フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Jean Clair<<Bonnard>>(2)

2013年02月27日 | Weblog

 [注釈]
 

 *Et de me^me, ...de me^me Bonnard, qui … :「…と同じく、...」と言うことですが、カレンダーで示される出来事とお天気のどちらに関心が向いているかは、私たちとボナールでは対照的なところに注意して下さい。
 *un e'te' aussi pourri : pourrirは「腐る、朽ちる」ことですが、フランス人の季節感から言うと、雨が多く、肌寒い夏のこととなります。
 *perdu dans ses nuages, notait imperturbalement : se perdre dans ses nuages 「うわのそらである」ですが、ここは、文字通りにとりました。
 *Si bien que l'on comprend que de ce monde, ...Bonnard se soit fait le guetteur attentif... : ここのつながり具合は確かにわかり辛いですね。試訳もご参照下さい。

 [試訳]
 

 実際のところ私たちは、昨年の今頃何をしていたかはちゃんと思い出せますが、そのかわりその頃どんなお天気だったかはほとんど思い出せません。それでこんなふうに言う始末です。こんなに夏らしくない夏は経験したことがない、とか、逆に、こんなに晴れやかな夏は初めてだなどと。この今の時の太陽、風、雨、その初々しさと深さに、すっかり忘れてしまっているのです、昨年の夏も本当はひどい夏だったり、すばらしい夏だったりしたことを。それと同じように、でも逆に、ボナールは手紙に日付を記すことはしないのに、雲に夢中になって、倦むことなく毎日、曇りがちから、晴れ渡った空へ、どんよりした空から、風を孕んだ空へと、くり返される空の状態の変化を記していました。彼が描いた数々の風景は、初めての朝を迎えたように、朝露がまだ煌めいているように、洗い清められ、あらゆる惰性は取り除かれて、目に飛び込んできます。そしてすべては、そのままそっくりその独自の生成の輝きにゆだねられているのです。ですから、私たちにはわかるのです。この世界、ただ一度だけ創造されて、あとは時計の規則正しい流れに従うだけなのではなく、目が世界の新しさを見据えるその度毎に創造されるこの世界の(神学において神が視線を注ぐごとに世界は再創造されるように)、ボナールは注意深い観察者となったのであり、マチスが彼に宛てた最後の手紙の、最後の言葉が「すばらしいお天気だ、すばらしい仕事を」であっことが。
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 このテキストの出典は<<Les plus beaux textes de l'histoire de l'art>>(Beaux Arts e'dition 2009)です。実は、この同じ美術批評のアンソロジーからクローデルのフェルメール論を扱おうとして、前回断念したのでした。このテキストもけっして易しくはないですね。ですが、この文章がかなり難関の大学院の入試問題として出題されたとして、今回コメントしていただいたみなさんの訳文は、それぞれに十分、間違いなく合格点でした。本当をいえば、フランス語で書かれた文章をどこまで正確に読めているか心もとないぼくのような者のもとで学んでもらうのは、なんだか申し訳ないような気さえします。みなさんひとり一人の語学力は確かなものですから、どうか、それぞれの関心にそって、様々なフランス語の文章をどんどん味読していって下さい。
 それでは、しばらく春休みを頂きますが、新しいテキストは、3月最終週の週末までにはみなさんにお目にかけます。Bonne continuation, et bonne lecture !


Jean Clair<<Bonnard>>(1)

2013年02月13日 | Weblog

 [注釈]
 この文章の前半の論理構成をまとめてみると、
  Francais : un seul terme “temps“; l'abstraction des calendriers ; esprit carte'sien ; la chronologie
    Anglais : deux termes distincts ; la touche concre`te du temps ; un esprit empirique ; la me'te'orologie
*つまり、la revanche d'un esrit carte'sien...sur un esprit empirique と la mainmise de la chronologie sur la me'te'rologie は、同じことを言い表しているわけです。
* Son tempo inte'rieur ne s'accorde...que parce qu'il trouve とつながっています。
* さて、selon cette observation ですが、ぼくもここの扱いには困りました。通常le temps chronologique が記憶と強く結びつき、le temps me'te'rologiqueははかなく移ろうだけのものなのですが、Bonnard の絵画、資質は後者を見事の表現している、ということだと思うのです。以下のように試訳してみましたが、またご意見があれば聞かせて下さい。
 
 [試訳]
 私たちはフランス語で同じ言葉(le temps)を用いてお天気(le temps qu'il fait)と時間(le temps qu'il est)を言い表しますし、さらに言うと、私たちは、時の具体的な質感をカレンダーの概念に吸収しているんだと言って来ました。対してイギリス人は、彼らの風景を愛する気持ちや、すばらしい風景画家たちの存在を見てもわかるように、天候と時間を語るのに二つの別の言葉をずっと用いています。そこに私は、本質にこだわるデカルト的精神が、成り行きに寄り添う経験的主義的な精神の優位に立っていることの現れを、ミッシェル・トゥルニエの言葉を用いれば、気象学に対する年代記の支配を見ています。
 こうしたこととは対照的に、ボナールの感受性はまったく気象的であり、散歩の間その創作帳には、ささやかな光のニュアンスや、大気がしっとりするに従ってそんな光が変化する様が書き留められています。それはまるで、お天気が崩れ始めると色を変えるあの子供用の晴雨計のようです。「晴れ渡っていても涼しい。オレンジがかった陰には紅の光が見られる...」ボナール内部のテンポtempoが、そんなにも精密に様々な気象現象の移り変わり、にわか雨や大気の流れに調和するのも、彼の生来の住まいが、時計の抽象的な物言いではなく、瞬間の差異の中にあるからにほかなりません。それは、お天気の記憶は日付の記憶に比べてはるかに頼りないという、あのよく知られた観察にはそぐわないのですが。
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 昨年の春は四年ぶりにフランスを訪れ、3.11はパリ近郊のMeudonで過ごしたことをここでお伝えしました。今春は、ここ岡崎で les vacances studieuses を過ごすことになりそうです。2月27日(水)にこの文章の最後までの試訳をお目にかけて、勝手ながらしばらくお休みを頂くことにします。
 陽射しはようやく少し春めいて来ましたが、青空のもと、両腕を振りかざして頼もしいお日様に目を細める日はまだ遠く、こうして身をすくめている日々がしばらくは続きそうです。どうかみなさんもお身体には気をつけて下さい。Shuhei