大乗仏教の究極の目的である覚りとは、宇宙の本質である「空」ということに心の奥底まで目覚めるということでした。
そして「空」というのは「一如」と同義語で、宇宙のすべてのものは一体であるということでもありました。
大乗仏教の修行者たち=菩薩は、徹底的な禅定の実践の結果、徹底的な無分別の智慧に到りました。
そうすると、それまで損と得、幸福と不幸、善と悪、汚染と清浄、生と死というふうに分別していたこともすべて無分別=一体であることが見えてきたのです。
宇宙では、善と悪、汚染と清浄というふうな相対的な区別はできても、絶対的には分離しておらず、一体です。
大乗仏教では、そういう汚染と清浄という人間的な分別を超えた宇宙の本質を、あえてもともと絶対的に汚れを離れている、汚れや悪という意味での煩悩は本来的には空であるという意味で、「本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)」と捉えています。
この本来清浄涅槃というところから見ると、私たちの体や心も「本来清浄」です。
そこでは、煩悩の依りどころである体が残っているとか残っていないとかという問題は超えられてしまいます。
「体があるままで本来清浄である」という宇宙的事実の発見が、それまでの小乗仏教に対する大乗仏教の決定的なポイントだといっていいでしょう。
無分別智的に見れば、体も心も含んだ自分もまたそのまま一つの宇宙の一部です。
さらに大乗仏教の菩薩たちは、無常なるこの身心の自分がそのまま宇宙と一体なのならば、この身心よりもむしろ宇宙そのものを「自己」と捉えるべきだと考えました。
英語で表現すれば、小文字で始まるselfではなく大文字で始まるSelfこそ本当の自分だということです。
こういう驚くべき深い境地に立った大乗の菩薩たちは、衆生すなわちすべての生きとし生けるものの輪廻ということに関しても、それまでとはまったくといってもいいほど違った考え方をするようになりました。
この身心に限定された自分というのは確かに生まれて死ぬものですが、宇宙としての自己は時間と空間と物質をすべて包んで超える存在です。
そういう大きな自己と、その1部としての特定の身心を持ったこの「私」との関係は、区別はできても分離できないものです。
そして他の人と私の関係も、同じ1つの宇宙のあの部分とこの部分というふうに区別はできても分離できないものです。
そうすると、他の人の喜びは私の喜び、他の人の苦しみは私の苦しみということになります。
特にこの世は四苦八苦という苦しみの世ですから、多くの人がいろいろに苦しんでいます。
その苦しみを私の苦しみと感じたら、放っておけなくなります。
他者の苦しみを自分の苦しみと感じて放っておけないと思う気持ちのことを「悲」といい、他者を喜ばせることを自分の喜びと感じる気持ちのことを「慈」といって、あわせて「慈悲」というわけです。
修行者=菩薩自身もこの苦しみに満ちた世界にあって、その苦しみの世界から抜け出したい、つまり涅槃に入りたいと思うのですが、いざ本当に深い涅槃の世界に入ってみると慈悲という気持ちのために、この苦しみの世界で苦しんでいる衆生を放っておけなくなります。
そこで、状況に応じて絶対の安らぎの世界=涅槃の世界にいたり、やはり衆生とともに苦しみの輪廻の世界にいて、苦しみをなくし安らぎを与えるという働きをしたりというふうに、自由自在に居場所・住所を変えるというあり方をするのです。
そういう自由自在、住所不定の境地のことを「無住処涅槃」と呼んでいます。
どこまでもこの体と心が「自分」だという思い込みを脱しきれない私たちからすると、これはあり得ない話のように思えます。
それを少しでもわかりやすくするために、次のような譬えが考え出されました。
それは、「海の水と波」の比喩です。
海の表面に立っている波を見ると、一つ一つ別の波のように見えます。
しかしそれを海の水という面から見ると、すべて同じ1つの水です。
海は、状況によって、鏡のように平らであることもできれば、さざ波になることも、大波になることも、怒涛になることもできます。
しかしどういう波になっても、それが海の水であるということは決して変わりません。
海は、自由自在に形を変えることができます。
私たちが自分の本質を「波」と捉えると、それは現れては消えるはかないという意味で「無常」な存在と感じざるをえません。
そうすると、不安になったり、むなしくなったり、絶望したりするほかありません。
しかし本当の自分は「海」なのだと覚ると、それは時を超えて時の中で永遠にダイナミックに働き続けるという意味で「無常」な存在だとわかります。
そうすると、根本的な安らぎと爽やかさを感じながら、時には働いたり時には休んだり、自由自在に宇宙の働きの一部としてあるがままにあり、なるがままになり、なすがままになしていくということが可能になる、というわけです。
これはあまりにも深い境地なので、私も唯識の文献を手掛かりに「そういうことになっています」という話しかできませんが、修行を深めていけばいつの日か――三大カルパを経て――そういう境地に到達できるというのは納得のできることです。
そして、前にもお話ししたとおり、私たちの今生の課題としては、これをはるか彼方の行くべき方向を示してくれる道しるべ・理想として、行けるところまで行けばいいということだと思います。
個人としての私も、できるだけ修行して、なるべくこの「無住処涅槃」に近い境地になってからこの世を去ることができたらいいな、と思っています。
よろしければ、今後もご一緒に、リハビリ仲間、トレーニング仲間として学んでいきましょう。
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