以上、まず般若経典のエッセンスが非常によく表われていると思われる個所をご紹介してきた。これまで述べたことがおわかりいただけばもう終わりと言ってもいいくらいだが、般若経典自体はまだ果てしなく語っているので、筆者ももう少し引用しながら解説していこうと思う。
次に「三仮品第七」という個所をご紹介したい。タイトルの意味は、私たちがものごとを実体的に捉えてしまう元は物事を名前で呼ぶことにあるということ、つまり名詞を使って把握し、名詞を使って把握して感受・認識し、それによって実体的な存在があると思ってしまうということである。
これについて『昭和新纂国訳大蔵経』版の註に「……名・受・法の三、皆悉く仮説(けせつ)なるを説くなり」とある。
先ほど木の話をしたが、「木」という名前(名)を使って木を見る。すると私たちはそれを「あそこに木がある」と感受・認識する(受)。そして感受・認識すると、「木」という実体的な存在(法)があると思う。これが「名―受―法」ということである。
もちろん仮に、確かに木は空気ではないし、木は大地ではないし、木は雨ではないし、木は太陽ではないという「区別」はできる。区別を付けるという意味で名付けることは仮には許容されるのだが、しかし名付けたとたんに、木が木だけで存在するように見え、感受・認識され、それどころか木という実体があると思えてしまう。
そういうふうに仮に名づけたり認識したりするのは、常識的には当たり前だし何の問題もないように思えるのだが、しかし深く洞察していくとそれは実体ではない。だから、この三つの事柄はすべて「仮に」ということなのだ、と述べられている。
爾時仏慧命須菩提に告げたまはく、『汝当に諸の菩薩・摩訶薩に般若波羅蜜を教ふること、諸の菩薩・摩訶薩の成就すべき所の般若波羅蜜の如くすべし。』即時に諸の菩薩・摩訶薩及び声聞大弟子諸天等此念を作さく、『慧命須菩提自ら智慧力を以て、当に諸の菩薩・摩訶薩の為に般若波羅蜜を説くべきや』と。是の仏力の為に、慧命須菩提諸の菩薩・摩訶薩大弟子諸天の心の所念を知り、慧命舎利弗に語らく。
ある時、ブッダがスブーティ長老に告げて言われた、「修行をしている菩薩たちに般若波羅蜜を教えるときには、菩薩たちが完成・成就する、そういう般若波羅蜜のように教えなさい」と。
この時にまわりで聞いていた菩薩や声聞たちとは、ブッダの声を聞いて修行し覚るというつまり直弟子のことである。その直弟子の中でも主要な十人を大弟子という。それからこうした説法の場には必ず天人や、仏教・インドの神話的な動物や一種の鬼、あるいは龍神などといった、さまざまな存在までが聞きに来ることになっている。これらがみな疑問を持ったというのである。「ブッダがいわば『語りなさい』と言ったので、スブーティがこれから語るのだが、これは自分の智慧で語るのか。スブーティが自分の智慧で『私はこう思っている』という話をするのか」と。
スブーティはブッダの覚りの力を被っていて、その中には他人の心がわかる「他心通」という神通力があり、その他心通でみなが思っていることを「彼らは私が『ブッダとは別に自分の意見を偉そうに述べるのか』と疑っているな」と洞察したという。
この個所について、般若経典は大乗経典であり、声聞にあたる部派仏教の人たちが「大乗は勝手に新しい説を説いているのではないか」という疑念を持っていることに対する大乗の自己弁護という面があるのではないか、と筆者は解釈している。
疑問・疑念に対して、「そうではない」と、代表者に語ることによって全員に語るという形で、スブーティがシャーリプトラに言う。
『諸の仏弟子の説く所の法、教授する所皆是れ仏力なり。仏の説く所の法と法相と相違背せず、是善男子、是法を学び、是法を証するを得、仏説は燈の如し。舎利弗、一切の声聞辟支 仏実に是の力無くして、能く菩薩・摩訶薩の為に般若波羅蜜を説かんや。』
「弟子たちが説く教えや教授することはみな、ゴータマ・ブッダの神通力のおかげを被ってのものなのだ。だから勝手な意見を言っているのではない」、つまり「私はゴータマ・ブッダの力をいただいて語っているので、私の個人的な思想を述べているのではない。ブッダが語ったのと異なる新しいことを言っているのではない」と。
それが成り立つのはなぜかというと、ブッダが覚っても覚らなくても、語っても語らなくても、真理は元からあるのであり、それをブッダは覚り語られたのであり、まったく同じ真理を私も覚ったのだから、それは「ブッダの神通力を私がいただいた」という表現をしてもいいし、そういう表現のほうが弟子たちの抵抗が少ない。「ブッダが覚ろうが覚るまいが、私が覚ったのだ。私が覚ったことを語るのだ」と言うと、仏弟子たち、すなわち部派仏教の人たちに大きな抵抗が出るので、それを和らげるために、「これはブッダの神通力をいただいて語るところで、ブッダがお説きになる真理あるいは真理の姿とまったく矛盾しないのだ」という表現を取っているのではないか、筆者は推測している。
「みなさん良き家の出の男性たちはこの教えを学んでこの教えを覚ることができる。その仏の説くところは、灯火(ともしび)のようなものだ」」とあるが、この場には男性の修行者たちしかいなかったのだろうか。そうではないと思われるがそれはともかく、ローソクが一本あるとする。そこにもう一本ローソクを持ってきて火をつけると灯火は二本になる。しかし、この両方の灯火は同じ灯火である。このローソクからこのローソクへと火がついて形は二つになっているけれど、同じ灯火なのである」と。
