フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

フランス発のFukishima 報道についての補足

2011年03月25日 | Weblog
 先日、福島県海岸部で起きた原発事故についてのこの間のフランス発の報道についての違和感を書きました。その違和感のひとつは、「過敏過ぎるのではないか」というものでした。
 ですが、ひょっとしたら、フランスは、日本政府および日本の大マスコミとは別の情報ソースをもっていて、そこから私たちよりも的確な状況把握をしているのかもしれない、と今は考えています。フランスの移民問題などを研究している後輩のT君から様々な情報を提供してもらって、一部考えを改めなければならない、と思いはじめています。
 これも、T君から教えてもらったのですが、大震災が起きた翌日、それもあのチェルノブイリから帰国して間もないフリー・ジャーナリストの豊田直己さんが福島の現地に入った時の報告です。
 http://blogs.yahoo.co.jp/erath_water/62643598.html
 それから、週刊朝日の今週号に、長年原発問題を告発しつづけている広瀬隆さんが「放射能本当に怖い話」という一文を寄せています。是非参考にして下さい。
 Shuhei

ジョン・バーガー「モネ、彼方の画家」(3)

2011年03月23日 | Weblog
 [注釈]
 
 * Sauf que ...et, qu'une fois peint,… : 筆者はモネの描いている l'air は、スピノザの思念する une pense'e を思わせると言うのですが、ただふたつのものには違いもあって、それがそれぞれ que以下だということです。
 * Le flux n'est plus temporel, mais substantiel et extensif. : ここは、前回扱った est-ce que le flux du temps ? Je ne le pense pas. からの展開です。
 ちょっとここで『エチカ』の一文を引いておきます。
「第一部 神について 定義 
 六 神ということでわたしが解るのは、無条件に無限な存在者、つまり無限に多くの属性でなっている実体であり、その属性の一つ一つが永遠でかつ無限な本質のあり方を表現する。」(佐藤一郎編訳『スピノザ エチカ抄』みすず書房)
 つまり、バーガーは、モネの描く「流れ」=「大気」を、スピノザの考える「神」あるいは「自然」ではないか、と言うわけです。
 
 [試訳]
 
