フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

Emmanuel Todd <<Qui est Charlie ?>> (2)

2015年06月17日 | 外国語学習

[注釈]
* Après l'outrance de la démonstration, place à… : la démonstration は1月11日のデモ行進のことです。place à...「つぎは…の出番だ」という成句です。
* Tout la panoplie de la laïcité… y est sagement déclinée. : la panoplie とは、この後のDroit au blasphème以下の事柄を指しています。つまり、宗教というものに懐疑的な「ライシテ信者」が掲げるリベラルな主張です。その偽善をトッドが批判、論破している、ということではないでしょうか。
* comme <<une bonne chose>> : このニュアンスも、トッドの著作に当たってみないとなんとも言えません。まったく自信はありませんが、以下のように解釈しました。また他のご意見があれば聞かせてください。

[試訳]
 例えばカトリックの両親から生まれたフランソワ・オランドは、「ゾンビよろしく蘇ったカトリック教義を完全に体現しているように見える。」なるほど社会党は「主観的には」反人種主義ではあろうが、「客観的には外国人排斥集団である」とトッドは断言する。実際「社会党はフランス国民から移民の子供たちを排除している」のだから。要するに、あの日抗議の声を上げた人々の中核をなしていたマジョリティーの表現と行動には、完全な乖離があるということである。
 
 「新たなライシテ・ヒステリーと闘う」
 閑静な街の嫌イスラムから、打ち捨てられた郊外の反ユダヤ主義まで、この不平等な「新しい共和国」を構成する著名人の責任は重大だ。ではどうすればいいのか。それもひとつの宗教にすぎない「ライシテというあらたなヒステリー」と闘わなければならない。それがイスラムを犠牲の山羊にし、「マホメットを戯画化する義務」を説いているのだから。熱狂したデモ行進のあとには、終局としての教会一致会運動がやってくる。トッドが懸命に闘っている新共和国主義の構える「開かれたライシテ」という武器一式は、見事に矛先を逸らされている。冒涜の権利、国家によって保証されている表現の自由、移民の同化、イスラムの「積極的統合」…。多くの人にとって嫌イスラムの象徴とみなされている、学校におけるヴェールの禁止でさえトッドにとっては、逆説と矛盾を免れない「結構なこと」となるのである。トッドの数々の糾弾は、つまるところ共和主義の純粋な教理問答集へと向かう。さあそろそろ、著者が課した疑問に答えなければならない。「シャルリーとは誰なのか?」それはエマニュエル・トッドだ。彼自身はそのことを知らないだろうが。
……………………………………………………………………………………………..
 misayoさん、Mozeさん、shokoさん、訳文ありがとうございました。今回は、ところどころ難しかったですね。
 shokoさん、パリ便りありがとうございます。ぼくも昨夏、二週間足らずの滞在でしたが Mensuel を購入し、気にかかっていたパリ周辺の町をいくつか散策しました。歴史と伝統の街パリもいいですが、風と緑を満喫するなら、少しパリを逃れるのもいいものですね。ぼくはそういう周辺が好みです。
 さて次のテキストですが、今年生誕100年のRoland Barthes のテキストを読もうかと考えています。
 実は今高齢の縁者の具合が悪く、ちょっと先の予定が立ちません。申し訳ありませんが、あたらしいテキストはもうしばらくお待ちください。Shuhei


Emmanuel Todd <<Qui est Charlie ?>> (1)

2015年06月03日 | 外国語学習

[註]
*Lyon et ...Marseille : リヨンは「カトリックの古き土地」であるのに対して、地中海に面したマルセイユは、フランス本土の外から移り住んだ人々や、その二世・三世が多く暮らす都市として知られています。
*C'est cette <<oligarche de masse>>...qui s'est indignée, :この箇所は少し見通しづらいのですが、あの日抗議の声を上げたのはまた、以下のような人々ではなかったか、とトッドは批判の目を向けているわけです。

[試訳]
 「大衆による寡頭政治」
 この書物は、「シャルリー事件」以降の私たちの社会のイ デオロギー的、政治的権力メカニズムの理解に向けての促しであり、ライシテ教団において「自らを欺く」国民の「宗教的危機」を、理論的に、手厳しく分析したものである。街頭で抗議の声を上げた人々が、意識の上では、寛容のために行進をしたことを、もちろんトッドは否定しない。けれども多くの人を動かしたのは、「目に見えない価値」の現実のあり方ではなかった。あの日人々にとって重要であったのは、と著者は続ける。「まずなによりも社会の力、支配のひとつのあり方を確認することだった。」つまり、あの日人々を駆り立てたのは、「弱者が信じる宗教に唾する権利が何をおいても必要だ」と、通りに馳せ参じた、社会上層に位置する「白人種フランス」の現実であり、理論において明言しなくとも、その振る舞いにおいて、無意識において、不平等なフランスの現実であった。
 それというのも、「今日共和国を標榜する諸勢力は、その本質において共和的ではないのだから」と著者は説く。リヨンでの大規模な行進とマルセイユの慎ましやかなそれとの隔たりが明らかにするように、1月11日通りを埋め尽くしたのは、社会上層に位置するカトリックの古きフランスの住民たちだった。抗議の声を上げていたのは、恵まれない人々が社会的に隔離されても、若いイスラム教徒たちがあたかも流刑されるように郊外のゲットーに追いやられても痛痒を感じない、「こうした大衆による寡頭政治」であった、と著者は強調する。
 地理学に依拠しながら、人口統計学者の著者は主張する。カトリック教会の衰退にもかかわらず、生きながらえている「周辺のカトリック的サブカルチャー」が、それと気づかないままに、人々の行動を決定し、そして、不平等な「ネオ共和国」の到来をも促してもいると。その影響下で、ヨーロッパ単一通貨という「容赦のない神」が、キリスト教神学に取って代わってしまった。というのも、マーストリヒト条約は、フランス革命からではなく、カトリシスムより、またヴィシー政権より私たちにもたらされたものだからだ。社会党が右傾化してしまったのもまた、カトリック的サプカルチャーの影響による。
……………………………………………………………………………………………….
 masayoさん、shokoさん、mozeさん、訳文ありがとうございました。
 紹介されているトッドの主張は明快です。世界の耳目がフランスに集まったあの日、表現の自由の擁護をかがげて通りで抗議の声を上げたのは、謂わば「本流のフランス」であり、そうしたフランスの姿が、実は本来尊重されるべき「支流のフランス」を踏みつけにしていないか、といったことだと思います。でも、Le Monde掲載のこの書評は言葉使いは平明ではありませんね。次回はもう少しやさしく読めるのではないでしょうか。
 shokoさん、mozeさんがおっしゃる通り、またお時間の許す限りで、パリ便りを届けてください。楽しみにしています。どうかお元気でBelle saisonを楽しんでください。本邦は、いよいよ梅雨入りですね。
 それでは、次回はこの文章の最後 il ne le savait pas. までを読むことにします。17日(水)にいつものように試訳をお目にかけます。Shuhei