家の近所に滝宮天満宮があって、一昨昨日、梅が1,2輪ほころびはじめていた。
高松の栗林公園の梅よりは何日か開花が遅く、ようやくという感じである。
うまく撮れたつもりの写真がぼけていたので、取り直そうと思って、今日また行って見ると、もう何輪も開いていた。
今日はぽかぽかと暖かかった。
三寒四温で、足踏みをしながらも春が近づいている。
毎年、この季節になると道元禅師の言葉を思い出す。
老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。(『正法眼蔵』「梅華巻」)
(ろうばいじゅのたちまちかいかのとき、かかいせかいきなり。かかいせかいきのじせつ、すなはちしゅんとうなり。)
(私訳:老いた梅の樹がたちまち華ひらくとき、「華開いて世界が起る」のである。「華開いて世界起る」という時節が、すなわち春の到来ということなのである。)
老いた梅の樹と花と宇宙・世界とは一体であるから、花が咲くということはそこで宇宙・世界が生起するということでもある。花が咲いて世界が生起する時というのが、すなわち春の到来ということなのである。
宇宙と一体であるから、そもそも梅の樹は宇宙と同じ年齢であり(現代宇宙論で言えば138億歳)、つまりきわめて老いている。
しかし、その老いた梅の樹‐宇宙は常に新たな現象を創発するのであり、花は宇宙の創発であり、花がひらくのはそこで宇宙が花しているということである。
宇宙が花しているという季節こそ春の到来であり、それは如来― 一如の世界からやって来たもの―でもある。
家に帰ってきてから、寒さの中でももう伸び始めている庭の草を取った。もちろん、草も宇宙がそこで草しているのであり、私という小宇宙がそこで草という小宇宙に働きかけたということにほかならない。



そんな講釈はともかくとして、のどかな一日が暮れようとしている。「日日是好日(にちにちこれこうにち)」。
