4つの聖なる真理3

2005年12月18日 | 心の教育

 四諦・4つの聖なる真理の第三段階は「滅諦(めったい)」です。

 人生の根本的な苦しみである不条理感の主な原因が「無明」→「渇愛(愛)」→「執着(取)」だとすれば、それらがなくなれば不条理感という精神的苦痛もなくなるはずです。

「無明がなければ、行はなく、行がなければ…渇愛がなければ…執着がなければ…老死〔の苦しみ〕はない」という順観の洞察です。

 当たり前のことをいうようですが、ここでさすがブッダがすごいと思うのは、ただ「老死〔の苦しみ〕」をいやがっているだけでなく、一歩一歩原因追究をし、さらに原因からなくしていけば結果としての苦しみはなくなるという、最後の最後のところまで洞察しきったところです。

 私たちがよくやるように考えている途中で、「こんなこと、むずかしくてわかりっこない」とか、「そんなこといったって、無理なんじゃないか」と立ち止まったり、挫折したりしなかったのです。

 ですから、学ぶ私たちもぜひ、「執着がなければ」と聞いたらとたんに「人間、執着をなくすことなんてできるんだろうか?」と反応して、そこで止まってしまったり、「渇愛がなければ」と聞いたらすぐ「欲があるからこそ人間らしいんじゃないか」などと自己防衛的な反応をしたりしないで、話を最後まで聞きたいものです。

 この第三段階の話の最後は、「無明がなければ」ということです。

 不条理感に苦しむのは無明があるからで、無明がなくなれば不条理感の苦しみは無くなる、というのです。

 「そんなことできるのか?」という問いに対して、答えは「適切な方法を実行すればできる」ということです。

 否定的な言い方に替えれば、「適切な方法を実行しなければ無明はなくせない」→「渇愛はなくせない」→「執着はなくせない」ということになりますね。

 ですから、私たちが愛着・執着から離れ不条理感から解放されて、爽やかに生き生きと生きられるかどうかは、適切な方法を実行して無明をなくすことができるかどうかにかかっているわけです。

 それが、次の第四・最終段階の「道諦(どうたい)」です。


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8 コメント

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質問です。 (YOKO)
2005-12-18 21:07:25


>「無明がなければ、行はなく、行がなければ…渇愛がなければ…執着がなければ…老死〔の苦しみ〕はない」という順観の洞察です。



↑ここで「行」とは何のことですか?修行の行のことですか?
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飛び込む! (りょう)
2005-12-18 21:43:36
疑いの念を捨てて、とにかく飛び込んでみる(やってみる)ことが大事なんですね。

否定したり、疑っている間は、何も変わらないし変われない。

学びと実践を深めて行きたいと思います。



有り難うございました。

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よく読めば (YOKO)
2005-12-19 08:01:53
仏教で行といえば修行だろう、との先入観があったのですが、ここでの「行」は「渇愛、執着から来る行動、行い」のことでしょうか?どうもそんな気がしてきました。



しかし、否定的な言い方って どうもわかりづらいですね。「~~がなければ~~はない」って。

しかもここは「無明がない」だから2重3重の否定になっているから・・・。



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難しい、けれども (一人暮らし五年)
2005-12-19 18:57:53
日本人として、家に仏壇があったりいちおうパスポートとかではブッディストとか書くのでしょうが、そもそもその根本のところのメッセージがこういうことというのは、学ぶまでまったく知りませんでした。なんか抹香臭くてうそくさい、みたいな。

とりあえず講義での解釈の限りですが、その本質が何であったのか、わかってきたような気がします。ようするに、この問題ありありの心をなんとかせよ、それはむずかしいけれども可能だ、ということでしょうか。

その“実践”とは何か、期待しています!

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感想 (ウスイツカサ)
2005-12-19 22:21:32
できるの発想で考えぬいて見るのも良いですね。



できないと思えばそれまでですが、できるで考えを進めるとできるなりの答えが出てきます。



今度はどんな授業か楽しみです。ありがとうございました。



ウスイツカサ



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>YOKOさん (asassata)
2005-12-20 00:41:02
 横レス失礼いたします。岡野先生がわかりやすい説明をしてくださると思いますが、その前に私が参考になりそうなところをご紹介しておきます。



 修行としての「行」のサンスクリット原語は「チャリヤー caryā चर्या」や「プラティパッティ pratipatti प्रतिपत्ति」であるのに対して、十二縁起・十二因縁でいう「行」の原語は諸行無常の「行」と同じで、サンスクリットの「サンスカーラ saṃskāra संस्कार」、「サンスクリタ saṃskṛta संस्कृत」(←サンスクリットという言語名もここから)やパーリ語の「サンカーラ saṃkhāra संखार」などで全く別の言葉のようです。



 十二縁起・十二因縁の「行」は現代語訳では「意志作用」などとされることが多いようですが私自身どういう事かよくわかっていません。



 また十二縁起・十二因縁の解釈自体、仏教内部においても諸説があるようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81

↑ここで解説されている説一切有部(せついっさいうぶ)と呼ばれるグループの解釈は「胎生学的」、あるいは「発生学的」解釈などと言われていたように記憶しています。



 最後に「行」一般に対する解説はこちらです。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
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謝々 (YOKO)
2005-12-21 06:34:30
asassataさん



素晴らしい解説をありがとうございました。

「行」という一字がこんなにたくさんの意味を持たされていることを知りませんでした。

サンスクリットから漢文へ、漢文から日本語へ。数知れぬ翻訳者の苦労がしのばれます。

感謝です。
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 (おかの)
2005-12-21 23:45:22
>asassataさん



 いつも参考になるコメント有難うございます。



>YOKOさん



 すぐにお答えできなくて、失礼。



 この場合の「行」は「構想力」とか「形成力」と訳されるような意味で、関係の結び目でありプロセスであるような自分ではなく、それ自体で存在しうる、変わることのない実体としての自我を構想・妄想する無意識的な心の働きというような意味のようです。



 といっても、この言葉を含め十二縁起は、解釈がむずかしく、私も100パーセント納得のいく解釈に出会ったことがないので、自分なりにつじつまがあうように解釈しているというのが本当のところです。
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