フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Patrick Modiano (2)

2014年12月24日 | 外国語学習

[注釈]
 * ...pourraient sugge'rer...mais… : このpouvoir の条件法現在形は、弱い、あるいは、ここではできれば回避したい事態を指しています。つまり、モディアノにとって自身の作品はいわゆる自伝小説ではないと主張しています。
 *une partition musicale qui lui semblera...Il aura chez le romancier… : こうした単純未来形は推量ではなく、断定に近い判断を示しています。「小説家の私にはわかるのだが、作家とはそういうものだ」という思いです。
 * <<Sois toujours mort en Eurydie.>> : ここでのリルケの引用は、ぼくも少々唐突に思えました。ウィルさんが仰る通り、文学と音楽の関係を論じたこの文脈でのネルヴァルの引用は明解ですが、存在と不在をめぐる精妙なドラマを歌ったリルケの詩の引用は、この流れに適切だったのかどうかわかり辛い。
 以下のサイトも参照下さい。
 http://agora.qc.ca/thematiques/mort/documents/sonnets_a_orphee_extrait
 むしろ<<sois un verre qui sonne et dans le son déjà se brise.>>「響きを立てていると同時に、その響きにおいてすでに砕けているグラスであれ」の部分の引用の方がより適切ではなかったか、とモディアノに進言したい気もします。

[試訳]
 この作品集のはじめに再録した写真や資料によると、こうした「物語」はすべて一種の自伝と思われるかもしれませんが、それらは夢見られた、あるいは想像上の自伝なのです。私の両親の写真でさえ、想像上の登場人物たちの写真となっています。ただ私の弟、妻、娘たちだけが実在する人物なのです。モノクロームのアルバムに写し出された、ちょっとした人物や幻影に関してはどうでしょうか。私はそれらの面影を、とりわけその響きのために、そうした人物の名前を利用して来ました。彼らはもはや私にとって音符でしかなかったのです。
 要するに、小説家の仕事とは、目に留めたかもしれない、あらゆる人物や、風景や通りを一冊のスコアの中に引き込むことなのです。そこには、あの作品にもこの作品にも同じ旋律の断片が見つけられることでしょう。それでも小説家にはそのスコアはきっと不完全に思えるはずです。作家には純粋な音楽家になれなかった、ショパンの夜想曲集を作れなかった悔いが、必ず残るものなのです。
 けれども、青春時代私に文学を愛することを教えてくれた作家たちは、純粋な音楽家であったことを私は忘れはしません。今日でも私はリルケのことを、ネルヴァルのことを考えています。「オルフェウスに捧げるソネット」の中のリルケの鋭く響く命令を、私は忘れたことがありません。「常にエウリュディケのうちに死してあるべし」また自分自身のことを語ったネルヴァルの謙虚さと優しさも忘れません。「そこにはひとりの詩人を成しうるものがあったが、私は散文で夢見る男でしかなかった」
 2013年5月 パトリック・モディアノ
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 モディアノの「散文」いかがでしたか。モディアノがノーベル文学賞を受賞したあと彼と会食したフランスの文化大臣が、彼の作品を一冊も読んだことがなかったことを正直に認め、意地の悪いマスコミがちょっとした騒動としたことがありました。この「教室」で昨年末にお話ししたぼくの恩師の息子さんも、まだ読んだことがなかった彼の作品を亡き母の蔵書の中からとりだし、読んでみたとのメールを先日送ってくれました。
 この秋、手袋が手放せなくなる頃まで、暇を見つけては数ページずつ音読していた<<Dans le cafe' de jeunesse perdue>>を、ぼくも年内には読み切ってしまおうと思っています。
 
