フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

宮崎駿「風立ちぬ」(1)

2013年10月23日 | Weblog

 [注釈]

 * l'auteur...allait se retrouver maintes fois cite', et en francais s'il vous plait, : 半過去形のallaitですが、映画が始まり、比較的早い段階で同詩句が菜穂子・二郎によってくり返されるので、近接未来形の半過去形がとられているのだと考えられます。また、s'il vous plait には前文の内容を強調する用法もあります。

 ex. Et mon e'le`ve a voyage' en France en premie`re classe, s'il vous plait !

   * Comme lui, : カプローニも操縦士ではありませんでした。

 [試訳]

 宮崎駿「風立ちぬ」- 二郎、悲劇の時代の夢追い人

 堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読んではじめて、宮崎駿はポール・ヴァレリーの有名な詩句「風立ちぬ… いざ生きめやも!」を知った。作家の運命とは、時になんと数奇なことだろうか。「海辺の墓地」(件の詩句はそこに由来する)がその書き手の死後68年を経て、日本のアニメーションの巨匠の映画作品において、一度ならず、しかもフランス語で引用されるとは、誰が想像しただろうか。
この「ヴァレリー的」着想が、9月1日日曜日ヴェネチア映画祭に出品された宮崎駿の新作唯一の見所というわけでは、まったくない。確かに「風立ちぬ」には「千と千尋の神隠し」の監督にお馴染みのいくつかのテーマ - 自然と文明の間には欠かすことのできない調和があり、子供時代にはそのもっとも純粋な姿が具現される -を見てとることができるのだが、72歳となった監督は初めて、祖国の歴史の痛ましい時代に取り組むこととなった。映画は、飛行機作りを夢見る堀越二郎少年の物語だ。ほんの幼少の頃から、二郎少年の唯一の憧れの的はイタリアの高名な航空設計士ジアーニ・カプローニだった。カプローニ同様、二郎は操縦をするわけではないが、やがて「風のように美しい」飛行機を設計することとなる。
 

 三菱に就職

 青年となった二郎は研究に打ち込む。ある日汽車での旅行中 - 1923年9月1日だった - 関東大震災が起る。そこで二郎は菜穂子と出会い、その数年後に結婚することとなる。二郎の才能は早速三菱工場の技師の目に留まり、同社に就職。戦闘機の製造を任される。ドイツのナチと同盟を組むためにも日本には戦闘機が必要であった。それは後に、「ゼロ戦」の名で名を馳せる、有名な三菱A6M1機となる。

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 やはり、Le Monde などはみなさんにとって少し易しいテキストですね。ぼくから付け加えることは今回もほとんどありませんでした。

 ところで、「風立ちぬ」を観る前でしたが、「文藝春秋」誌上で半藤一利・宮崎駿の対談を読みました。今手元に雑誌がないので具体的にお話はできませんが、とても勇気づけられる内容でした。日本が大きく誤った時代を生きた、あるいは身近に生きて来られた先行世代から、ぼくたちは貴重なものを受け継がなければならない、とどこか素直な気持ちになった記憶があります。

 同対談は後にNHKのテレビでも番組となりましたから、ご覧になった方もあることと思います。また下記にあるように文庫本にもなっています。機会がありましたら、一度手に取ってみて下さい。

 『腰抜け愛国談義』(文春ジブリ文庫)

 さて、次回は、11月6日(水)にこの記事の最後までの試訳をお目にかけます。


Alain Badiou <<Eloge de l'amour>>, Chapitre II. (3)

2013年10月09日 | Weblog

[注釈]
 

 *l'autre, e'phiphanie dont le support est en de'finitive Dieu...: レヴィナスは他者の「顔」に、神聖な、近づくこともままならない他性alte'rite' の顕現を見るのですが、そうした経験は、究極的には「全き他者」としての神の顕現に支えられていると考えていました。
 * ce paradoxe d'une diffe'rence identique : この言葉を導く例示(彼女と私が山間の暮れなずむ牧草地の風景を眺めている)は、ぼくもあまり説得的ではないと感じました。ただ、バディゥーは、二人の独立した主体が、一つの夕闇迫る風景を生きているという出来事、二つにして一つというを「逆説」を強調したかったのだと思います。

[要旨pp..26-29]
 

 愛について哲学的には主に三つの捉え方があります。ひとつは、ロマンティックな愛の概念。それから、愛を二人の個人間に結ばれた契約と捉えるもの。そして愛など所詮幻想に過ぎないとする懐疑論。
 私は、愛は、この世界を二人の差異から生きようとする試みであると考えます。二人の間に横たわる差異から、吟味し、実践し、生きられた世界とはどんなものであるかを問う、あるいはそうして世界を構築する試みだと思うのです。
 レヴィナスの他者の経験は、それを究極において裏付けるのが「全き他者」としての神である点において、私の考える、ありのままの愛の経験とは異なります。
 私が考える愛とは、この現実世界の内部における出来事です。自明な生存や利益をただ求める方向からはずれた視点から、ひとつの世界を構築しようとする試みです。そのとき愛は世界の誕生に立ち会う機会であり続けるのです。
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   Akikoさん、masayoさん、Mozeさん、要旨ありがとうございました。
 結局<<Eloge de l'amour>>、一章、二章と読み通してしまいましたが、いかがだったでしょうか。これはCafe' Voltaire という哲学者への聞き語りをまとめた叢書の一冊でした。また機会があれば同叢書をふたたびテキストにしたいと考えています。
 さて、次回からはもう少し浮き世に直接かかわった文章を読むことにしましょう。この週末までにはテキストをお手元にお届けします。Shuhei