宇宙カレンダーの12月22日(3億6千2百万年前)、石炭紀に爬虫類が創発し、脳幹が創発し、衝動が創発します。
12月23日(2億9千万年前)、ペルム紀に哺乳類の先祖である哺乳類型爬虫類が繁栄しますが、12月24日、生物の大量絶滅で古生代が終わります。
12月25日(2億4千5百万年前)、三畳紀に、大量絶滅を免れた哺乳類型爬虫類の中から哺乳類が創発し、大脳辺縁系が創発し、情動が創発します。
12月29日(6千5百万年前)、新生代第3紀に霊長類が創発し、大脳新皮質が発達し、シンボルが創発します。
そして12月30日、ようやくヒト科に属する生物が創発し、前頭葉が発達し、初歩的な言葉と概念が創発します。
12月31日(1千6百万年以降)、新生代第4紀に人類が創発し、言葉を使った思考や認識が発達していきます。
ここまでたどってみると、今の私たちの心には、蠕虫の神経組織と感覚、魚類の神経管と知覚、爬虫類の脳幹と衝動、哺乳類の大脳辺縁系と情動、霊長類の大脳新皮質とシンボルが引き継がれており、それに前頭葉と言葉・概念が積み重ねられているということが見えてきます。
もちろんこの積み重ねはすべて宇宙の自己複雑化です。
その積み重ねによる進化の結果、私たち人間において何が起こっているかというと、世界・宇宙を認識するということです。
そして人間もまた宇宙の一部ですから、人間が宇宙を認識するということは、宇宙の一部が宇宙の他の部分を認識するということです。
……とここまで話してから、学生たちに「いい? ここでだまされちゃダメだよ。ここが大事だからね。ここまでの論理のつながりにごまかしはないよね? 大丈夫だよね? 僕の言っていることを鵜呑みにしないで、自分でしっかり考えてみてね」といいます。
私の考えでは、どう考えても人間において「宇宙が宇宙を認識している」というほかありません。
とすれば、人間は宇宙の自己認識器官だということになります。
そうだとして、宇宙は自己認識器官をたまたま=偶然創り出したのでしょうか?
それとも、ある種の意図があって――つまり自分が自分であることを認識したくて――人間を創り出したのでしょうか?
ここからは、各人の解釈の問題になります。
しかし、ビッグバン以降の宇宙に自己進化の方向性があることは、もはや現代科学的には疑う余地のないことのように思えます。
その方向性は、偶然に決まった方向性なのか、それともある種の必然性のある意図なのか?
今の段階では、どちらの解釈も可能だと思いますが、どちらの解釈を採用すると、自分の存在をすばらしいものと捉えることができるでしょう?
どちらの解釈が元気になれるでしょう?
いずれにしても、選択するのはみなさんです。
もちろん私は、宇宙には意志があって私たちを生み出したという解釈を採用しています。
「宇宙は、私を生み出したくて137億年もかけてくれたんだ!」と思うと、自分というのはなんとすばらしい存在なんだろうと感じられるからです。
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私は未熟ですが歳はもうそんなに若くはありません。(笑)
実は私も天台宗の僧侶です。20代の頃か30代の頃か忘れてしまいましたが、教区主事をしていた頃、檀信徒会の研修で比叡山の堀澤祖門先生を講師でお招きして座禅の研修をしていただきました。そのときに堀澤先生から岡野先生のことをお聞きしたのがきっかけで、早速本を買って読んだのです。最初に読んだのが「唯識で自分を変える」でした。とてもわかりやすかったので、トランスパーソナル心理学や、般若心経やその他何冊か読ませていただきました。事務局の重田さんとは電話で2回ほどお話したことがありましたが、岡野先生とブログを通してこうしてレスをいただけてとても感激です。ありがとうございました。
岡野先生のお言葉を頂戴し、健康が許す限りは生涯「希望の法師」として精力的に布教活動に取り組みたいと燃えています。