 フェルメールは、オランダの哲学者スピノザとまさに同時代人であった。二人はともに光学レンズに関心を持ち、またおそらくは出会っていただろう。ただいかなる証拠もないけれども。スピノザ哲学の基本命題のひとつは、実体は不可分であり、すべては、その延長が無限である同じ実体の一部である、というものだ。第二命題は、スピノザが「思考実体」と呼ぶものと「延長実体」とは、唯一の同一のものであるとする。
 簡潔に表現されながらも刺激的なこうした命題に留意して、ふたたびモネに立ち戻ってみよう。すべてのものを包み込む大気は、連続性と無限の延長を示している。もしモネが大気を描くことに成功したのならば、あたかも思考を追うように、彼は大気を跡づけることができるはずだ。ただ、大気は言葉を発することなく漂い、一度描かれても、それは色彩や、タッチ、描き重ねられた絵の具の厚み、影、なぞられた跡、かすかな傷といったものにおいて目に見えるだけである。画家が大気の描出に迫るにしたがって、今度は大気の方が、画家と彼の元のテーマを彼方へと連れてゆく。モネの「流れ」とは、今や時間的なものではなく、どこまでも広がる実体的なものである。
 それでは、大気は画家とテーマをどこへ連れてゆくのであろうか。それは、大気が包み込んでいたもの、これから包み込むものとは別のなにかに向けてであろう。ただ、それに対して私たちはこれといった名を持ち合わせていない。それを抽象的に名指してみても、それは私たちの無知をさらすことにしかならないだろう。
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 こちら、関西では大震災の影響は大変軽微なものです。非常に限られた物品などは品薄状態が続いている、と耳にする程度です。
 ウィルさん、ご丁寧にご連絡ありがとうございます。どうかお疲れが出ませんように、気をつけて下さい。
 バーガーの文章を読み終わったら、今回の東北関東大震災を報じるフランスの論説記事を扱うつもりでいます。大地震・津波が起きた直後の報道は、フランス発のものも大変同情的というか、激励の気持ちに満ちたものでした。ただ、Fukushima原発事故に焦点が移ると、その全体的なトーンは変化しました。
 たとえば、先週半ば過ぎには早々と「死者3万人」という数字を上げたり、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』とかけて、フクシマには「世界の終わり」が象徴されている、といった、とある文芸評論家の論評が発表されたり。また、大震災後北京から東京に呼び寄せたアラン・シャルロンというフランス・テレビジョンの有名特派員を早々にOsaka に避難させ、そこから今でも日本レポートをさせています。
 村上龍は日本というアウェイで活躍する外国人の避難騒ぎに理解を示していましたが、ぼくは今回のフランスの姿勢には少し違和感を感じています。まあ、放射線の危険に身を晒してまで出張先で仕事などできません、というのは非常にフランス的ではあるのですが…。
 十五年の時を隔てて阪神淡路と今回の大震災を経験した日本社会は、今後やはり変わらざるをえないでしょうね。被災地域に最大限の支援を緊急に行いながらも、それと同時に、今度こそ、この社会の帰し方行く末をしっかり見つめ直さなければならないと思います。
 そのためにも、大変示唆に満ちた本を紹介します。小熊英二『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』(毎日新聞社)
 小熊英二は、ご存知の方も多いと思いますが、ここ十年あまりのあいだに、つぎつぎと量・質ともに重要な著作を世に問うている社会学者・思想史家です。小熊からぼくがもっとも教えられることは、今の日本社会の移り行きを、明治の近代化以降100年以上のスパンで、統計と言説の精密な分析を通して見つめることです。今目の前で、ある風潮が支配的であり、あたかもそれが不変の真実のように思えても、それは世界の経済社会に組み込まれた、日本という社会の構造に起因する一時的、相対的なものであることが、小熊の著作を通して明らかにされます。
 同書に収録されているインタヴュー「"つながりの喪失" "経済中心"を超える」の一部を紹介しておきます。ニートということばに象徴されるように、2000年代以降大きくなった若者批判の声に、小熊はこう答えています。

 -- 「大人たち」の規範は、高度成長からバブル崩壊までの三十年あまりの間にできたものにすぎません。日本で求人倍率が一倍を超え、終身雇用が広がったのは、六十年代以降です。(…)いまの「大人たち」はそういう特殊な三十年しか生きた経験がないから、それが「あたりまえ」だと思っているかもしれません。(…)右に述べた規範を内面化している若者は、(…)就職がうまくいかなかったりすると「自分はクズなんだ」と思い込んで悩んでしまう。しかしそれは、ある特定の社会の、ある特定の時代にできた規範からちょっとはずれているというにすぎません。
 
 同書にはこういったインタヴューなどが多く収録されていて、大変読みやすいものとなっています。小熊社会学入門としてもお薦めです。
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 それでは、「モネ論」次回(4/6まで)は最後まで読み通しましょう。
 Shuhei

ジョーン・バーガー「モネ、彼方の画家」(2)

2011年03月09日 | Weblog

 [注釈]
 
 * lorsqu'il re'alisa soudain, alors qu'il la peignait,…: ここは、友人に打ち明けずにはいられなかったモネの「苦しみと衝撃」が何であったのを明らかにしなければなりません。il re'alisa soudain, alors que...、息絶えた妻の姿を「研究」し、「克明に書き留めていた」。そのことの突然の自覚が、モネの「苦しみと衝撃」でした。ですから、自分は本能のままに行動する la be^te だ、と言うのです。また、だからこそ一度「筆を置く」と、自分がさっきまで何をしていたのか、何を描いていたのか、わからなくなるのです。
 ただ、ぼくも、la bete qui toune sa meule この表現が一般的な慣用句なのか、どうなのかは突き止められませんでした。
 * dans la vie courante : langue courante 「普段の言葉」, un usage courant 「一般的な用法」ですから、la vie courante は、「普段の生活」のことです。
 * Leurs me'thodes pictuales ne sauraient e^tre plus diffe'rentes : savoir の条件法+inf. で、「…できる」。とくに、否定表現でよく使われます。ex. On ne saurait trop le souligner. 「そのことはどれだけ強調してもいい」, On ne saurait mieux dire. 「上手いこと言いますね」

