コスモスが見ている夢:唯識のことば24

2017年02月23日 | 仏教・宗教


 「人生は夢」という感じ方は、日本の古典的な美意識のかたちの一つです。

 それは、いわゆる「無常感」のよりイメージ的な表現だと言ってもいいでしょう(拙著『能と唯識』青土社、参照)。

 そして無常感は、『方丈記』や『平家物語』、『徒然草』、『新古今和歌集』、西行などなど、特に中世の古典に共通した特徴です。

 筆者は、そうした日本の古典文学がとても好きだった(今でもかなり好きな)のですが、唯識とトランスパーソナル心理学を並行して学ぶことによって、人生への基本感覚がそうとう変わってきました。

 こうした無常感的な美意識には、言うまでもなく仏教の影響が大きいのですが、しかしそれは日本的に変容した仏教だということがわかってきたからです。

 これまでにいろいろなところでお話ししてきたように、大乗仏教はそういう無常感的な理解と違って、いわば「根源的な絶対肯定の思想」です。

 「すべてのものは、無常であり、過ぎ去っていくもので、はかなく悲しい。しかしはかなく悲しいからこそ、美しい」というかなり現世否定的な美意識は、悪くはありませんが、しかし本来の大乗仏教の思想とはかなり異なっているようです。


 譬えると夢などのようなものである。

 夢の中ではさまざまな外界はなく、ひたすら心の働きのみであるのに、種々の色・形、音、香り、味、感触、家や林、土地や山などのいろいろな外的対象が実際のように現象するが、そのなかの一つも外的対象として実際にあるものはない。

                  (『摂大乗論現代語訳』より)


 大乗仏教の無常観(無常感ではなく)からは、「すべてのものは、ダイナミックに動いていてとどまるところのないコスモスの働きの部分であり、いわばコスモスのきらめきであり、現象としては有限だが、コスモスそのものは永遠であり、だから現われることだけではなく消えることも根源的にいいことであり、そのままで美しい」といった美意識が生まれてくると思われます。

 引用したテキストを、そういう美意識の現われとして読み直してみると、こんなふうになるでしょう。

 今私たちが見る美しい花の色やかたち、小鳥の声、風や海の波やせせらぎの音、森の中のすがすがしい香り、実る果物の味、土や木の肌の手触り、懐かしい家のたたずまい、風の透きとおる雑木林、のどかに広がる土地、ゆったりと横たわっている山々などは、みなコスモスの現われであり、区別できるそれぞれのかたちはもっているが、でもほんとうは一つであり、見ている私とも一体である。

 それは、私と分離して私と無関係に向こう側に冷たく客観的に存在している「外的対象」ではなく、すべては私自身でもあるコスモスの心の内面の働きであり、あるがままで美しい。

 見られている物も見ている者も、実はどちらもコスモスが見ている美しい夢なのだ……と。