岡野先生の益々のご活躍をご祈念申し上げます。
よくいらっしゃいました。10年以上ですか。有難うございます。
「三界の大導師」とは大変な褒め言葉で恐縮です。「言いすぎでしょうか?」、言いすぎです。
お褒め下さる方にいつも、謙遜ではなく申し上げるのですが、それは「善意の誤解」というか、ご自分の中にある「三界の大導師に出会いたい」あるいは「自らが三界の大導師になりたい」という願望の投影ではないかと推察申し上げます。
残念ながら、私はそうなりたい気持ちはありますが、そうなってはいない、ときちんと自覚しています。
でも、「とても役に立つ情報をもたらしてくれた」というお言葉は、素直に感謝してお受けします。お役に立ててくださって有難うございます。
ブログでご報告しているような事実に基づき、一定の役に立っているという自信は持っています。なにしろ、『生きる自信の心理学』の著者ですからね(でも、本は残念ながらベストセラーにはならず、ここで品切絶版になってしまいましたが)。
たぶんお若いのではないかと拝察しますが、私は日本の若い僧職にある方々を「希望の星」をもじって「希望の法師」と呼んで、非常に期待しています。
ぜひ、日本人全体、とりわけ若い世代がつながりの心・縁起の理法を再発見できるよう、よいお仕事をお続け下さい。
ここのところ、曹洞宗や天台宗の布教師会の方々とご縁が多く、みなさんにお願いしているところです。
「家族が私のファンかどうか」、うーむ、これはかなりむずかしい質問ですね。
家内は、ファンというより私の活動の重要な協力者ですし、子どもたちはもう独立してそれぞれに暮らしていますのでよくはわかりませんが、それぞれ・それなりに評価してくれているようです。
離れて暮らしている孫娘は、たまに会って遊んでいると、けっこうしばしば「じーじ、すき」とか言ってくれます。
私の家庭での日常の言動の実態からすると、これは感謝し満足すべき状態かな、と思っています。
因みに、マナ識を抱えた凡夫同士のこと、夫婦、親子ともに、小さないきちがいは時々やっていますよ。
和尚さんも家内安全であられますよう、お祈りしております。
それとはまた別に、ゆうきさんのコメントを読んでハッと気づかされたことがあります。豊かさとは、覚ることも覚らないことも含めてこの世には厳然としてあり、それがそのまま豊かな世界であり、覚った人が豊で覚らない人が豊ではないということではないと思いました。人の思いはいろいろです。
ちなみに、お伺いしたいのですが、岡野先生のご家族は全員岡野さんのファンなのでしょうか?
私自身について言えば、つい先日、このブログを読みながら、妻に宇宙は何年前にできたか知ってる?と尋ねましたら、そんなのどうでもいいことだ!と答えてももらえませんでした。(爆)
私自身はお坊さんなので岡野先生のお話はとても役に立ってたっています。
「おもいっきり遅いコメント」有難うございます。
それは、ブログの「過去」記事が過去のものとなってしまわないで、今でも読んでいただける価値があったということだと思うので、とても喜んでいます。
確かに哲学的理解には「信と疑のブランコを持つこと」が必然であり必要だと思います。
それは科学でも同じことで、ある段階で達した確からしい仮説を絶対に正しいものとするのは、科学的態度ではないと思います。
おっしゃるとおり、人間の世界理解、自己理解は、「揺れ動くたびに、理解が深まっていく」のだと思います。
しかし、ブログ記事を全体として読んでいただけるとおわかりのとおり、私は哲学や科学よりも生きること・人生のほうを優先させてものを考えています。
「知ること」よりも「生きること」のほうが、私にとっては大切です。
哲学も科学も、それ自体に価値を認めるというより、それが多くの――できればすべての――人のよりよく生きるために役立つかどうかという有効性で評価します。
しかし、知ること自体により多く価値を見出すというスタンスを採る方の存在も否定はしません(頭の中ではできても、実際にはできませんしね)。
