四諦・4つの聖なる真理の第二段階は「集諦(じったい)」です。
譬えると、病気を直すには、はっきり自分が病気だと自覚しなければなりませんね。
そうして診断を受けて、病気の原因がわかれば、治療の対策もできるわけです。
そして原因をなくしてしまう根本的な治療をすれば、病気は治ります。
医者が、診断をして病気だということを知らせるのは、病人を絶望させ暗い気分におとしいれるためではありません。
治療すれば病気が治るという、希望を与えるためです。
ブッダが「苦諦」を説いたのは、そういう治療に先立つ診断に譬えられるでしょう。
苦しみの原因を明らかにするのが、「十二縁起」の逆観で、遡って原因を探っていくと、特に「執着(取)」→「渇愛(愛)」→「無明」が「苦」の原因であることをブッダは解明したのです。
このことから逆にはっきりするのは、「苦」という言葉は一般的な意味での「苦痛」とか「苦しみ」ということではないということです。
私たちが何かに執着・愛着していて、それを失った時に感じるのは、単に生理的な「苦しみ」というより、それがあってはならない「不条理」だと感じるという心理的・精神的苦しみです。
それは実際上もはっきりしていることですが、覚りをひらいた人でも例えば怪我をすれば痛みを感じますし、毒を飲めば苦しいのです。
覚ることによってなくなるのは、そういう生理的苦しみではなく、生まれてきたことへの不条理感、せっかく生まれてきたのに老いたり病んだりし、結局は死ななければならないことへの不条理感という、そういう精神的な意味での深い深い苦しみなのです。
私は、「苦」をそういうふうに解釈した時、ブッダの教えがきわめて合理的・説得的・普遍的であることがわかった気がしました。
私たちが、望んだわけでもないのに生まれたこと、望んでいないのに老いたり病んだりすること、そしていちばん望まないことなのに死ななければならないことを、自分の「望み(という名の愛着・執着)」を離れて、ごく自然なことと受け容れることができたら、不条理感という精神的苦痛はすっきりとなくなってしまうでしょう。
というとここで、「愛着・執着を離れるなんてことができるんだろうか?」という疑問が生まれるでしょう。
また、「愛着・執着がなくなってしまったら、人生が面白くないんじゃないか? 人間味がなくなるんじゃないか?」といった疑問も出てくるかもしれません。
どうしてかについては、徐々にお話していくわけですが、結論を先にいえば、離れることはできる、離れたらかえって人生が面白くなる、人間味豊かに生きられるようになる、というのがブッダの答え(の私の解釈)です。
一歩一歩学びを進めていきましょう。
人気blogランキングへ
でも、つながりで思うと解けるのかも知れませんね。
これからの授業が楽しみです。
ウスイツカサ
ある意味で、執着に縛られているうちは、人間としては不完全で、執着を離れたときに、本当の人間、真人間(仏)になれる。
執着を離れれば、不条理感はなくなり、爽やかなそよ風のように、軽やかにいきいきと生きられるのではないかと思います。
有り難うございました。