大乗と小乗の違いについて述べた個所で、実行しがたい行をあえて実行するのが大乗の菩薩にしかない特徴だといいます。
前回、第一の「自ら受容するという難行」について述べました。
自分に覚りを開く潜在力があるということを認めるのは、実は大変なことです。
認めたとたんに、その潜在力を開発する努力を自分で自分に課さなければならなくなるからです。
そのことを心のどこかで感じているので、多くの人が「私には覚りなんて、とてもとても」とか、「凡人ですから」とか言うことによって、その努力・苦労から逃げようとしているのかもしれません。
楽なほうがいいと思うわけです。
しかしいくら逃げて楽をしようとしても、私のいるところ、そこには私のアーラヤ識があります。
つまり、そのままで煩悩に苦しむ可能性と努力しだいで覚れる可能性の両方を秘めた、心のもっとも深い領域が、自分の中にあるのです。
ですから、逃げることは自分のもっとも深い心を裏切ることになると言えるかもしれません。
自分の潜在力はまさに、自分のものであり、そしてまだ潜在しているものです。それを開発しないということは、今の自分よりも高次な自分を未発達のまま埋もれさせ、腐らせ、なくしてしまうことであり、可能性としての自分の自殺行為です。
そういうことをしておいて、心理的に「くさる」とか「くさくさする」、「つまらない」、「空しい」と言っても、それは誰の責任でもありません。自分でそうしているのです。
それは、今の自分に楽をさせることは、未来のより高次の自分が生きる歓喜を実感することを妨げているのだ、としっかり理解していないからです。
あるいは目先、短期の心理的利益のために、長期の精神的・霊性的な利益を、無自覚に放棄しているのだと言ってもいいでしょう。
私にはアーラヤ識がある、だから覚る潜在力が与えられている、だからたとえ困難でもそれを開発するための行をするほかない、と自らの本質を受け容れるのは、決して易しいことではありません。
誰でもできるというものでも、しなければならないというものでもないのでしょう。
秋、無数に落ちた木の実のうち、春芽生え、伸び、やがて時を経て、親木とおなじくらい、あるいはもっと高く聳えていくのは、ごく少数であり、それは自然なことです。
同じく、人間・凡夫と生まれてアーラヤ識を与えられていても、覚ろうと努力しないまま、覚らないまま一生を終える人が多いのも、ある意味では自然なこととも言えます。
しかしそれは人間の場合、木の実と違って成り行きまかせという意味の「自然」ではなく、自分の「自由な選択」です。
ところが、私たちの「自由な」選択は実はしばしばその時だけの気まぐれな選択だったりして、いちおう始めても続かないことがあります。
心による学の違いをどのように知るべきであろうか。……
十種の実行しがたい行を包括しているからである。……
第二は撤退しないという難行である。生死のさまざまな苦があっても撤退しないからである。
(摂大乗論第七章より)
人生でさまざまな苦しみに出会っても、修行をやめない、撤退しないというのは、確かにそうとうな難行です。
しかし、それはまず誰のためでもなく、自分の限りなく高い可能性を現実化するための難行で、そういう「自分のための難行」を自覚的に選んでしかも決して撤退しない人を菩薩という、と『摂大乗論』は言っています。