ただ私の基本姿勢としては、よりよい人生に役立つかぎりにおいて、科学も哲学も使わせてもらうという、いわば臨床的アプローチを採っているということです。
よろしければ、続けて記事をお読みいただき、またコメントしていただけると幸いです。
私は、実在する世界や宇宙を肯定する姿勢と否定する姿勢の両方が揃うことが、人間の哲学的探求の完成された姿だと思います。
世界や宇宙を素晴らしく思える感情の裏に、「でも必ずしも…その通りではないのかも…」と疑う考慮もあり、世界や宇宙を呪う気持ちの裏にもまた、、、というふうな、信と疑のブランコを持つことが、人間の、世界や宇宙に対する哲学的理解の限界としか思えません。
これしか人間にはありえませんので、これまでずっとそう続いてきたし、これからもそう続いていくのではないかと考えます。
何より、揺れ動くたびに、理解が深まっていくんです。ハッキリしないので、いろいろ勉強して、理解を深めざるを得ません。それで、こうした揺れ動きの結果、いま人間は、このブログのテーマである「宇宙の自己認識器官だ」というような理解に達したのではないでしょうか。
バブル景気に日本中が浮かれていたかのような時期に学生時代を送っていた私は「死を見つめない文化ってのは浅薄なものだなぁ」という自称「反時代的考察」を行っていましたので、その点では私も比較的少数派の方に属するかもしれません。ただ念のために、私自身が誤解しているのでなければ、ゆうきさんが誤解なさっているように思える点を指摘したいと思います(既にお気づきならすみません)。
ゆうきさんは、
>僕が言いたい事は世界はすばらしいものだ、などと無理やり思おうとしなくてもいいのではないかなと。
また、
>世界はすばらしいものにすべきだ、すばらしいと思い込もう、そのようにした方が人生は豊かだ、とゆうような文意を感じましたのでコメントさせて頂きました。
そして、
>しかし世界は素晴らしいものだと思い込まなくても十分に「人生を豊かに生きる」ことはできるんじゃないかなと。
などと書かれていますが、私なりに要約すると岡野先生自身は、「世界はすばらしいものにすべきだ」と思うまでもなく単に事実として世界は素晴らしい。でも、鰯の頭も信心から、のように「世界は素晴らしいものだと思い込」みなさいとはおっしゃっていないと思います。これは私の意見ですが、「思い込む」とは、自然にそう思えないのに無理やり思おうとしているということでしょうから、思えないのに思い込む必要はないし、むしろ思い込まないほうが良いと思います。岡野先生もブログ本文中に「ヘッド(頭)でわかることと、ハートで感じることと、ガット(胆)に収まることは、かなり、そうとう、すごく、全然、違うことなんだよ、と私はよく学生にいいます」と書かれているように宇宙の進化を理解することと世界は素晴らしいと感じ、納得することとは別で、少なくともはじめからの並立は難しいと思います。それに「僕も世界は素晴らしいなぁ、美しいなぁと思うこともあります」とのことですが、これは別にゆうきさんが自然に思えることであって、「無理やり思おうとし」ているのではないのでしょうか?
あと、私の読解力が不足しているために、
>僕にとって「豊かさ」とは自分の死とゆう最大の不幸、不条理を見つめずに日常的な「豊かさ」ばかりを追い求めることとは真逆に位置しています。すなわち常に「自分の死」と向き合いながら生きるとゆうことです。
との一方で、
>2回目のコメントで「世界を呪うあり方も豊かじゃないんでしょうか」と書きましたがこの事と3回目のコメントの「自分の死と向き合いながら生きる」とゆう僕の考え方とはなんら関係はありません。よって結びつくこともありません。
と書かれている「結びつくことも」ないはずの「世界を呪うあり方」の「豊か」さとは、いかなるものか、いまひとつ判りません。2つの異なった意味で使われているのでしょうか?
