フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Daniel Sallenave <<Le Don des morts. Sur la litte'rature>> (3)

2011年07月27日 | Weblog
[注釈]

* (…) par quoi j'acce`de au sens, a`la compréhension.: quoi は、cette morte feinte, cette transmutation を受けています。つまり、自己の中心を空にし、小説の登場人物にこのいのちを仮託することによって、読者である「わたし」は、「意味に、理解に近づける」
* chacun porte une te^te multiple sur ses e'paules : 読書によって、多様な想念を秘めた数知れない頭をこの首に据え替える、ということでしょうか。

[試訳]

 登場人物によって今度は読者である私が、大いなる変容の国に近づくこととなる。登場人物によってこそ、私自身も想像上の存在となることを余儀なくされ、小説が世界の経験となる。小説を読みながら、私はこの身を預け、自分のことを忘れる。自分の身に引きつけ、我を忘れ、自分を赦す。登場人物に倣らい、なぞらえ、私は他者となる。アラゴンが歌っていたように。「存在するだけでは、人として物足りない。人であるためには、他者にならなければ。」(演劇/小説)
 登場人物を媒介にして他者となる。自分自身となるためにも、他者となる。自分自身を留守にして、自身を捨て去ることによって、自身の人生がなんであるかが理解できる。サルトルが読者の「寛容」と呼んでいたものは、このことである。このかりそめの死、ひとときの変容によって、私は意味に、理解に近づくことができる。
物語のおかげで、一人ひとりは幾千の人々の思いを抱くことができる。魂は開かれ、心は新たになる。
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 masayoさん、明子さん、Moze さん、それぞれ訳文ありがとうございました。難しいという声もありましたが、みなさんよく読めていました。試訳を参考にしてもらって、また疑問点などあればいつでもお尋ねください。
 さて、このテキストを読んで、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』のなかの有名な一節を思い出さずにはいられませんでした。こんな一節です。
<<Le seul ve'ritable voyage, le seul bain de Jouvence, ce ne serait pas d’aller vers de nouveaux paysages, mais d’avoir d’autres yeux, de voir l’univers avec les yeux d’un autre, de cent autres, de voir les cent univers que chacun d’eux voit, (...) et cela nous le pouvons avec un Elstir, avec un Vinteuil, avec leurs pareils, nous volons vraiment d’e'toiles en e'toiles. >>(La Prisonnie`re)
「唯一の本当の旅、唯一の青春の源泉、それは新しい景色を求めて旅立つことではない。それは、他の目を持つこと、他者の目、百人の他者の目で世界を見ること、そうした他者のひとり一人が見ている世界、あるいはそうした他者の一人ひとりでもある世界を見ることである。そうしたことが私たちには、ひとりのエルスチール、ひとりのヴァントゥーユ、彼らのようなものと共になら可能となる。私たちは、本当の意味で、星から星に飛んでゆけるのだ。」(『囚われの女』)
 エルスチール、ヴァントゥーユは、それぞれ画家と作曲家。主人公は二人の作品から創造行為の本質を学び取ってゆきます。
 また、坂口安吾の「作家論について」という小文も、これはおもに書き手の立場から綴られたものですが、作家である「僕」を読者に置き換えれば、そのままサルナーヴの議論につながります。
 「凡そ人間は、常に自分自身すら創作しうるほど無限定不可決な存在である。(…)我々は小説を書く前に自分を意識し限定すべきではなく、小説を書き終わって後に、自分を発見すべきである。(…)
 僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を作りたいために、要するに僕自身の表現に外ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつづけようと思っている。」(坂口安吾全集 14, ちくま文庫, p.320-321)
 それでは、これでしばらく夏休みとさせてください。ここのところは、大阪の大気もいくぶんクールダウンしていますが、お盆をすぎてから容赦のなくなった昨年の酷暑を思うと油断はできません。どうかみなさんもお身体には気をつけて、この夏をお過ごしください。9月を迎えたら新学年のテキストをお送りします。そのテキストの試訳は、9月14日(水)にお目にかけることにします。休み中にまた皆さんの近況報告などもお聞かせ下さい。
それから、宿題のテキストはこの週末までにはお届けしますね。それでは、Bonnes vacances, chers amis !
 Shuhei

Daniel Sallenave <<Le Don des morts. Sur la litte'rature>> (2)

2011年07月13日 | Weblog
 [注釈]