 [試訳]
 
 モネのすべての絵画は流れに関わっている。けれども、印象主義の原理が想像させるように、それは時間の流れのことだろうか。私はそうは思わない。
 死の床にあるカミーユを描いてからしばらくして、モネは、妻を描きながら突然つぎのことに気づいた時の痛みと衝撃を友人のクレマンソーに語っている。その時自分はまさに、妻の血の気の失った顔を観察し、死がもたらした色やトーンの変化を克明に書き留めていたのだ。まるで普段の生活においてちょっとした事柄に目をとめるように。モネはこんな言葉でその手紙を締めくくっている。「これではまるでひき臼を無心にひいている獣のようだ。ぼくを哀れんでくれ、友よ。」
 モネが苦しくてならなかったのは、一度筆を置いてしまうと、自分が一体何をしようとしていたのか、キャンバスに走らせていた筆が自分をどこに導こうとしていたのか、わからなくなってしまうことだった。
 ある日モネは語っている。自分は事物そのものを描こうとしているのではなく、事物に触れている大気を、事物を包み込む大気を描きたいのだと。もう一人のヨーロッパの画家が似たようなことを企てていた。フェルメールだ。
 二人の画家の方法はこれ以上ないほど違うものではあろう。けれども、夢見ていたものはおそらく同じである。題材がそこに沈み込んでいるそのものを画布の上で捕らえること、題材を包み込んでいる、あるいは抱きしめている透明な大気のようなものを表現することである。
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 shoko さん、工藤・山田両先生の対談、楽しみですね。ぼくも住まいが首都圏だったら、是非参加したい催し物です。ちょっとわくわくするような顔合わせではないですか。後日、対談の内容が雑誌などで活字になることを切望しています。
 ウィルさん、「ふらんす」誌上で『失われた時を求めて』の対訳講座始まること、知りませんでした。ぼくは、どうしたわけか「ふらんす」の熱心な読者にはなれないのです。知りあいの同僚が連載を担当していたこともありますし、いろいろ教わることも多い、伝統ある雑誌なのに、年に何度か義務感に駆られて手にすることがある程度なのです。一体どうしてでしょう…。
 テキストの録音ですが、ぼくは、恥ずかしながら、専門的な発音矯正を受けたことがありません。留学中、親しくなったフランス人から、shuhei は、mais の「エ」のあとが伸びる癖があるね、とか、r は、もうすこし軽い発音の方がいいよ、などの指摘を受けたことがある程度です。ですから、アナウンサーや俳優といった言葉のプロに聞かせたら、きっと顔をしかめられる代物だと思います。その点、ご了承下さい。
 そろそろ、スギ花粉の飛散の最盛期なのでしょうか。今年は症状が少し軽くて済みそうだと高をくくっていた花粉症に、やはり身体が不調を訴えはじめました。目のかゆみから始まって、鼻水。それからどことなく頭・身体の「切れ」が、いつにもまして鈍くなって来ました。どうにかやり過ごすしかありませんね。どうか花粉症の方はお大事になさって下さい。
 それでは、次回は ignorance de notre part. までとしましょう。
 Bonne lecture ! Shuhei
 
 p.s. ごくたまにですが、下記で murmurer しています。お暇なら、のぞいてみて下さい。
  http://twitter.com/#!/hioki

フランス語読解教室 III

2011年03月05日 | Weblog
 Chers amis,
テキストの音声化を以下のブログ上で試してみました。ここ goo ブログとくらべての使い勝手がどうなのかは気になるところです。またみなさんのご意見を聞かせて下さい。
 http://16339209.at.webry.info/
 当分の間は、フランス語読解教室 II と III を平行して運営します。もう少し工夫を重ねて、ネイティブの方による朗読もいずれ実現したいと考えています。
 fevrier さん、ご意見ありがとうございます。また技術面でいろいろ教えていただければ助かります。これからも、よろしくお願いします。
 Shuei