はじめの方に書いたような「反時代的考察」を行っていた当時の数年間は、私には出来るならば宇宙の歴史から抹殺したい時代です。仮にそれが可能ならば、その分の私の人生の時間が減ったとしても構わないとさえ思っています。そのような状況を憎み、それから脱出できなかった(しなかった)自分の不甲斐無さに悔し涙を流し、臍を噛む思いとはまさにこのことだと感じています。この経験を良かったではないかと言う相手に対して私は激しくそのことを否定しました。また、そこまで一部分であれ己の人生を拒絶する私を気遣ってくれる言葉に対して私は「違うんだ」と言いました。「自分は否定のために拒絶しているのではない。もしも、これを単に『これもひとつの良い経験だ』と――まさに「思い込」んだならば――最期の時に『ああ、俺は本当はそのことを決して納得してもいないのにしている振りをしたんだ』ともっと辛い思いをするだろう。しかし、その納得していないということを直視し続ければ、それを恨みつつも『これは自分にとって必要なことだったんだ』と受け入れられる可能性があるから、そして受け入れたいからこそ拒絶しているのだ」と、そう答えました。同じように字面の上からは矛盾しているようですが、「世界を呪」いながらも、それでもなお「世界は素晴らしいなぁ、美しいなぁと思う」ということであれば、「豊か」と表現することもわからなくはありません。
私も「世界を呪うあり方」を「だめだという」ならばとても息苦しいと思います。私自身、世界とまではいかなくとも人生くらいは呪ったりすることもありますし…… 「世界を呪ってもだめではないし構わない」と思えれば気持ちも楽になるでしょう。しかし、「世界を呪ってもだめではないし構わない」ということと、(仮にそういう意味ならば)ただ単に「世界を呪う」だけの「あり方」が「豊か」だということとの間にはとてつもなく大きなギャップがあると思います。
このような事になってしまい申し訳ありませんでした。
僕としては僕の本心からの言葉を書いたのですがちょっと言葉が過激すぎたようで読んだ方に不快な思いをさせてしまったようです。すいませんでした。
僕自身、まだ学生という身分なのでこれから考え方が変わることもあると思いますし、先生のブログもきちんと読み直してみたいと思います。
良いところは良いところとして吸収し、成長していきたいと思っていますし、常に変わっていきたいという思いもありますので。
まず若僧さんにとって「豊かさ」とは何なのでしょうか?
例えば、ある花を見て「なんてきれいな花なんだろう」と思わず感動してしまうこと、そして「花なんてどうでもいい、なんて醜いんだ」という2つの感想があるとします。
若僧さんにしてみたら前者が心が「豊か」だとゆう感想を持つんではないでしょうか?
しかし僕にとったら後者も「豊か」だと思ってしまうんですよ。
その人の今までの生き方、様々な体験から育てられた感受性だからです。
前者がよくて後者がだめだというのは非常に息苦しいし、既成概念に囚われているだけとしか僕には思えません。子供のころから前者の方が良いと教え込まれてきてますから。
前者も豊かだし、後者も豊かだとするとふっと気持ちが楽になりませんか?
自殺した方たちの話が出ましたが当人達がもしこのような考え方をしていたらふっと楽になっていたんじゃないでしょうか?悩み苦しんで、自分はなんでこうなってしまったのか、これは違う、これは豊かじゃない、そして自殺してしまう。
いや、その考え方はそれなりに「豊か」なんですよ。(多分)
自殺が良いか悪いかは僕にはまだ良く分かりませんが・・・。
「豊かさ」とは常に流動的であっていいと思いますし、そうあるべきだと思います。
このような意味で僕は世界を呪うあり方も「豊か」であるんじゃないかなと思ったんです。
「豊かさ」とゆう言葉に人間が踊らされてしまっては何のための「豊かさ」か分かりませんから。
そしてもう一つ。
2回目のコメントで「世界を呪うあり方も豊かじゃないんでしょうか」と書きましたがこの事と3回目のコメントの「自分の死と向き合いながら生きる」とゆう僕の考え方とはなんら関係はありません。よって結びつくこともありません。(説明不足でしたし僕の説明が下手でした。すいません。)
なので「常に自分の死と向き合う生き方、この世が無常で~より輝いて見えると思うのですが・・・」とゆう若僧さんのコメントにはほぼ同感です。
だからこそ僕はそのような生き方を目標としていますので。
曽野綾子さんの本の中にこんな言葉があります。
