フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

J.J. Rouseau : Essai sur l'origine des langues (1)

2012年11月29日 | Weblog
 [注釈]
 
 * des yeux … commence`rent d’en voir de plus doux. : 現代フランス文法からするとen は不定冠詞のついたdes yeux を受け、それにde plus doux と形容詞が付加されている、ということになるでしょうか。ただ、続く文の ces nouveaux objets とのつながりも考え合わせて、ここのen はdes yeux も含めたobjetsと解釈しました。
 * L’eau devint insensiblement plus ne’cessaire,… : ここは、現実に水がもっと入り用になったのではなく、異性との逢瀬がそう感じさせた、ということでしょう。
 * l’amusement et l’ennui : ennuiが「退屈・倦怠」の意味で使用されるのは近代以降のことです。いずれにしても、ここでは時のリズムが早まる状態が 前者であり、遅くなるのが後者です。

 [試訳]
 
 水を得るのに井戸に頼るしかないような痩せた土地では、人々は寄り集まって井戸を掘るか、少なくとも井戸の使用を巡って意見の一致を見なければならなかった。これが温暖な地域での社会と言語の起源であったろう。
 そこでこそ、家族の最初の絆が生まれ、男女のはじめての出会いがあった。娘たちは家事のための水を求めに、若い男たちは家畜の群れに水を飲ませるためにやって来ていた。子供の頃から同じものを見続けて来た目が、そこでもっと優しいものを目にしはじめる。心はそうした目新しいものに高鳴り、今まで知らなかった魅惑によってもっと細かになり、一人ではない楽しみを感じる。水はいつのまにかもっと必要となり、家畜もこころなしかもっと頻繁に水を欲しがった。いそいそと井戸に駆けつけ、後ろ髪を引かれるように井戸を後にするようになる。こうした幸福な時代においては、時間を刻むものは何もなく、時間を計る必要もなかった。ただ時間には、楽しみと悲しみの尺度があるだけだった。時の試練に耐えて来た樫の老木のもと、激しい若さは徐々に角を失い、お互いに少しずつ馴染んでくる。互に理解しようと努めるうちに、気持ちを伝え合う術を覚えるのだ。そこではじめての宴が催される。喜びにステップが踊り、気を魅こうとする挙措だけではもう十分ではなくなり、そこに情熱の調子を帯びた声が加わる。喜びと欲望が渾然一体となって同時に感じられる。つまりそこが市民の揺籃の地となるのだ。泉の清らかな流れから、愛の最初の炎が生まれる。
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 ぼくも久しぶりに、啓蒙の時代を生きたルソーの文章を味読することとなりました。読み飛ばすようには活字を追えず、少し襟を正すような気持ちで文章を辿りました。試訳を読んで疑問点などあればまたお尋ね下さい。
 それでは、次回は原註も含めてこの文章を最後まで読むこととしましょう。次回は、一週間遅れとなりますが、12月19日(水)に試訳をお目にかけます。
 いよいよ初冬らしく朝晩は冷え込んできました。どうかみなさんもお身体には気をつけて下さい。Shuhei

フランス語読解教室:新しいテキスト

2012年11月14日 | Weblog
 年内扱う最後のテキストとして、J.J.ルソー『言語起源論』を読みます。普段教室に訪ねて来てくれている方々にはすでにお知らせしていますが、テキストは以下よりダウンロードして下さい。
 https://docs.google.com/file/d/0B6CDVcIb-i7kTUZ6N3lkUnNoSDg/edit
 Bonne lecture, mes amis !
 28日(水)にpremiers feux de l'amour までの試訳をお目にかけます。

Ecouter Haendel (7)『ヘンデルを聴くよ!』(7)

2012年11月14日 | Weblog
 [注釈]
 
 まずはふたたびdes bonnes paroles について。midori さん、Mozeさんも有益なご意見ありがとうございました。ぼくも、『新・朝倉文法事典』ほか、いくつかの文法参考書にあたってみたのですが、みなさんが寄せてくれた回答に付け加えることは何もありません。勉強になりました。ぼくはこうした文法に対する目配りがあまり利きません。また色々とご教示下さい。
 * ce qui e'tait tre's alarmant : ここのce ですが、ぼくは Il a semble'...以下前文を受けていると取りました。試訳を参照して下さい。
 * Que l'espoir,...qu'il ne s'agissait ... : ここは、ちょっと破格の構文だと思われますが、この二つのque に導かれている節が、あとの cet espoir の説明となっているようです。

 [試訳]
 
 医師たちの診断は明解ではなかった。最初にかかった一般医は、すぐに親身な、人間的な人だと見て取れたが、初診の際の翳りのある様子で私たちは心配になった。その医者は、娘は歩くことも出来ないし、歩けたとしてもわずかであろうと信じているように見えた。その様子に私たちは怯えたが、それは杞憂に終わった。ほとんどの医師たちは慎重で、用心深く、あたかも私たちとかかわりたくないようであった。あるいは私たちに判断や診断を委ね、自分たちで苦悩を発見させようとしているかのようであった。
 いつ私たちは自分たちが苦悩のただ中にあると知ったのだろうか。ギャランスは少し他の子供たちより遅れているだけに過ぎない、「よい子たちにすこし出遅れていてもすぐに追いつくだろう」そうしたしばらくは抱けた希望は、いつ潰え、真実を思い知らされたのだろうか 。--ギャランスは、他の子供たちとは違う、違ったままだ、娘が苦しめられているのは、これと確定できない病であり、人並みの女の子に、娘に、「私たちのような」おとなにもなれはしないという真実を。正確な日付、これといった瞬間、決定的な出来事などなかった。たくさんの推測があり、相矛盾する多くのことが明るみになり、ついには、緩やかな坂道を下るように、わずかずつ、次第に、私たちは認めたのだった。私たちは他の親子とは違う、この奇妙な、未知の、思いがけない苦悩が私たちに根付き、もうけっして私たちの元を去ることはないのだと。
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 <<Ecouter Haendel>>いかがだったでしょうか。以前お話ししたように、この書物はヘンデルの楽曲に導かれて手にしたものでしたが、ここのところ日本で話題になっている「出生前診断」の問題とのつながりも意識しながら、ぼくは興味深く読んでいました。
 さて、早いものでつぎのテキストが今年最後の課題となります。
 ご存知の方もあるかと思いますが、今年2012年は、J.J.ルソーの生誕300年にあたります。それで、今年の締めくくりにルソーのテキストを読むことにします。テキストの用意が間に合わなかったのですが、来週中にはみなさんの元にお届けするか、該当するサイトをお知らせすることにします。
 ここ岡崎の街中にある公園などの樹々もいよいよ色づいて来ました。街はすっかり初冬の装いです。どうかお風邪など召さないよう、みなさんも気をつけて下さい。Smarcel

on entend des bonnes paroles について

2012年11月13日 | Weblog
 shoko さん、通りすがりの旅人さん、隠れファンさん、ご意見・ご質問ありがとうございます。
 shokoさんはここの微妙なニュアンスを正しく捉えられていると思います。ぼくもここには「表面上は」という留保を感じています。ただ、de belles paroles ではなく、de bonnes paroles なので、そうした意味を込めて「やさしい言葉」としました。
 そして、旅人さんが指摘された通り、標準文法ではここは、de bonnes parles となるはずです。そこをあえてdes bonnes paroles と書かれたのか、そうだとすれば de の場合とどういう差異が生じるのかは、ぼくにも不明です。