 さて、今年度最初の授業でぼくは新入生に向かって、今教育はまちがいなく「富国強兵」政策に巻き込まれつつあるという話をしました。そのなかでフランス語を学ぶ意義が試されていると。
 実は、あまり気は進まなかったのですが、巷で話題になっている内田樹『街場の戦争論』(ミシマ社)を読みました。内田自身がいうところの「いつもの話」も部分的にはありましたが、やはり引き込まれて短期間で読み上げました。その「まえがき」で述べられている通り、この書物は、白井聡、中島岳志、赤坂真理といった内田より年若い人々が、どうしようもない危機感から近年綴った書物につながるものです。少しだけ引用しておきます。
 「あの敗戦で日本人は何を失ったのか、それを問わずにきたせいで、僕たちの国は今「こんなふう」になっている。戦争から何も学んで来なかった人たちがもう一度日本が戦争できるような仕組みにこの国を作り替えるために必死になっている。それに喝采を送っている人たちが少なからずいる。戦争から僕たちは何も学ばなかった。」(p.29)
 この冬も凍え、飢え、深い孤独から膝を抱え身をこわばられている人々が少なからずいることでしよう。でも、テレビニュースでは、朝鮮半島のありようが、中国が嘆かわしいとくり返す一方で、ニッポンはこんなにも素晴らしいといったメッセージが毎晩流されています。今ぼくたちがその上に乗っかっている一見おだやかに見える勾配が、いったん滑り出したら登り直せない傾斜にならないか、五官と頭脳を研ぎすませていなければなりません、年があらたまっても。
 
 来年度は某国立大学でフランス語を専攻する学生たちとプルーストを読む機会に恵まれました。こうしてみなさんとお話しできる機会はもう少し間遠になるかもしれませんが、来年もどうかよろしくお願いします。みなさんも、どうかよいお年をお迎え下さい。Shuhei


Patrick Modiano (1)

2014年12月10日 | 外国語学習

[試訳]
 十数冊のあなたの本がたった一巻にまとめられたら、妙な気持ちになるでしょう。今まで、一冊一冊の本が、それを書く時には前作のことを消し去っていました。私自身がその存在を忘れ去ってしまっていたような感じを持っていました。つまり自分の後に残して来たこれらの「物語」を振り返ること、読み返すことを避けて来ました。まるで綱渡りをする人のように。綱渡りは何がなんでも前進しなければなりません。ためらったり、後ろを振り返ったりでもすれば、落下しかねないのですから。
 モーリス・ブランショがいみじくも言ったように、作家は、綴り字や文章の誤りを訂正するときを除けば、自身の作品の読者にはどうしてもなれないのです。書物がひとたび完成すれば、それは作家の手を逃れ、真の読者のために書き手のことなど顧みないものです。読者とは、書き手よりも書物をよりよく理解し、ある化学反応によって、作家自身に書物の真の姿を明かす者のことです。
 それでは、はじめてこうしてまとめられた「物語たち」について、私に何か言うことがあるでしょうか。ほとんど何もありません。これらの物語は唯一の作品を形作っていて、ここに収められなかった他の作品の脊柱となるものです。私はそれらを断続的に、書いたはしから忘れて来たつもりでいましたが、まさしく同じ相貌が、同じ名前が、同じ場所が、同じフレーズが、それぞれの作品に帰って来ています。まるで半ば眠りながら織ったタピストリーの模様のように。
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 l'epine dorsal ですが、こういうときはgoogle でimage 検索すれば手がかりが得られます。ぼくも授業中に時々お世話になっています。ただし、猥雑な物も時に混じっているので注意は必要ですが…。 
 今回は、特に付け加えることもなく、試訳のみご覧にいれます。
 なお先日7日にストックホルムで開かれた受賞記念講演の模様が下記で見られないでしょうか。長いものですが、この「序文」の内容と通じる箇所をいくつも含んでいます。講演の閉じ方が、なんともモディアーノらしく、微笑みを禁じえませんでした。
 http://abonnes.lemonde.fr/livres/video/2014/12/07/suivez-en-direct-le-discours-du-prix-nobel-de-patrick-modiano_4536151_3260.html
 ウィルさん、本当にお久しぶりです。こうやって再会すると、この教室も長い間続けているなぁ、としみじみ実感しました。またお時間の許す限りでおつきあい下さい。
 それでは、次回は24日に残りの部分の試訳をお目にかけます。
 Bonne lecture, mes amis ! Shuhei