今日はこれから「坐禅入門」の講座に行ってきます。
「坐禅は安楽の法門」と呼ばれるように、坐禅すると心が安らかに、楽になります。
よく誤解している方がありますが、坐禅は苦行ではないのです。
自分を苦しめて鍛えるというより、心を余計な分別から解放し、安楽にし、浄化して、爽やかに生きられるようになるために、坐禅をするのです。
「ために」というと、「それはちがう!」というDogenismの方もおられるかもしれませんが、そういう場合は、「坐禅儀」をお読みください。
「安楽」どころか、「大安楽の法門」と書いてあります。
初歩の段階では、「大安楽」になりたくて坐禅をする、ということでいいのではないでしょうか。
実際、習熟してくると、坐禅するたびに爽やかな気持ちになれます。
また次の機会に、みなさん、やってみませんか。
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おもしろいです(笑)
こういう表面的な勘違いをするから、彼らは坐らないのです。
私も気をつけなきゃ・・・
では、夜からの方、よろしくお願いします。
Dogenismってなんだろう?と思いましたが、二度目に読んだ時わかりました。「道元ism」ということですね。
人類の平和のためという意味からすると、イスラームやキリスト教だけでなく、たとえ Buddhism であろうと Dogenism であろうと、原理主義はもう有害無益だと思います。
伝統を尊重し現代に活かすことと、伝統を絶対視しそれにこだわることは、まるで別のことではないでしょうか。
英語圏の人と話す時、「仏教」の意味で Buddhism という言葉を使いますが、この言葉自体が悪いわけではないのですよね。原理主義に凝り固まるのがいけないのであって。
してみると、「私は道元主義で行く」という人もあっていいのであり、その人が道元主義以外は認めないというのが原理主義でありいけないのだ、ということなのですよね。
ただ、ism はあまりにもしばしば「私は主にこういう考え方で行きたい」という意味での主義にとどまらず、「私の信じていることは唯一絶対に正しい」という原理主義になりがちなので、そこをよほど注意しないと危険だと思うのです。