(この世が)ろくでもない、絶望的な所だということが確定してしまうと、私のようなヘソマガリはそこでやっと安心して、あたりを見廻すのです。そして、何だかよくはわからないがのですが、「ウン、それにしてはおもしろいこともある」と呟いてみてもいい心境になります。
この言葉に僕は完全に同意します。より素晴らしく輝いて見えるほどでもなくそれにしてはおもしろいこともちょっとはあるなという程度です。
みなさん、たくさんのコメントと討論、有難うございます。
このブログで、コメントがこんなに賑やかだったのは初めてかもしれません。
それだけ、みなさんにヒントや刺激になったのではないかと喜んでいます。
さて、コスモロジーのことですが、これはなるべくたくさんの現代人に元気になってもらうための「方便」です。
カバーできる範囲はそうとう広いと思いますが、向いた人のための特効薬で、万能薬ではありません。
ですから、体質に合わず、効かない方がいるのは当然です。
しかし、T.Tさん、ゆうきさん、よかったらブログの記事、最初のほうから持続的に服用してみませんか。
向いてない、効かないと思っていた相当多数の学生にも、授業が進むにつれて効いてくるようですよ。
持続的に服用してもピンと来ないようでしたら、やはり向いていないのかもしれません。
そういう意味での人生の「豊かさ」はあるでしょう。つまりどんな生き方でも選択できる、自己決定できるという意味での「豊かさ」です。
広辞苑を例に挙げましたが、私も豊かさを、日常的な意味での豊かさに限定しているわけではありません。物質的な豊かさばかりを求める生き方は、むしろ心の豊かさを失ってしまうと思っています。
ですが、私にはあなたが言う不条理な「自分の死」とつねに向き合う生き方が、なぜ世界を呪う生き方に結びつくのかが分かりません。そして、もっと分からないのはそれが「豊か」な生き方だということ。
つねに「自分の死」と向き合う生き方、この世が無常であることを腹の底にすえる生き方、これは真摯に自己の人生を生きる上で、欠くべからざるあり方だと思います。
これ自体は素晴らしい!
私はむしろ、このあり方が深まれば、世界を呪うあり方とは正反対に、より世界は素晴らしく輝いて見えると思うのですが・・・いかがでしょう。
最後に「無意味な命題」と言いましたが、「無意味」とは言っても、ゆうきさんの考えを排除しようというほどの意図はありませんでした・・・。
ですが、素直に自身の気持ちを省察すれば、あなたの言葉に対して不愉快に思ったことは事実です。
というのは、私はわけあって何人かの自殺した若者を見送りました。そのたびに自分の無力さを痛感しました。
自ら命を絶つということが、本当に豊かなことなのか。
彼らの無念さ、逃げ場のなさ、救いのなさを考えたとき、あなたの言葉を看過することはできなかったのです。
彼らだって、できることなら死にたくなかったはずです。
私は縁あって、岡野先生の「つながりコスモロジー」という、現代宇宙論と大乗仏教をベースにした宇宙観を学んでいます。もちろんこれが絶対というわけではありませんし押し付ける気もありませんが、そうとう程度、それぞれの生きる意味を見出すのに役立つのではないかと思っています。
「つながりコスモロジー」を知れば知るほど、世界、自分は素晴らしいものだと思えてくる。
悲しいことがあっても、落ち込んでも、思い出せば元気になってくる。
「つながりコスモロジー」は、世の中や、自分の人生に価値を見出せなくなった人々に対して、そうとう有効だと思います。
これ以上、自殺者は増やしたくないのです。
乱文・長文にて失礼しました。
「豊かさってなんだろう?」という言葉を書き込んでくださってありがとうございます。それこそ私も最近考えていたことなのです。私が考えていた「豊かさ」もプラス方向ばかりの豊かさではなく、マイナス方向も含んだうえでの豊かさのことです。そういう意味ではゆうきさんは少数派ではないと思いますし、珍しい考え方でもないと思います。
なるほど、分かります。
あ、一言、言っておきたいんですが僕も世界は素晴らしいなぁ、美しいなぁと思うこともありますよ(笑)
僕も先生のその姿勢は理解できます。
しかし世界は素晴らしいものだと思い込まなくても十分に「人生を豊かに生きる」ことはできるんじゃないかなと。ひとつの考え方として理解してくだされば結構です。
なるほど。僕とあなたとの間で決定的にずれているのは
「人生において豊かさとは何か?」
とゆうところのようですね。
広辞苑に載っているような一般的な意味で理解されてしまっているとしたら若僧さんの仰っていることも分かります。
しかし、「豊かさ」って何なんでしょうね?
