[注釈]
* convertie a` quoi que ce soit : ここは、convertie と女性形になっていますから、私の「教育」によって母が「なのものに転向させられようとも」という譲歩の表現となっています。
* l’espace me^me de l’amour, sa musique. : 後者は「愛の音楽」ととりました。そういえば、この写真は、シューマンの「曉の歌」にも喩えられていました。
* Si, comme l‘ont dit tant de philosophes...si le particulier...si, apre`s..., moi qui n’avais pas procre’e’...: これらの si は、対比を表現しています。まとめると、こうなるでしょうか。
la Mort ; l’espe`ce ; l’universel ; dialecque <--> engendre ma me`re dans sa maladie ; particuralite’ ; indialeque
* apre`s s’e^tre reproduit comme autre que lui-me^me : ここは、個人はその誕生前にすでに「転生」を果たしているのであるから、その個人は死によってその「個体性」を乗り越えてゆく、つまり、「普遍化」される、ということでしょう。
* ma mort totale, indialecque. : 死によって個体性が普遍性に止揚されるのが「弁証法的な死」そのような死と対極をなすのが「全的な、非弁証法的な私の死」。
[試訳]
ブレヒトにあっては、かつて私が高く評価していた逆転によって、母親を(政治的に)教育するのは、息子であった。けれども母がどんな教えに転向しようとも、私は一度として母を導いたことなどなかった。ある意味では、私は一度も母に「話を向けたこと」など、母を前にして、母に向かって「議論をした」ことなどなかった。母と私は、口にこそ出さなかったが、言葉が軽やかに無意味であること、イメージが宙づりにされていることが、愛の、愛の音楽の空間そのものであるべきだと考えていた。私の内面を司る強力な「法」であった母を、私は最後には、女の子として生きていた。私はそんなふうに、私なりのやり方で「死」を解決した。多くの哲学者が言ったように、「死」が種の厳然たる勝利であろうと、個は普遍の充実のために死すのだとしても、元の存在とは別のものに生まれ変わった後に、個人が死んでも、そのことによって個は否定され、乗り越えられたのだとしても、子供を生むことのなかった私は、母の病において、私の母を生んだのだった。母が死んで、私には上位の(種の)生けるものの歩みに歩調を合わせる謂れはなかった。私の個別性はけっして普遍化されることはないであろう(理想を言えば、書くことによって以外は。以後それを書く計画が、私の人生の唯一の目的となるはずであった)。私は自分の全的な、非弁証法的な死を待つばかりであった。
これが「温室の写真」に私が読み取ったことである。
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先日、橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』(講談社新書)を大変興味深く読みました。仏文学を少し勉強して来たものとして、キリスト教のある程度の理解は欠かすことはできません。それで、「キリスト教入門」の類いの書物をあれこれ読んできましたが、「あまりにもキリスト教とは関係のない文化的伝統の中」(p.4)で生きて来た日本人にとっての「躓きの石」を的確に捉え、これほど明快に解き明かしてくれた書物には、これまで出会ったことがありませんでした。
たとえば、「隣人愛について」―、
[大澤](...)律法のゲームから愛のゲームへの転換が、新約とともに実現するわけです。
その愛のことを、「隣人愛」という。(...)罪深い人とかダメな人とかよそ者とか嫌な奴、そういう者こそが、「隣人」の典型として念頭に置かれていて、彼らをこそ愛さなくてはならない。(p.195)
[橋爪](...)隣人愛のいちばん大事な点は、「裁くな」ということです。人が人を裁くな。
なぜかと言うと、人を裁くのは神だからです。(...) 律法はね、人が人を裁く根拠に使われたんですよ。だから、なくした。イエスが言っているのはそういうことでしょう? (p.198-199.)
そのほかにも、「原罪」「預言者」「贖罪」「精霊」など、こうしたキリスト教理解の上で外せないテーマを、それぞれ明快に論じあっています。
また、キリスト教と、政治体制・資本主義・自然科学との関係などにも話は及んでいて、射程の広い西洋文明論としても堪能出来ます。
文学、哲学、絵画、音楽に興味のある方のみならず、「近代社会」をこの島国で生きているわたしたち一人ひとりにとっても、とても有意義な書物です。
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Moze さん、「君が代条例」についてのご意見、ありがとうございました。大変心強く思いました。フランス語を読むことを楽しみとしているわたしたちも、そう言えば、立派な「マイノリティー」。そうした存在を邪険にしないことは、生物多様性を保護する観点からも、この社会にとって、そう悪いことではないはずですよね。
過日ご紹介した放送の中で辺見さんが、大震災で被災した高齢者こそ手を尽くして救わなければならない。「もう十分生きたのだからいいだろう」ということには断じてならない、と語気を強めて語っている姿が印象的でした。明子さんはいかがでしたか。
それでは、次回からは、先日フランス・アカデミー入りを果たした作家・評論家 Danie`re Sallenave <<Le Don des morts. Sur la litte’rature>>(1991)を読むことにします。今週末にはテキストをお届けします。Shuhei