* issu de l'expe'rience imaginaire... : 厳密にいうと issu はle personnage を説明しているのですが、登場人物の出自である「二つの世界の間」の説明のように訳出しました。
* une proposition de sens a` achever : ここは登場人物の役割を語ったくだりですから、sens は、「意味」としました。というのも、読者の参加を待って、はじめて「完成されるべき」ものですから。
* c'est au lecteur d'agir. : c'est a`... de + inf. 「こんどは、……が…する番だ」書き手からバトンを手渡された読書の役割に、以後焦点が当てられています。ですから、la pense'e もそのことを意識して、具体的に訳出した方がいいでしょう。

 [試訳]
 
 文学という夢を見るには、虚構の事物よりなる想像的な現実を、たとえひとときではあっても、信じることに同意することが前提となる。ホメロスの「英雄」であれ、バルザックの登場人物であれ、あるいは肉体も性も持たず、ただ声だけの現代小説の登場人物であれ、彼らは「二つの世界の間」に存在している。すなわち、書き手の想像の、あるいは現実の体験から生まれた世界と、彼らの物語の「模倣的な」構成から生まれた世界との間である。そうした世界から、登場人物は、未完の意味の提示として読者の方にやってくる。この意味を完成されるために書き手自身が、虚構の存在、思考の人形(ひとがた)に変容しなければならなかった。つまり、語り手となる必要があった。そして語り手自身も、語りの対象に課する秩序において構成されるのであった。作者とは、ある意味、自身の小説の登場人物となった者のことであり、作者もまた「二つの世界の間」、すなわち、虚構の世界と、まだしばらくそこに属している現実の世界との間で生きはじめるのである。これに倣って、今度は読者がそこに身を流し込むこととなる。
 本を読む間に私たちをとらえる、虚実の狭間でのこうした往還こそが、劇的な、あるいは叙事的な物語の本質である。虚構は、すべてが物語創造のためであり、読者の幸福のためであり、小説世界が動くためのものである。なぜならここにこそ本質があるからだ。そこでバトンが手渡され、今度は読者が動き出す。頭の中は、小説のあれこれのこと、物語(情念)のことですでにいっぱいになっている。けれども、そうした表象を構成して初めて、私たちは自身の声をそこに聴き、「私たちの謎を明らかにする」ことを試み、希望することができるのだ。様々な原因を理解するとともに、理性のフィルターを通すことによって情念が鎮められる。
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みさよさん、明子さん、Mozeさん、厳しい暑さの中、訳文ありがとうございました。ぼくは先週から5時から30分ほど歩く朝の散歩を始めました。年ですね。授業がないときなどは、日差しを避けるあまり一日中部屋に閉じこもることにもなりそうなのです。それはなんだか悲しい図なので、朝の散歩を始めました。早朝5時の空が薄暗くなってしまうまでは続けるつもりでいます。みなさんも、なんとか酷暑の夏お元気でお暮らしください。
 さて、先週ここに名前を挙げた古東哲明氏の新刊『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)のお話をすることにします。
古東氏の名前を知ったのは、『<在る>ことの不思議』(勁草書房)というハイデガー論がきっかけでした。といって、ぼくはハイデガーという20世紀ドイツの大哲学者のなにを知っているわけでもありませんでした。ただ、氏の文章の魅力に惹かれ、その大哲学者の難解な思想に躓くことなく、楽しくページを繰っていました。
 でも、こんな一節は記憶に残りました。
-「今ここに在ること」の本質をとらえれば、幼くして命を失った子供の命も、その生きた年月の厚みにかかわらず、ただそれだけで十全に完結していると言える。
 こんな意味合いの一節でした。そうです。この一節をぼくはこの大震災に際して反芻していました。そんな折に、古東氏の新著が出たのでした。
「この瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」の秘密を、ハイデガーはもとより、山口誓子、手塚治虫、小椋桂、タモリが赤塚不二夫に宛てた追悼文まで引いて、意を尽くして説いた時間論です。実は、第三章は、「水中花 プルーストの瞬間復元法」と題されたプルースト論ともなっています。
 ぼくのお気に入りの富澤赤黄男の「蝶墜ちて大音響の結氷期」という涼しげな一句も楽しむことができます。機会があれば、手に取ってみてください。
 それでは、次回はサルナーヴの文章を最後まで読むことにしましょう。宿題を用意しますが、その後は夏休みとしましょう。7月27日に試訳をお目にかけます。


Daniel Sallenave <<Le Don des morts. Sur la litte'rature>> (1)

2011年07月02日 | Weblog
[注釈]

