神に何かを委ねることを潔しとしないとう態度が、お二人の言動の端々から感じられることが何度もありました。知性を持って宗教に距離をとるという、18世紀啓蒙思想家以来今に受け継がれるフランス人の精神のある典型を、ぼくは先生ご夫妻の最期の迎え方に強く感じました。またそういった話を、この年の瀬例年のようにクリスマス色に染まった街を闊歩するであろう学生たちにも語りました。
 ぼくが大学でフランス語の教師をしていることをご存知だった先生は、こうして軽々しくお二人のことを話題にしていることも許して下さっていると、勝手ながら思い込んでいます。先日、例年通り、元金融分野の官僚で、今は銀行の投機的な動きを監視、批判する団体を主催しているもう一人のご子息に、和菓子をお送りしました。
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 今年もおつきあい頂きありがとうございました。正直申し上げれば、水曜日が二度まわってくるリズムが思いのほか速く、その度にあたふたとして準備にあたる始末です。とくに、テキストを選定するまでが骨が折れます。
 さて、新年から取り組むテキストですが、作家・仏文学者の堀江敏幸がいつかどこかで名を挙げていた、Paul Gardenne <<Propos du roman>> (Actes Sud,1983)を今のところは考えています。少し間が空きますが、1月第二週の週末までには、みなさんのもとにテキストをお届けするようにします。
 ここ岡崎も、出かけると肩に自然と力が入るような寒さが続いています。みなさんもお身体には気をつけてどうかよいお年をお迎え下さい。Shuhei


「戦争の世紀からの教訓」(Le Monde)(2)

2013年12月04日 | Weblog

[注釈]
* Les militaires, qui savent compter...: これはquatrieme ge'ne'ration という呼び名をつけたことを言っています。
* si la guerre est devenue l'affaire des civils, ils sont aussi...victimes. : 注意を要する si ですが、ここは「対比・対立」を表現するものです。
* Effectivement,… et notre siecle a e'te' a` la hauteur... : ここの et もmais に近いニュアンスを含んでいます。というのも、この百年の戦争も、あいもからわず過去の戦争と同じく野蛮な戦いではあるけれども、そこには「産めよ殖せよ」を促す「人口学」と、戦争への「市民参加」を容易にする「テクノロジー」の進展がある。そのことが強調されているからです。
* l'exercice : ここは la guerreの言い換えだと思われます。

[試訳]
 ここには大いなる逆説がある。ダヴィデとゴリアテとの終わることのない戦いを見事に要約した言葉があるとすれば、それは非対称性ということになる。トヨタ製の小型トラックが挑むのは、ラファル戦闘機であり、爆薬を仕込んだ車で立ち向かうのは、無人戦闘機ドロヌであり、あるいはまた、カラシニコフを手に戦車に向かうのだ。数を数えるのに長けた軍人たちは、イデオロギーで、あるいは宗教で武装した敵とのこうした抗争を、「第四世代の戦闘」と呼ぶ。
 この戦争の世紀から残された二つ目の教訓とは、戦争が市民の関わる有事となる一方で、その市民がまた主な犠牲者ともなっていることだ。なるほど、長い時代を眺めれば、それはなにも目あたらしいことではない。略奪、強姦、虐殺、野蛮行為全般もあらゆる戦争につきものであろう。しかし私たちの世紀が、それまでの戦争の世紀と比肩しうるのは、そこに人口学とテクノロジーという「切り札」を加えたからであった。1914-18年に及ぶ「大殺戮」を経て、私たちはことあるごとに「過ちは二度とくり返しません」とくり返してきた。くわえて、国際連盟から国際連合へ、ジュネーブ条約から国際司法裁判所までに見られるように、世紀を通じて私たちは戦争を規則に従わせようと努めて来た。そしてこれが三つ目の教訓となるのだが、そうした国際的な法制化や、国連軍をともなっての数知れない平和活動にもかかわらず、国家連合は戦争を禁ずること、あるいは武力の行使を「正しい戦争」に制限することにも成功しなかったのだ。
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 まずは、テキスト配信の時点で問題があったようで、そのことをお詫びしなければなりません。結局三度に渡ることになりましたが、当初こちらがお送りするつもりだったものをもう一度お送りします。
 まったく迂闊なことで、今になって思い当たったのですが、Le Mondeのこの記事を選んだとき、ぼくの頭の中で響いていたのは作家・詩人の辺見庸さんのつぎの言葉でした。
 「日中戦争の始まり、あるいは盧溝橋事件。われわれの親の世代はその時、日常生活が1センチでも変わったかどうか。変わっていないはずです。あれは歴史的瞬間だったが、誰もそれを深く考えようとしなかった。実時間の渦中に『日中戦争はいけない』と認められた人はいたか。当時の新聞が『その通りだ』といって取り上げたでしょうか」
 先日もこの欄で触れましたが、その日中戦争がはじまる前に既に日本の「冬の時代」を懸命に生きた堺利彦の評伝、黒岩比佐子著『パンとペン』(講談社文庫)を読み終わりました。文庫版解説を書いた梯久美子さんの言葉をここに引いておきます。
「堺が生きた百余年前の「冬の時代」は、また違った形で、現代にくり返されている。華々しい闘いの高揚感はなく、目の前に広がるのは、果てしなく続くように見える困難な日常である。引き波に足もとをさらわれるような時代にあって、何をよすがに生きるのか。そのヒントが本書にあるように思えてならない。」(p.633-4)
 辺見さんの先の言葉は以下で参照することが出来ます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130908-00000015-kana-l14
 あいかわらずの自転車操業なのですが、つぎのテキストは8日(日)までにお届けします。もうしばらくお待ち下さい。Shuhei