さて、今日は少し理論編です。
私たちが何となく「自信がない」とか「自信がある」という表現をする場合、「自信」とはどういうことを意味しているのでしょう?
「自信」とは「自己信頼」の略だと考えることができますが、自分が誰をまたは何を信じるのでしょう?
ふだんあまり意識しないことですが、よく気づいてみると、私たちは自分で自分を信じられたり、信じられなかったりしているようです。
人間の「意識」というのは、とても不思議というか当たり前というか、ある年齢以上になると、「自分が自分を見る」というかたちになっています。
心の中が、「見る自分」と「見られる自分」に分化しています。それが、「意識」というものの本質であるようです。
そのために、人間では、見る自分が見られる自分に対して信頼できる・肯定できる・承認できると思えるかどうかという意味での「自信」が問題になってくるのだと考えられます。
(他の動物では、こういう複雑な心の問題は起こらないようですね。)
自分で自分を認められることが「自信」だとして、その内容をもう少し細かく見ていくと「自分の能力」を認められるということと、「自分の価値」を認められるということ、2つの面に分けて考えることができると思います。
つまり、「自信」とは、「自分が自分の能力と価値を認めている状態」と言い換えることができるのではないでしょうか。
前回の宿題は、「能力と価値」のうち、自分が自分の能力を認めているかどうか、そういう意味で「自信があるかないか」の自己テストをしていただくということだったのです。
では、みなさんは、6つ以上自分の能力を書き出すことができたでしょうか?
これまでの授業やワークショップでは毎回、書き出せないという人がかなりの数いました。
それどころか、1つも書けないという学生たちも少なくありません。
それは、「自分には何の能力もない・何もできない」と思っているということでしょう。また、実際、聞いてみるとそういう若者がたくさんいるのです。
精神医学・臨床心理学の世界で、「スチューデント・アパシー(学生の無力感)」という言葉で問題にされていることです。
大学教育の現場にいると、これは、単に専門家にとっての特殊な問題ではなく、いまや若者一般に広がっている深刻な心の病というか病と健康の境界的な現象だと感じられます。
私は、そういう状況の研究調査も必要ですが、それをどうするかが問題のポイントだと考えています。
では、どうするか、に戻りましょう。
自分の能力を6つ以上書き出せなかったみなさん、「私は見ることができる」と書いてありますか? 「聞くことができる」、「嗅ぐことができる」、「味わうことができる」、「温暖を感じることができる」、「知ることができる」、「考えることができる」、「決めることができる」、「歩くことができる」、「話すことができる」……はどうですか?
これは、すべてあなたが「できること=能力」です。
私たちには、こうした生きるための基本的な「能力」がたくさんあります。
こうした「能力」が6つ以上ないなどという人には、私は会ったことがありません。
さらに、考えましょう。私は、「食べることができる=摂食能力」、「消化することができる=消化能力」、「呼吸をすることができる=呼吸能力」……がある。
どうですか? 私たちには数え切れないほどの「能力」が与えられているというのは「事実」ではありませんか?
(目や耳の不自由な方も、確かにそれについては「できない=能力がない」)のですが、それでも他に「できること=能力」がたくさんあるのではないでしょうか)。
「何の能力もない」人なんか、この世には一人もいません!! 呼吸能力も消化能力も……何の能力もなかったら、とっくに死んでいます。
ここで「でも……」という気のする方が多いことでしょう。「でも、そんなものは誰にでもあることで、能力というほどのものじゃないんじゃないですか?」と。
ここが1つのポイントです!
私たちは、ふつうの「能力」は「能力」と感じていないのです。
でも、「能力」じゃないですか? よく考えてみると、まちがいなく「能力」ですよね。
それなのに、「能力」とは思えないのは、なぜでしょう?
それは、私たちが戦後の競争社会の中で、幼い頃から比較して優劣を決める「相対評価」にさらされ続けてきたせいなのではないでしょうか。
「人と比べて優れているのが『能力』だ」と教え込まれてきたのです。「比べて優れていなければ、そんなものは『能力』とはいえない」と。
「できる・できない」という言葉のもっとも典型的な使われ方を考えてみると、そのことがはっきりわかります。
「できる」とは、まず子どもに関しては「成績が上位である」ということです。次に、社会人に関しては「仕事ができる=業績が上位である=人よりも稼いでいる)」という意味になります。
しかし、比較して誰よりも優れているのは1番の人だけです。2番以下の人は、1番に比べると劣っているのです。
ですから、成績や業績で人を量る社会は、驚くべき数の「無力感」を抱えた人、「自信喪失」の人を生み出していきます。
あなたは、そうした社会の流れに、追随し、流され、埋没してしまいたいですか? 溺死させられるかもしれませんが、それでいいんですか?
社会のものさしで自分を量って、優越感と劣等感のアップ・ダウンにさらされたいですか?
(しかもこの乱高下はどちらかというとダウンの方に傾きがちで、しばしば「死にたくなる」んですよね?)
それとも、「事実」に基づいて、「自分には驚くほどたくさんの能力がある」と感じて元気になりたいですか?
社会の現実には目を開けているが、自分のいのちの事実には目を閉ざしているという状態で、無力感、自信喪失、元気のないままで生きていきたいですか?
これは、ある意味で、1つの選択です。自分を元気にするための、いわば人権としての選択です。
「社会的な評価はいったん脇に置いて、私は私のいのちに与えられている驚くほどたくさんの能力に目を開いて、自分で自分を認める、自信を取り戻す!」と、決めてください。
「そんなこといったって、やっぱり社会は社会だし……」という方のために、コメントをしておきます。
社会の評価というのは確かにあります。
しかし、学校や会社にいる時ではなく、自分の部屋に帰ってまで、社会の評価を気にしていなければならないという、校則や社則でもあるんですか?
そういう法律やモラルや、あるいは宇宙法則でもあるんですか?
まったく、どこにもそんなものはないんじゃありませんか?
ならば、社会の評価はいったん忘れましょう(必要な時だけ、思い出せばいいんです。必要な時にまで忘れていては、ちょっとまずいですけどね)。
社会的評価、比較を忘れて、事実そのものに目を開いてみましょう。
すると、「私には実にたくさんの生きる能力がある」といえますね。
心の中で、「私には何の能力もない」というのと、「私には(実にたくさんの生きる)能力がある」というのと、どちらが元気になりますか?
元気になるのと、元気をなくすのと、あなたはどちらが好きですか?。
好きなほうを選択してください。それは、あなたの人間としての権利です。
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6つも、つまり片手に余るほどの能力を書き出せたんですね。すばらしい! 書き出せた能力たちをどんどん認めてあげじゃしょう。さらに、もっと増やして意いきましょう。
発見のお手伝いをします。ミルさんには、このブログを発見する能力=直感力と情報検索能力がありましたね。それから、自分を見つめる能力=自己洞察力があります。
さらに、自分の能力を見出す能力があります――これは能力の中でも特にすばらしい能力です。能力は発見され認められると伸びるという強い傾向法則がありますから、この能力があれば、他の能力をどんどん伸ばしていくことができるでしょう。
よかったら、ぜひ、学びを続けてください。きっと、ほんとうの自信がもっともっとついてくると思います。