震災によせて:より大きな長い喪に服すことと働くこと

2011年03月15日 | 持続可能な社会

 1月に同居していた妻の母が亡くなった後、先日、四十九日と納骨も終わり、これを機にと、前から考えていた祭壇(仏教的にいえば仏壇)を買って、すでに亡くなっている私の父母や妻の父、兄二人も一緒に遺影を飾りました。

 家の中にこうした仏壇的スペースができて、なにかとても気持ちが落ち着いたと感じていたのは、アーラヤ識に日本人の心が薫習されているからでしょう。

 私は、宗教的には特定の宗教・宗派には所属しておらず、あえて言えば「神仏基習合」という立場を取っているのですが、妻の実家は曹洞宗の檀家なので、葬儀以降、慣習どおりの仏教的行事に参加していて、こうした一連の行事が臨床心理学的に言えば「グリーフ・ワーク(悲しみを受容していくプロセスに必要な心の作業)」として深い意味を持っていたことを、改めて実感しています。

 四十九日が終わり、次は初彼岸、もうすぐ春が来るな……と、喪失感が少しずつ薄らいでいき、これからますます気を取り直して働かなくては、と思っていたところに、今回の大地震でした。

 幸いごく身近には被災者は出ていませんが、報道を見ていると本当に心が痛みます。多くの方が亡くなられたこと、改めて心から哀悼の意を表します。

 ふだんまわりの方々には、「死は自然に還ることで、とても自然なことです。自分自身もやがて同じところに還るのですから、ある意味で再会できるのです。悲しいのも涙が出るのもそれも自然ですが、ぜひ悲しみすぎないようにしましょう」と語っているのですが、しかし今そんなことをいっても、突然の悲惨なかたちの別れはとても言葉にできないほどつらいことと、みなさんの悲しみは推察するにあまりがあります。

 私にできることは何かと考えながら、これから、自分個人のことを超えた大きな長い喪に服すことと働くことの時期を続けていくことを何度も心に言い聞かせています。

 大学生の頃だったらすぐにでもボランティアに駆けつけるところですが、残念ながら今行っても体力的・能力的に足手まといになるばかりでお役には立てそうもありません。せめても、一刻も早い救助と、一日も早い復興をお祈りするばかりです。

 それにしても、思いもかけない形で突然、国家的危機がやってきてしまいました。環境問題というかたちで、もう少しじわじわとしかし確実にやってくることは予想していましたし、だからこそ「持続可能な国づくり」の提言もし続けていたのですが。

 進行中の福島原発の事故、なんとかチェルノブイリのような大規模な放射能汚染に至らないで収まることを祈るばかりです。

 これが、原発依存の日本のエネルギー体系と原発を必要とするエネルギー浪費型の経済システムを根本的に見直すきっかけになるといいのですが。亡くなられた方の死をムダにしないためには、それしかないのではないでしょうか。

 被災者の救済が一段落したら――それもまだ一段落もしそうにありませんが――長い復興のプロセスが始まりますが、そのプロセスを正しく方向づけるためにも、今『サングラハ』誌に連載している「『十七条憲法』と緑の福祉国家」は重要だと思いながら続きを書いています(その趣旨の大部分はすでにブログにも掲載していますが)。

 その他にせめてもと、今日、市で行なっている義捐金の募金に行ってきました。これは1回だけで済ませることなく、今後持続的に少しずつでも募金をしていこうと思っています。

 かつて、何度も国難を乗り切ってきた日本人には、今回もきっと乗り切れる! みんなで協力社会を創りあげれば、きっとできる! と信じています。
コメント (4)
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