今夜から「維摩経」の学び再開

2011年09月20日 | 仏教・宗教

 サングラハ教育・心理研究所の講座の夏休みも終わりで、今夜から再開です。

 『維摩経』の講義シリーズの続きなのですが、再開に際して、聖徳太子のものと伝えられる『維摩経義疏』の序文の冒頭のことばを思い出して、読み返しました(以下は私訳)。


 維摩詰は、すでに覚りに達した偉大な聖者で、その本質について言えば、すでに真如と一つなのだが、現象面の現われについて言えば、いろいろな姿を示し、人々の姿と等しくなっている。徳は多くの聖者の上にあり、道はふつうの人間(凡夫)が考えるような境地を超えている。現象の働きに関しては、「無為」を事とし、形に関しては、「無相」を相としているのだから、どうして、彼の名や相を示すことができるだろう。国家の事業を煩いと感じつつも、偉大なあわれみの心(大悲)が息まないので、人々に益することを志としている。


 「国家の事業を煩いと感じつつも、偉大なあわれみの心(大悲)が息まないので、人々に益することを志としている」という箇所、聖徳太子自身の気持ちを重ねていると感じられます。

 太子も、国家の事業・政治は実に厄介だと感じておられたのでしょう。

 しかし、菩薩は慈悲の心が自然に湧いてくるので、人々のことを放っておけません。何とか幸せにしてやりたいと思うので、あえて苦労を引き受けざるをえないのです。

 菩薩は、慈悲ゆえにあえて政治に関わらざるをえない(ほんとうにめんどうなのだが)、というのが太子の心境だったのではないか、と私は読んでいます。

 仏教には、社会・日常の苦労を離れてすがすがしい気持ちになるという方向と、あえて社会・日常の苦労を引き受けるという方向があると思われます。

 講義では、二つの方向をバランスよく学んでいきたいと思っています。