いつものことですが、ここのところもかなり多忙だったので、なかなか記事を書くことができませんでした。
相当な数いてくださる愛読者・受講生のみなさん、お待たせしました。
ようやく少しずつ書く時間がとれるようになってきましたので、昨日は、柳沢大臣の「産む機械」という発言について、あえて厳しいことを書いておきました。
柳沢氏に、個人的・意識な悪意があったとは思いませんし、また私も彼に対して個人的な悪意はまったくありませんし、ブログでの発言が彼の耳に届くとは思えませんが、相当多数の日本の男性のいわば集合的無意識の中に潜んでいる偏見でもあるので、はっきり指摘しておく必要があると思ったのです。
それはともかく、今日もまたこれから講座に出かけます。フランクル『死と愛』の学びです。
講義の準備のために読み直していて、とても心に響く言葉がありましたので、引用・紹介させていただいてから、出かけることにしました。
「…人間は形のない石にノミとツチとで細工し、素材が次第に形をなしていくようにする彫刻家に似ている…。つまり、人間は運命が自分に与える素材に加工する。ある時は創造しながら、ある場合は体験しならが、あるいは苦悩しながら、彼は自分の生命から、創造価値であれ体験価値であれ、あるいは態度価値であれ、できるかぎりさまざまな価値を「刻み出そう」とするのだ。」(フランクル『死と愛』より、拙訳)
自分を、重くて硬い石から美しい作品を刻みだそうとしている彫刻家のようなものと捉えると、人生で出会うどんな重くて厳しい状況に対しても、くじけることなく立ち向かうことができるでしょう。
厳しい状況・運命も、美しい人生を刻み出すための重くて硬くて扱いづらい、しかし貴重で不可欠な素材として捉え直すことができるのです。
もちろん刻み出すためには、長い苦しい労働の時間が必要です。
途中であきらめて、放り出したくなることもあるでしょう。
しかし、作品を創らなければ芸術家であることはできません。
運命に耐えてよく生きるのでなければ、いい・美しい人生を生きることはできません。
のんびりと、楽で楽しい人生は、必ずではないにしてもしばしば、だらけた美しくないものになりがちです。
厳しい運命に出会った時、なぜもっと楽な人生が与えられなかったのかと不平不満をいうことも、ましてあきらめたり挫折したり絶望することも、まったく役に立ちません。誰のためにもなりません。
運命という素材に立ち向ってそこからすばらしい人生という作品を生み出そうと決心する芸術家のような態度だけが有効なのではないでしょうか。
……といっても、私もなかなか完璧にはいきませんが、なるべくこういう姿勢で生きたいですね、という話をする予定です。
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