真理を維持できる人:唯識のことば9

2017年02月01日 | 仏教・宗教

 どのような存在を「習気」(じっけ、残存影響力)と名づけるのか。この「習気」という名前は、どのような意味を表わそうとしているのか。

 この存在は、それ(識)と対応して、共に発生し、共に消滅し、後に変化してそれが発生する原因となる。……

 もし、多く〔真理を〕聞く人であれば、多く聞いた習気がある。

 聞いたことをくり返し思うということが、心と共に生滅する。

 それが、くり返し発生すると、心の明らかな了解の発生する原因となる。

 これによって熏習(くんじゅう)は、堅固さと定着性を得ることができる。

 それ故に、こうした人を、真理を維持することができる〔人〕と説く。 

                         (『摂大乗論現代語訳』より)


 唯識やコスモロジーを学ぶ人――筆者も含め――がほとんど例外なく体験するのは、最初学んだ時は新鮮な感激と納得があったのに、しばらくすると飽きてきて他のことに気が散ったり(散乱)、せっかく学んだことを忘れてしまって(失念)、また腹が立ったり(忿)、落ち込んだり(惛沈)、忙しくてそれどころではないという気分になって禅定をさぼったり(懈怠)……元の煩悩だらけの状態に後戻りすること(退行)です。

 ここで大切なのは、例えば腹を立ててしまった自分に腹を立てるとか、落ち込んだことに落ち込むという、煩悩の二重塗りをして、「おれってダメだな」と自己嫌悪に陥ったりしないことです。自己嫌悪と反省(慚・愧)は似て非なるものですから。

 内的反省(慚)とは、筆者の理解では、「自分にはアーラヤ識という覚りの根拠が確実にあるにもかかわらず、今回はそれを生かせなかったな。それは自分にとってとても損なことだった。次回はきっと生かそう。生かせるに決まっている」という気づきと決心です。

 対他的反省(愧)とは、「せっかくいいつながりのチャンスが与えられているのに、あの人との関係ではそれが生かせなかった、どころか壊してしまった。あの人にも私にも損をさせてしまった。残念だった。これからは、つながりのチャンスを逃さないようにしよう」という気づきと決心です。

 煩悩が起こってしまった後で、こうした反省ができるには、唯識の学びがしっかりと心の奥底に熏習されていて、必要な時に自然に思い出されるようになっていなければなりません。

 そうなるためのキーワードが「多聞(たもん)」と「習気(じっけ)」と「熏習(くんじゅう)」です。

 繰り返し聞き、繰り返し読み、繰り返しそのことを考える、つまり意識します。

 それから別のことに意識が移ると、それは意識からは消えますが、無くなるのではく、その「習気」は心のもっとも深いところ・アーラヤ識に熏習されていきます。

 そうすると人生で重要なことについてのしっかりとした理解が確立・定着していきます。

 必要な時にいつでも学びを思い出せる、というか学びが心に浮かんでくるようになった人が、「真理を維持することができる人」と呼ばれます。

 そういう真理を維持できる人になりましょう。それは、他人のためである前に、まず自分が気持ちよく生きるため、自分の心をさわやか(軽安)にするためです。