* les actions qu’organise la fable. : この action は、「筋立て」のことでしょう。試訳では、「物語」としました。
* des simulacres de mots : これは、le personnage の言い換えです。あとに la figure de papier とも表現されています。
* la vie me^me et l’a^me de l’auteur de se couler vivantes... : ここはみなさん正しく読まれていましたが、sont oblige’es を補って読みます。
* Et qui, (…), le sauve... : Et (la figure de papier) qui... sauve l’auteur と読めます。
* notre lecture hallucine’e : これは、croire a` l’existence d’un personnage を意味しています。
* Le personnage existe... d’une existence fictive. : 「虚構の存在によって…存在する」ということでしょうね。

[試訳]
 
 「他者になること」
 
 このことは何度繰り返してもかまわない。つまり、小説と登場人物のあいだには断つことのできないつながりがあるのだ。登場人物を軽んずることは、小説を損なうことにしかならないのではないか。カタルシスも登場人物がいなくては起こりえない。それは謎であるけれども、事実である。私たちには、投影が、転移が、同一化が必要なのだ。フィクションが作用するためには、私たちが登場人物の存在を信じていなくてはならない。虚構が構成する物語は、登場人物において集約されているからである。小説というテキストの働きそれ自体が登場人物を望んでいる。つまり、テキストの真実は言葉でできた幻影を経ねばならず、書き手の命そのものや魂も、書き手を表すページの上の人型に、生き生きと流れ込まなければならない。そして、その人型が同時に書き手を救うのである。
 そうすると、そんな私たちの幻影にまどわされた読み方は、登場人物の中に虚構の存在を見ることを忘れ、テキストの外でもその存在を信じることを強いることになるだろうか ? そうではない。登場人物はおそらく生きている。けれども、それがどんな命を生きているのか、私たちはまたよくわかっている。それは幻から生まれた命だ。ただそれだけのこと。登場人物は存在している。けれども、それはフィクションにおいて虚構の存在を生きているのだ。リア王が舞台の上で「生きている」のが、演劇的存在であるのと同じことだ。
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 今回は、試訳をお目にかけるのが遅くなってしまいました。ぼくのような、ITに疎いものは、パソコンのトラブルは本当にこたえます。状況の悪化や、不意のトラブルにも比較的冷静に対処できる方だと思うのですが、PC相手の場合は全く勝手が違うようです。結局あたらしいパソコンを買う羽目になりましたが、思い通り動かなくなったPCからの「データーの移行」とやらに、サポートの電話にかじり付きながら、仕事の空いた時間を利用しながらですが、3日ほどかかってしまいました。Ouf ! です。

 今回は実は古東哲明氏の新著を紹介するつもりだったのですが、これは次回に譲ることにします。

 日本と同じく、細菌による食品汚染や、入試問題の漏洩と、フランスでもあまり明るい話題がないのですが、ひとつ、喜ばしいできことがありました。France3という国営テレビ局のカメラマンと記者がアフガニスタンで取材中拉致され、1年7ヶ月拘束されたままだったのですが、その二人が今週半ば無事解放されました。
 海外で活動する援助団体職員やジャーナリストが長い間にわたって自由を奪われた後に、無事解放されるという出来事は、これまでにもフランスで幾度かありました。その度に思うのですが、身の危険に長期間耐え、解放された人々が記者会見などの場で口にするのは、家族、政府関係者、それからここに至るまで自分たちに声援を送ってくれた人々に対する感謝の言葉だけです。けっして私たちのように「ご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありませんでした」と、謝罪の言葉を口にすることはありません。今回解放された記者も、この経験を通じて <<mille fois motive’>> 「(ジャーナリストとして)ますます活躍する気持ちになった」と、毅然と答えていた言葉がとても印象的でした。
 日本の「世間様」というのは、人々を萎縮されるものなんだなあ、と、そんなことを改めて思いました。巷でますます濫用されている「…いただきます」という言葉は、コワイ世間からとにかく身を守るための痛ましい修辞なのでしょうか。スーパーで値引きされたお弁当を買った折にも、「お箸付けさせていただいてよろしいですか」なんて、聞かれます。本来なら、買い手のぼくが、「お箸付けていただけますか」と頼むべき場面だと思うのですが…。
 さて、次回は、par le filtre de la raison. までとしましょう。7/13(水)に試訳をお目にかけます。
 昨日今日は、大阪の暑さも一段落していますが、どうかみなさんもお身体には気をつけてください。Shuhei