僕にとって「豊かさ」とは自分の死とゆう最大の不幸、不条理を見つめずに日常的な「豊かさ」ばかりを追い求めることとは真逆に位置しています。すなわち常に「自分の死」と向き合いながら生きるとゆうことです。
そのような意味で僕は「豊かさ」とゆう言葉を解釈し、使用していました。
若干、説明が足りなかったみたいで申し訳ないです。
若僧さんの仰っている通り、一般的に通用しないのも、この考えが珍しいのも分かっています。周りにこのことについて話しても理解してくれる人はあまりいないですからね。
しかし、このような考え方を持った人間がほんとうに少数だと思いますがいるとゆうことを言いたかったんですよ。
また最後の文に「無意味な命題」とありますがマイノリティの考え方、意見だからといって排除してしまうのはどうでしょうか。それこそまさしくマジョリティ特有の最大の暴力だと思いますよ。
はい。ゆうきさんのおっしゃりたいことは理解できました。
ゆうきさんはこの講義は 世界の素晴らしい面ばかりを強調しすぎていて、それを強要されているように感じられたのですね。この世界はいいことばっかりじゃないぞ、と。そしてどちらを選ぶかの決定権は自分自身にあるのだと。
はい。確かにその通りです。
しかし、しかしです。
それでもなお、この世界は美しい。素晴らしい。と 私は
感じています。ゆうきさんにもぜひこの感じを味わって欲しいです。いつかきっとね。
先生は、皆さんに自分の意見を強要しようとしておられるのではなく、ただ皆さんを元気づけたいという思いが強いのだ
と私は思っています。
「世界を呪って死んでいくこと」、もちろん、それも生き方・死に方として「あり」でしょう。
だけど、その後に続くあなたの言葉「それはそれで豊かな生き方、死に方なんではないかな…云々」は言葉の使い方が間違っているんじゃないでしょうか。
「豊か」とは、物が豊富で心の満ち足りたさま(広辞苑)を表します。
世界を呪って死んでいくということが、心の満ち足りた生き方・死に方なんでしょうか?
そのような言語の用法は一般的には通用しない。
したがって、あなたの考えはあなたの内に留まって一般化されず独我論に帰する。
つまり無意味な命題ということになります。
しかし、そんなことできないのは十分分かっていますよ。衝動的に死にたくもなければ自己陶酔で死にたくもありません。僕はバカでもなければ天才でもない凡人ですので。
僕が言いたい事は世界はすばらしいものだ、などと無理やり思おうとしなくてもいいのではないかなと。別に厭世主義ではないですよ。世界を呪って死んでいくこともそれはそれで豊かな生き方、死に方なんではないかなと思うんですよ。どうでしょうか?
世界はすばらしいものにすべきだ、すばらしいと思い込もう、そのようにした方が人生は豊かだ、とゆうような文意を感じましたのでコメントさせて頂きました。
>自分というのはなんとすばらしい存在なんだろうと感じられる
ほんとにすごいことですね!
自分のすばらしさを自分に言い聞かせるセルフトークとしては、最高のセリフです。
(どんなに辛くても、いつでも自分に言える事実)
自分の良いところって他人はなかなか言ってくれないから、
自分で自分に言って自己評価を高めたいと思います!
あなたもわたしも宇宙の一部であるとするならば、
宇宙を殺す(if you can)ということは
つまりは自分を殺すということになりはしないでしょうか?
宇宙的な意味があって奇跡的にこの私が存在しているということ。
そうなると、この人生で自分はどう生きるのかということが自問されてなりません。
はたして自分勝手な欲望の赴くままに、生きてよいものだろうか。。。
それもありかもしれませんが、そうなると人生が虚しくなりますね・・・。
自分も生かし他人も生かす、自利利他一如が目標です。
おれってすごい!というセルフトークが、うぬぼれとか優越感じゃなくていえそうです。根拠をもって。
なのにそこまでしてくれた地球環境を決定的に破壊しているのも同じく僕らなわけで、上のコメントの方のおっしゃるとおり、どうしたら僕らは本質的なすごさのとおり、生きることができるのかなと思えてなりません。