つまり、たくさんの灯火が灯っているその元はゴータマ・ブッダという方の覚られたことだとしても、それはブッダ独占のものではない。原始仏典の中でブッダ自身が「私の歩んでいる道は昔からあり、私が作った道ではない。私が再発見したのだが、実はこれはずっと昔からある道なのだ」ということを語っている。それと同じことで、大乗はブッダからこうして灯火が灯火へ伝わる如く受け継いでいるのだ、と。
そしてシャーリプトラに、「弟子たちが、まさに灯火から灯火へというふうな覚りを得ることができていないとしたら、菩薩・摩訶薩のために分別を超えた智慧を説くことができるだろうか」と言う。
爾時、慧命須菩提、仏に白して言さく、『世尊、説く所の菩薩、菩薩の字、何等の法を菩薩と名くるや。世尊、我等是法を菩薩と名くるを見ず。云何が菩薩に般若波羅蜜を教へんや。』
「般若波羅蜜を正しい仕方で教える」という話をしているのに、これは非常に逆説的(パラドキシカル)な表現である。「世尊・ブッダよ、ここで説かれているところの菩薩ということ、それから菩薩という言葉は、どういう存在を菩薩と名付けているのでしょうか。私たち――つまりほんとうに般若波羅蜜を体得している人間――は、特定・個別の存在として菩薩と名付けるようなものが存在するなどということは思いない。一体だから、分離した先輩の菩薩が、分離した後輩の菩薩に、分離した般若波羅蜜を教える、などということはない」と。ゴータマ・ブッダに「そうですね?」と確認しているわけである。
仏須菩提に告げたまはく、『般若波羅蜜亦但だ名字のみ有り、名けて般若波羅蜜と為す。菩薩と菩薩の字も亦但だ名字のみ有り、是名字内に在らず外に在らず中間に在らず。須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。
「般若波羅蜜」とは、いちおう名前として何か言わないと伝わらないので名付けたものだ、と。例えば本書に「般若経典のエッセンスを語る」などと名前を付けなければ、読者に本書の存在をお知らせできないようなものである。「○○の講義をする」という言葉を使わないことにはそもそも講義の場が始まらないので、仮に「般若波羅蜜」というものがあることにしておいて、「その説法をします」と言えば、「では、行って聞いてみようか」という話になる。「そのために、仮に言葉を使って般若波羅蜜があるかのごとく言うだけだ」と。だから、般若波羅蜜という言葉があって、般若波羅蜜と言ってはいるが、ほんとうは般若波羅蜜というものは実体としてはないのだという。
それから、菩薩という存在、菩薩という名前、これもただ名前を付けているだけだ、と。菩薩という名前のことを考えてみると、これは中にあるわけではないし、外にあるわけではないし、中間にあるわけでもない。ただ「分離はしていないけれども区別はある」ということを表現するために使っているので、実体的に私の中にあったり、そうではなく向こうにあったり、その中間にあったり、という意味で存在するものではない。だから物理的な存在ではなくて、精神的存在といえば精神的存在だけれど、それもまた仮にそう言っているだけだ、と。
そして、「私・我(われ)」という言葉を使う。ところが私という存在は、ご先祖さまの縁、お父さん・お母さんの縁、食べ物の縁、水の縁、空気の縁、等々々が和合して、しかも形が変わりながらある一定時間似た形を保っているだけである。
とはいっても、高齢になった人が、生まれてすぐ産湯を浸かっているアルバムの写真をしみじみ見ても、今の自分とは似ても似つかないと感じたりするものである。親から「これはおまえの生まれたときの写真だよ」と言われているから、「私はこんなふうだったのか」と思うだけで、今の私とはまるでといっていいくらい似ていないこともある。それどころか、老人になって若い頃の自分の写真を見ると、ある程度面影はとどめていても、そうとうに変わっていたりする。そういうふうに変化してきているものを同じ「私」と思うのは、言葉による記憶がまとまって集積されているからなのである。
それは、アルツハイマー病等で言葉の集積回路が壊れてしまうと、親しい人の名前や関係を表わす名称がわからなくなり、さらに進むと悲しいことに自分が誰なのかもわからなくなったりして、人格性が失われていくという例からも、言葉の集積によって変わらない一定の人格が想定されているだけだということがわかるのではないだろうか。
この私という存在も、いろいろな縁が合わさって・和合して、いちおう仮にはある。その元になる名前にはそもそも実体などというものはないから、生まれもせず滅びもしない。何かが実体としてあるであれば、それが生まれたとか生まれないということもあるだが、そもそもそういうものではないので、不生不滅だ、と。しかし約束事としての言葉で世間は成り立っているから、いちおう仮に「世間の名字を以ての故に説く」だけだ、と。ただ世間・社会の約束事の言葉として説くのであって、ほんとうにはそういうものが実体としてあるのではないという。
それについてさまざまな例を挙げ、菩薩に関しても同様だという。菩薩とはボーディサットヴァ、覚りを求める人・存在であるが、もちろんさまざまなご縁で存在・人間になっていて、たまたまあるご縁で、「覚りの世界がある」「般若波羅蜜多がある」と聞いて、ほんとうは掴むものではないのだが、「ああ、それを掴みたい」と思っている。そうしたことがすべて和合によって縁起的に現われているのを仮に「菩薩」という名前で呼んでいるだけだ、と。
そのようにすべてのことは仮に名前でそう呼んで言うだけなのだ、と。
経文ではこうしたことが長々と述べられているが、省略して先に進むことにしよう。
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