随煩悩2:怒り(忿・ふん)

2006年04月07日 | メンタル・ヘルス

 随煩悩の第一にあげられているのは「怒り」(忿・ふん)です。

 これは、まず怒っている本人も嫌な気分ですし、怒られている相手も嫌な気分になりますから、まさに「煩悩」ですね。

 私たちは、自分にこだわり、自分の思いどおりにならないということで腹を立てます。

 自分、自分、自分……ですね。

 原語はサンスクリット語なのですが、漢字に写すと意味がさらにはっきりしてきます。

 「忿」とは、読んで字のごとし、分ける心です。

 自分と他者とが分離しているという思い込みの上で、好みや利害や信念や立場などが対立していると思って、怒るわけです。

 分かれていると思わなければ、対立のしようもありません。

 対立しなければ、腹の立ちようもありません。

 ……というのは、理屈なのですが、感情はそうはいかない。

 この場合の「理屈」と「感情」の不一致は、なぜ起こるんでしょう?

 今日はこれから2つ仕事(1つは中級講座「『証道歌』を読む」)に出かけなければなりませんので、詳しい解答は明日にして、みなさんへの宿題にしたいと思います。

 これまで学んできた心の仕組みの理論で、上記の問題はどういうふうに説明できるでしょう?

 考えてみてください。


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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (うりぼう)
2006-04-07 15:32:11
う、宿題ですか…

でもブログだから成績とかつくわけじゃないんですよね。匿名だし。

ええと、なんだろう。

理屈がわかったとしてもアタマだけじゃまだまだで、ハラにおさまっていないから感情がついてこない、ということではないでしょうか??
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宿題やりました。 (りょう)
2006-04-08 14:42:48
宿題苦手なんですけど・・・

ん~難しいですね。

うりぼうさんと同意見です。

表層意識の上では理解できても、マナ識、アーラヤ識のレベルで、自己と他者を分けて、自己にこだわろうとするからではないかと思います。
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劣等生の意見 (東の回廊)
2006-04-08 16:57:21
岡野塾 最劣等生を自称する東の回廊です。(笑)

コメントは残していませんが、いつも欠かさず通っています。



いままでの学びを通じて、自分と他者(外界,宇宙)とのつながりを意識することはできました。自分は宇宙の一部分であるということは理解したつもりです。しかし、自分は自分(つまり宇宙の一部分)を通じてしか宇宙を感じることができません。自分がたとえ宇宙と一体であったとしても、自分という小さい窓を通してしか見ることができない。となると、どうしても自分の周囲のよく目にとまる部分の利益にこだわる心が生まれるのは当然のような気がします。南米チリの国情よりも 自分の子供の健康の方が大事だし、17万光年離れたマゼラン星雲の超新星爆発よりも、自分の住んでいる地域の大気汚染の方が気になるというのは、ある意味自然なように思えます。



問い:「理屈」と「感情」の不一致は、なぜ起こるか?

私の答え:頭が 宇宙全体とのつながりを意識しても、体は 自分の周囲しか感じることができないため。



「理屈」と「感情」の不一致を解消していくためには、座学で頭で理解することと平行して、体で宇宙を感じる訓練を積んでいくことが大事ではないかと思いました。



以上です。どうもありがとうございました。
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むずかしい宿題 (YOKO)
2006-04-08 18:29:22
「理屈」と「感情」の不一致はなぜ起るか?



自己を他と分離した実体と思い込むのがマナ識のはたらきで

「感情」は主としてそのマナ識から出て来る。マナ識から言えば、「自分は他から分離して存在するのだから感情は100%自分のものである。」



一方、「理屈」の方は、(う~ん、むずかしい。)マナ識を通っていないのじゃないですか?「理屈」はあまり感情に触れてきません。アーラヤ識から上がって来るのかな?アーラヤ識は真理の種子を蓄えている蔵だから。
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宿題はホームワーク! (HIRO)
2006-04-08 20:00:17
宿題は“ホームワーク”と言うように、家でやるものですが、今は“ネットカフェ”から書き込んでいます。不慣れなキーボードは打ちづらいです・・・



さて、「理屈」と「感情」の不一致・・・“理屈的”には、マナ識、アーラヤ識の視点で考えるとスッキリします。



でも現実社会では、“感情”が“理屈”に優先することも多々あります。



感情を優先することが、“正直”で短期的に“得”だと思うからでしょうか。



いろいろな意味での“得”があると思いますが、私は中でも根深いのが、競争社会を前提にした“上下・優劣”の問題だと思います。



「競争社会」という前提がある以上、分離-対立がないと、本気で思うことは困難です。

上手く思えたとしても、“競争社会で敵わない”ような気(錯覚?)が起こります。



対立こそが、力を生む・・・サバイバル!!



理屈的には、分離がないからこそ、「自分を助けるがごとく相手を助ける・思う」のでしょう。



しかし、競争社会では、それを自分から先にやると“負け”のような雰囲気があります。

先に歩み寄った方の負け。歩み寄られた方の勝ち。



勝ち=価値。





理屈的には、強いからこそ歩み寄れるのだと思います。

でも、自分の認知も周囲の認知も、そんな風に思うことは難しい状況だと思います。



以上、「競争社会」という観点から、思ったことを書きました。



宿題の答えになったでしょうか。。。



ま、宿題は、提出することに“意義”がありますよねっ。



分離-対立からの“異議”がないことを願います

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回答は花祭りで (おかの)
2006-04-08 21:46:26
>うりぼうさん、りょうさん



 宿題、お疲れさま。ほぼ正解です。



 より詳しくは、花祭りの日の記事を参照してください。



 また、出させていただきますので、ガンバってください。



>東の回廊さん



 岡野塾には劣等生はいません。

 特に、欠かさず通うなんて、出席点最高ですよ。



 自分の心の窓が宇宙を完全に映すほどの広さになることを大円鏡智といい、人間はそういう智慧を得られる、ということになっています。



 ほんとかうそか、実践して試すほかなさそうです。やってみましょう!



>YOKOさん



 熱心なご参加、歓迎です。ほぼ正解!



 理屈、というより「理」は正しい学びから来て、それを繰り返しているとアーラヤ識に熏習されることになっています。「正聞熏習、多聞熏習」といいます。



 ぜひ、熏習されるところまで学んでいきましょう。



>HIROさん



 気持ちはまったく同感です。



 この「競争社会」というのは、ほんとに困ったものですね。マナ識の肥大を煽るような文化ばかりで、沈静させようという動きはほとんどないんですからね。



 理屈はわかっても感情がついてこない、勘定がついてくる。



 しかし、競争社会であっても、短期的勘定で動かないで――ほら、最近、それで大失敗した人がいるでしょう――中長期の勘定、損得計算をきっちりすると、別のことが見えてくるはずです。



 何が人生全体での利益か、それを得るにはどう行動したらいいか。それが問題です。



 
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コメントを引用させていただきました (かた)
2006-04-09 18:29:40
HIROさんの言葉がとっても心に響いたので、

最近観た映画のお話と絡めてブログの記事を書いちゃいました。

事後報告ですいません!
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